🌹 本記事は『バスティアン』原作76話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。
「私に言うべきことは……ないですか?」
オデットの問いに、バスティアンは答えなかった。
暖炉の炎が揺れる夜、二人のあいだに横たわる距離は、埋まりそうで埋まらなかった。
そしてオデットはその夜、ひとつの決意を固めた。
埋まらなかった距離
バスティアンはオデットを見つめながら、
舌先にまでこみ上げた言葉を飲み込んでいた。
——「一緒に行こう。」
トロサ諸島には、家族のための宿舎が整えられている。
社交界を離れて生きられないという類の女ではない。
周囲の監視から解き放たれた、
二人だけの場所へ連れて行く方がずっとましかもしれない。
しかし赴任先にオデットを連れて行くことは、
この結婚を永遠に続けるという宣言と同義だった。
その渇望が強まるほど、
この感情が一時の欲望にすぎないのではないかという疑念も深くなっていった。
オデットは美しい女だった。
こうして感情が理性を凌駕してしまう。
そんな軽率な感情に流されて残りの人生の行方を定めるのは、愚かなことだった。
「いいえ。ありません」
淡々とした答えが、炎の光の中へ溶けていった。
オデットは「あ……」と小さくささやき、うなずいた。
バスティアンの袖を離した指先に、ひりつくような痛みが走った。
ちょうど身を引こうとしたその瞬間、バスティアンが再び口づけてきた。
頬に触れた唇は温かかったが、それだけのことだった。
父は酒に酔えば暴言を吐き、物を壊した。
バスティアンは酒に酔えば笑みが増え、優しくなる。
正反対でありながら、良くない酒癖という点では同じだった。
結局はそういうことだった。
その事実を受け入れると、むなしい期待の残像さえも跡形なく消え去った。
「眠らせてくれないか?」
握っていた髪を放しながら、バスティアンが呆れるような冗談を口にした。
「残念ですが……あなたを寝かせるには、少し大きすぎるみたいですね」
オデットは慎重に一歩下がり、距離を広げた。
バスティアンはにこりと笑い、納得したようにうなずいた。
そしてよろめきながら部屋を横切り、そのままベッドに倒れ込んだ。
深夜の決意
オデットは暖炉の前に立ったまま、その光景を黙って見守った。
針の先一つ入る余地もないほど徹底していた男が、
布団さえまともに掛けられない姿で眠りにつく。
オデットはベッドへと歩み寄った。
ナイトテーブルの照明を落とし、無造作に脱ぎ捨てられたスリッパを片づけた。
バスティアンを真っ直ぐに寝かせるのには、思ったよりも長い時間がかかった。
父とは比べものにならないほど大きく、頑健な体を持つ男だったからだ。
きちんと横たえたバスティアンの体に布団をかけながら、
オデットは現実を直視した。
ティラを守るためには、この男を裏切らなければならない。
私のすべてである家族と、二年契約の雇い主。
何も持たない子供と、すべてを手にした男。
どんな選択をすべきかは、すでに決まっているも同然だった。
眠るバスティアンの顔をひたすら見つめるうちに、
深夜一時を告げる振り子時計の音が響いた。
そっと閉じていた瞼を開いたオデットは、ランプを消して背を向けた。
──誰かが地獄に堕ちねばならないのなら、私が行く。
ティラのために真実を葬ると決意したオデットは、心に誓った。
朝食の卵
バスティアンの一日は、いつもと変わらずに始まった。
昨夜の泥酔の痕跡といえば、オデットに探るような視線を向けたことぐらいだった。
朝食のテーブルの向かい側に、オデットはおとなしく腰掛けていた。
昨夜の出来事を不快に思っている様子はなかったが、寝不足のせいか、目が少し赤かった。
「今日は占星術師の役を務めるつもりはないのですか?」
バスティアンの気の抜けた問いが、張りつめた静けさを破った。
コツン、と茹で卵を割る音が響いた。
「お酒を控えれば、幸運に恵まれる運勢のようですね」
割れた卵の殻をじっと見つめながら、オデットはいい加減な占いを告げた。
その厚かましい皮肉に、バスティアンはつい声をあげて笑ってしまった。
「では今回は、私があなたの運勢を見て差し上げましょう」
バスティアンはオデットのエッグカップを手に取り、
妻の真似でもするように慎重に卵の殻を割った。
執事のロヴィスはその仕草にぎょっとして足を止め、そっと視線を逸らすことで窮地を切り抜けた。
「酔っ払いに気をつける一日を送ってください」
卵をちらりと見やったバスティアンの視線は、すぐにオデットへと戻った。
まん丸な瞳を瞬かせたオデットの口元に、ふっと笑みがかすめる。
すぐに消えてしまった表情だったが、その余韻はしばらく残った。
「……オデット」
和らいだ空気の中で、バスティアンは衝動的に名を呼んだ。
オデットは真っ直ぐにバスティアンを見つめ返した。
昨夜、オデットが投げかけてきた問いがふと脳裏をよぎった。
縋るように、切実な眼差しだった気もする。
しかし酔いの中の記憶を軽々しく信じることはできなかった。
「君も皇帝の閲兵式に招かれていると言っていたか?」
バスティアンは結局、その問いを飲み込んだ。
奥さまの影
当分のあいだはオデットの影となり、一挙手一投足を監視し報告せよ──そう命じられていたモリーは、暗記した手紙を裏庭のドラム缶に放り込んだ。
午前の仕事はいつもと変わらなかった。
オデットの身支度を手伝い、マルグレーテの餌を用意する。
使用人休憩室に呼び出しの鐘が響くと、モリーはぱっと手を挙げて立ち上がった。
「奥さまの書斎ですね。私が行きます!」
「やれやれ、まるで奥さまの影か何かみたいだね」
同僚の侍女の笑い声に、モリーは動揺を顔に出さなかった。
書斎でオデットは言った。
明日の午前中に外出する。お父さまに会いに行く、と。
夫のために父と距離を置こうとは思ったけれど、大怪我をして床に伏していると聞いたのだから、と。
「ご主人様とご一緒なさるので……?」
「ええ。結婚生活をうまくやっているところをお父さまに見せて差し上げるのが良いでしょうし、二人でじっくり話すこともたくさんあると思うの」
モリーは、よくは分からないが、
バスティアンがこの件に関わるのは望ましくない気がした。
「幸い、明日なら時間が取れそうだとおっしゃっていたわ」
腕に抱いた子犬を撫でながら微笑むオデットの姿からは、
少しの怪しさも感じ取ることができなかった。
「ご苦労さま、モリー」
深々と頭を下げたモリーは、そそくさと書斎を後にした。
どうやら今日は、森をもう一度駆け抜けねばならない日のようだった。
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