🌹 本記事は、『この結婚はどうせうまくいかない』原作第7巻・終章をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分や必要な箇所では、原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
※地名・人名について:本作には現時点で原作小説の公式日本語翻訳版がないため、地名・人名などの固有名詞は原文をもとに当サイトで日本語表記しています。今後、公式日本語版で異なる表記が採用される可能性があります。
終章|風はかつて吹いていた場所へと帰っていく 19
「……レジーナ・メーロの息子を、ビルバオで見つけ出しました」
その名を告げられても、皇帝は思い出せない。
二十八年前、自分が孕ませ、妻の手へ放り投げた女の名を。
一方で、その子を見つけ出し、十数年ものあいだ隠し通してきた者がいた。
——イネスだった。
レジーナ・メーロの息子を、ビルバオで
「何だと?」
皇帝は、今しがた口に含んだワインをすべて噴き出しかねない勢いで問い返した。
ところが次の瞬間には、レジーナ・メーロとは一体誰だったか、とでも言いたげな呆然とした顔になる。
「……それは、誰だったか?」
「皇后陛下の侍女のひとりでございまして……」
「あ……?」
妻の侍女に手を出したことが一度や二度ではなかったのだから、すぐに相手を特定できないのも無理はなかった。
それでも、目の前に座っているのがその妻のきょうだい——フアンであることだけは忘れていなかったらしい。 皇帝は気まずそうに咳払いした。
「朕も、誰のことかは察しがついておるが……」
「二十七年前——いえ、もう二十八年前になりますね」
言葉とは裏腹に、まるで察しがついていない皇帝のため、フアンが淡々と時期まで示してやった。
そこでようやく皇帝が、はっきりと「ああ」と声を漏らして顎を撫でる。
「レジーナ。あの可憐だった娘のことだな」
フアンは伏せた目の奥で、静かに皇帝を嘲笑った。
撒き散らした種の多さに比べて
手を出した女なら、数え切れないほどいた。 だが、いざ妊娠させた女まで区別がつかなくなるほど多かったかといえば、そうではない。
ティリダードについて——男の精力を無に帰す毒だ——と延々に喚き散らしていた男なのだから、避妊など一切してこなかったことくらい、少し頭の回る者なら誰でも察していた。
にもかかわらず、撒き散らした種の多さに比べ、実った子はあまりにも少ない。 むしろ本人にとって恥ずべきほど、乏しい結果だった。
若い頃なら、落胤の存在は皇族として大きな汚点だった。
だからこそ皇帝は、妻へ媚びるような顔をしながら、その始末をすべてカイエターナの手へ放り投げてきた。 それでいて、妊娠したという報せを耳にするたび、憎々しい妻の目の前にそれを突きつけてやることもできず、ただ悔しげに生唾を呑み込んでいた。
そんなくだらない鬱憤を晴らすためだけに、たった一夜の情事へ女たちの人生を賭けさせておきながら、誰ひとりとして正式な愛人として迎え、責任をもって養おうとはしなかった。
もちろん、それにはいくつか理由があった。
かつての皇帝が、下半身の奔放さとは裏腹に、頭ではカイエターナの奴隷も同然に振る舞っていたこと。 カルデロンの死後も、その偉大な名声を無視することができず、常に顔色を窺っていたこと。 そして何より、生まれついての性根が、ただ身勝手で歪んでいたこと。
皮肉なことに——もしカイエターナが夫と同じように品行を乱す女であったなら。 あるいは、夫の勢いを挫くことすらできないほど従順な妻であったなら。
皇帝は、己の節操のなさの代償を、とっくの昔に払わされていたことだろう。 ——まるで、その息子オスカルのように。
当時はまだ、カルデロンがオルテガにもたらした栄光と、その悲劇的な晩年を、誰もが鮮明に記憶していた時代だった。 貴族たちでさえ、皇帝はカルデロンの娘を冷遇しているのではないかと目を光らせていた頃である。
だからこそ、カイエターナが縦横無尽に夫の威勢を挫き、その本性を抑え込んできたことも、 皇帝が外で作った落胤を、表沙汰にならぬよう処理してきたことも、結果だけを見れば、皇帝の治世を守ることに間違いなく役立っていた。
それを本人も知っているはずだった。
それなのに皇統の危うさが問題になると、決まってその原因を妻の嫉妬へ押しつけるのだ。
もっともフアンは、今となってはそんなことで腹を立てたり、不快になったりするほど、この夫婦に関心を残してはいなかった。
カイエターナがとうに処理したものとばかり
「それで、その落胤はビルバオでどうやって生き延びておったのだ? カイエターナがとうに処理したものとばかり思っていたが」
「……子を生かしたかった女が、密かに別の赤子の遺体とすり替えたそうでございます」
「ほう。なかなか感心な真似をしたものだ」
(よく言う)
フアンは内心で冷笑した。
(その当時に知っていたなら、自分の手で連れ戻して殺していただろうに)
「よくもカイエターナの裏をかいたものだ。今もなお、カイエターナに仕えている身でありながらな」
外へ連れ出すことには成功したものの、その後の隠れ先までは知らなかったこと。
彼女自身、子は死んだものと思って暮らしていたこと。
そしてカスタニャール伯爵が逆に足取りを追い、見つけ出したこと——。
「現在は、ビルバオ大司教直属の護衛騎士として身を置いているとのことです」
「何? 聖騎士だと?」
「はい。聖域に奉仕する身でございます」
「立派に育ったものだ。よくぞ……よくぞ育ってくれた」
カイエターナと揃って信仰心など地を這うような男である。 ゆえにその言葉も、信仰に身を捧げたことへの感動というより、生きていただけでも大したものだというのに、よくぞここまで育った——その程度の意味だった。
「それほどの男であれば、外で育った落胤であることなど咎め立てする余地もあるまい。それどころか——宮廷で育った皇統より、よほど優れているのではないか?」
「仰る通りでございます」
皇帝の言う「宮廷で育った皇統」とは、おそらくオスカルを指しているのだろう。 だがフアンは、皇帝本人までも含めてその言葉に同意した。
皇族らしくない皇族
フアンもまた、一度だけ『ローデス』を目にしていた。
幼い彼を引き取り育てたレリダの司祭から授けられた本来の名——マテオ。 その名で聖騎士となった姿までも。
ヴァレスティナ小公爵・ルシアーノから、ある程度の手ほどきは受けていた。 それでも、生涯を平民として生きてきた者特有の振る舞いは、そう簡単に消えるものではない。
だが——
知性を宿した澄んだ眼差し。 自然と人目を引く、品格ある佇まい。
それらは、彼が聖騎士であるという身分に疑いを抱かせないほど、その姿によく馴染んでいた。 短期間の訓練しか受けていないにもかかわらず、マテオの姿はすでに堂に入っていた。
もともと肉体労働によって鍛えられてきた、逞しい体躯のおかげもあるのだろう。 外で苦労して育ったため、多少痩せていることだけが惜しまれた。 とはいえ、それが惨めさや華奢さを感じさせるわけでもない。
ルシアーノは、まだ満足していないようだった。 だがフアンはむしろ、マテオの気取らず、洗練さに欠ける姿こそが強みになると考えていた。
——皇族らしくない皇族。
帝国の民から見れば、自分たちとどこか似ている皇太子。 それでいて、生まれ持った血統だけは自分たちとは明らかに異なる存在。
それこそが、今のオルテガには必要だった。
ヴァレンザではない皇室など、想像することさえできない
オルテガの民は、ときに革命家のような急進性を見せることがある。 だが、その根底はおおむね保守的だ。
資格のない皇太子なら、怒りに任せて鍬で突き殺すことさえできる。 その一方で、いざ皇室に後嗣がいなくなれば、今度はそのことに不安を覚える。
皇帝がオスカルの血筋に嫉妬しながらも、一時はその存在そのものを聖物のように扱っていた理由も、すべてそこにあった。
皇帝と皇室をどれほど激しく非難していようとも、誰かが反乱を起こして自ら皇帝を名乗れば、その者は生涯、主君を裏切った反逆者だと指弾される覚悟をしなければならない。
それだけではない。
皇統が自然に断絶し、皇室を治める家系そのものが変わることになれば、新たな家系から最初に皇帝となった者は、生涯にわたって民衆の罵声を浴び続けることになると言っても過言ではなかった。
オルテガの民は、裏切り者を心底嫌う。 臣下は、いつまでも臣下の座に留まるべきだと信じている。
今の皇帝を愛しているわけではない。 皇太子に至っては、嫌悪していた。
それでも、わずか二代前まで遡れば—— 彼らが今なお称賛してやまない聖君、ロドリゴがいるではないか。
今の『ヴァレンザ』は憎い。 だが、ヴァレンザではない皇室など想像することさえできない。
それが、オルテガの民だった。
彼らはただ、半世紀前のロドリゴの治世を懐かしみながら待ち続けている。 いつの日か、再びヴァレンザの血から、ロドリゴのような皇孫が生まれることを。
「……ちょうどよい転換点になりそうだな」
そして——マテオは、その答えになり得た。
とりわけ今。 帝国の民が『皇室らしいもの』そのものに、嫌悪さえ抱き始めているこの時代においては。
「とりわけ聖騎士として奉職しているとなれば、欲望とはほど遠い人物に見えるだろうし……そのおかげで、オスカルとはなおさら鮮やかな対照をなすだろう」
「仰る通りでございます。それどころか、大司教が養子として迎え、自ら教育を施したほどの者です。誰があえて、その出生を貶めることができましょうか」
「さよう。神が自ら引き取り、育て上げられたも同然だからな」
皇帝は同意すると、静かに机の上を指で叩いた。 雨粒でも落ちるように、不揃いな間隔で、トック、トック——と音が響く。
フアンはただ、マテオがこの男の集中力のなさまで受け継いでいないことを願った。
「いかがお考えでございますか?」
「もう少し、考える時間が必要だ」
いくら熟考したところで、まさか別の答えに辿り着けるとでもいうのか。 滑稽ではあったが、フアンはそんな思いをおくびにも出さず、変わらぬ様子で静かに腰掛けていた。
マテオを見出したのは、イネスだった
いずれにせよ、今のフアンにとって最も重要なのは、自分には何の『下心』もないように見せることだった。
そもそも、この件を始めたのはフアンではない。
マテオを見出したのはイネスだった。それから十数年もの間、その存在を隠し通してきたのも彼女である。そして現在、その後始末を引き受けているのは、ヴァレスティナ小公爵・ルシアーノだった。
フアンがしたことといえば、ビルバオ大司教との交渉を手助けし、彼らとともに煙幕を張ることくらいだ。
それでもイネスが実の父レオネルではなく、舅であるフアンにこの役目を任せたのには理由があった。
「『充分に冷静ではない』とは、どういう意味だ」
そう怒るレオネルに、イネスはただ、「文字通りの意味です」と答えた。
皇帝は、レオネルの姿を見るだけで無意識に身を縮こませるような男である。そんな皇帝の前へ、ヴァレスティナ公爵が突然、新たな皇太子を連れて現れれば、疑心暗鬼に火をつけるだけだった。
レオネルと皇権。その二つを同時に皇帝の目へ映すこと自体が悪手なのだ。
その点、フアンはこれまで皇太子の母方のおじだった。
今度の皇太子とは血縁関係もなく、皇帝にとっては以前より警戒する理由が少ない。さらに、皇后カイエターナを説得する役目まで期待できる。
そして、皇后の兄であり、エスカランテの血を引く皇太子を失ったフアンが、私的な利害を超えて真っ先に新たな皇太子を支持する。
その姿そのものが、他の貴族たちにとっても良き手本となるはずだ。
お納めにならなければ、この先も永久に何者でもございません
「……確かに喜ばしいことなのだが、何かが引っかかる気分だな」
「陛下のご落胤が見つかりましたことをお伝え申し上げましたのは、どこまでもオルテガの不安を憂えてのことでございます。戦場ではカッセルがあのように戦死し、皇太子殿下におかれましても不祥事の中で崩御されました。今、オルテガの臣民たちは、この先の見えぬ不安に耐えかねております」
「ゆえに、これはどこまでもオルテガのため——純粋な忠義からの行いである、と?」
「その者はむしろ、ビルバオ大司教の庇護のもとにある人間でございます。エスカランテとは何の関わりもございません。お望みでしたら、いくらでもお調べください」
「よい。朕が公爵をどうして疑おうか」
「私はただ、その存在を陛下にお知らせ申し上げただけにございます」
フアンは淡々と言った。
「『それ』は、陛下がお手元にお納めになれば、紛れもなく陛下の御子となります。お納めにならなければ、この先も永久に何者でもございません」
「……」
「すべては陛下のお心一つにかかっております」
「つまり、どこまでも朕だけの皇太子、ということか……。エスカランテの懐へ取り込むつもりはないのだな?」
「どうしてそのようなことができましょうか。息子の死に打ちひしがれている妹がおりますのに」
「……言われてみればそうだ。カイエターナにとっては、耐え難いことになるだろうな」
「また、新たな後継者をお立てになった際、エスカランテや皇后の顔色を窺うあまり、本来なら支持すべき貴族たちが、それを躊躇することもあり得ましょう。私は彼らをその縛りから解き放ちたい。そしてエスカランテもまた、皇室の問題から解き放たれることを切に願っております」
「……皇室の問題から」
皇帝が静かに呟いた。
「私どもは、すでに長男を失いました。今はただ、安穏に暮らすことだけを願っております」
「ならば、公爵のきょうだいには?」
「いずれは他の家門と同じく、一貴族として支持を表明するだけの立場となりましょう。ただ、本日の件については、しばらくは伏せておいていただきたく存じます。子を失ったばかりの、その胸中を何卒お察しいただき……」
「よかろう。そうしよう」
エスカランテ公爵が、あれほど慈しんできたきょうだいを差し置いて、真っ先に自分のもとへ話を持ち込んできたのだ。
皇帝はまるで、世のあらゆる憂いが一度に晴れたかのような顔で、フアンの肩をぽんぽんと叩いた。
本当に、朕の種なのか?
だが、ふと再び何かが引っかかったのか、訝しげに顎を撫でる。
「しかし、皇室であれメーロであれ、とにかくメンドーサで人目に触れながら育った者ではないのだろう?もしや偽者が名乗り出ているのではないか……。あまりに幼い頃に宮廷の外へ放り出され、誰の監視もないところで勝手に育った男ではないか」
「もちろん、そのようにお疑いになるのも無理はございません」
「本当に、朕の種なのか?」
その言葉を聞いた瞬間、フアンは思い出した。 いつだったか、イネスが通りすがりに何気なく呟いていたのだ。
——『どうせあの男は、“種”の話も言い出すでしょう』と。
幸いなことにマテオは、「血筋は嘘をつかない」という諺をそのまま体現したかのように、実の父親の多くの部分を写し取ったかのような男だった。 さらに幸いなことに、見る者に与える印象だけは、父親とはまるで違っていた。
「息子の行方はおろか、生死すら知らなかったレジーナ・メーロが数年前、すでに供述していた内容。出生時に皇室が記録していた身体的特徴。そしてレリダで平民の孤児として育ち、現在はビルバオで聖騎士となっているあの男が辿ってきた経歴と身体的特徴——そのすべてが一致しております」
「それでも、万が一にも偽者であれば……」
「聞き及ぶところでは、一目見ただけで陛下の御子と分かるほど、生き写しであるとのことです。しかしながら、私も早くから同じ疑念を抱いておりましたので、まずは『仮』という意味合いで皇太子にお立てになってはいかがでしょうか」
「仮だと?」
「陛下はいまだ、お盛んでいらっしゃいます」
フアンがただ事実を述べるように淡々と言うと、皇帝の口元が、わずかに緩みかけた。
「まずは形だけであれ皇太子を立て、再び帝位の基盤を盤石になさる。そして別の後嗣がお生まれになるまでの間だけ——」
フアンは静かに続けた。
「すなわち、誕生から成長に至るまで、陛下の御子であることを疑いようもなく証明できる、完璧な皇子がお生まれになるまでの間だけということでございます」
「……」
(もちろん、決して叶うことのない夢だろうが)
決して叶うことのない夢
皇帝には、そんな荒唐無稽な夢でも追わせ続けておいた方が、マテオにとっても都合がいい。
皇太子オスカルがあのように路上で無残に殺されて以来、皇帝はすっかり萎縮し、女と交わることさえできずにいた。 己が再び放蕩という大きな失態を晒した瞬間、死んだ息子の影が化け物のような姿となって、自分を呑み込む——そう理解しているからだ。
(あの親にして、あの子あり)
皇帝は今や、その言葉を何より恐れていた。
だが、恐れも警戒も、いつだってこの男自身にとって都合よく働くものだった。
(ベッドの上で転げ回ることが、あれほど好きな男なのだから)
(心残りのないよう、存分に興じてから死なせてやらねばな)
まもなく、新たな皇太子を得たことで帝国は安定を取り戻すだろう。
その環境の中で、皇帝の『あの行い』に建設的な名分まで与えてやれば、再び気を緩め、発情した犬のようになるに違いない。
——新たな後嗣をもうけるため。
そんなもっともらしい理由さえあれば、皇帝は再び女のスカートの裾へ潜り込むことばかり考えるようになる。 そうして、扱いやすい男へと戻れば戻るほど、『大司教の養子』というマテオの存在は、ますます輝きを増すことになる。
「落胤は、その時までお引き取りになり、お使いになられても差し支えないでしょう。都合がよく、役に立つところだけをお取りになればよろしいのです」
フアンは淡々と続けた。
「臣民たちの目を気に病んでおられるようですが、結局のところ、何より重要なのは陛下の御心ではございませんか」
やがて皇帝は、完全に納得したかのように首を縦に振った。
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