🌹 本記事は、『この結婚はどうせうまくいかない』原作第7巻・終章をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分や必要な箇所では、原作の表現を引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
※地名・人名について:本作には現時点で原作小説の公式日本語翻訳版がないため、地名・人名などの固有名詞は原文をもとに当サイトで日本語表記しています。今後、公式日本語版で異なる表記が採用される可能性があります。
終章|風はかつて吹いていた場所へと帰っていく 18
地下牢に、かつての皇太子妃がいる。
——お願いですから、いっそ私を殺してください。
歯を抜かれ、指を砕かれ、それでもアリシアは、自分が踏みつけた女たちを「芝生」にすぎなかったと切り捨てる。
そして自分だけは、意図的に害された被害者だと言い続けた。
カイエターナはその願いだけを、決して聞き入れない。
殺してしまえば、二度と殺すことができなくなるから。
お前を殺してやるつもりなど到底ない
「……お願いします。お願いですから、いっそ私を殺してください。
カイエターナ様……どうか、殺してください……」
空気が抜けていくような声だった。
歯を根こそぎ抜かれた口元。げっそりと肉の削げ落ちた頬。
かつての青い瞳からも生気は失われ、濁ったままカイエターナを見上げていた。
カイエターナは、枯れ果てたアリシアの顔を嫌悪と幻滅を込めて見返した。
だが、その目だけは——何か面白いものでも見つけたかのように、奇妙に輝いていた。
「アリシア。私には、お前を殺してやるつもりなど到底ないのだよ」
アリシアは縋った。どうか今こそ慈悲を。
あなたのお孫様をご自身の手で殺めたではありませんか——と。
「滑稽だな」
「幼子を殺めたのですから、天国へ……いけるはずがありません。私をお許しになってこそ、あなた様もお許しいただけるのです……」
——その程度のことで天国へ行けなくなるのを恐れるような性分なら、今日まで皇后として生きてこられるはずもない。
カイエターナは、自分の残忍さを知っていた。それを認めたうえで生きている。
だがアリシアは違った。
己が仕でかしたことを忘れ、まるで何の罪もないまま一方的に痛めつけられているかのように振る舞う。今ここで死ぬことさえできれば、天国が自分を迎えてくれるとでも思っているかのように。
芝生が死ぬことを願って踏むわけではない
カイエターナはそんなアリシアを見つめ、慈悲深くさえ見える微笑みを浮かべた。
「イネス・エスカランテひとりを石女にしてやろうと、子を望んでいたあれほど多くの女たちの口へ、お前が突っ込んだものと、一体、何が違うのだ?」
「あの女たちは……ただ、子を孕むことがより難しくなっただけに過ぎません」
アリシアに言わせれば、もともと子を宿すことのできない者たちが、儚い希望を抱いていただけ。自分が彼女たちを破滅させたのではなく、初めから母親になる宿命ではなかったのだ。
「神がお決めになられたことです。生まれつき、その資格などなかったのだから」
「宿命ではなかった、とな」
「そのように皆して、身の程に合わぬ高望みをしたせいで……オスカル様のためという大事に巻き込まれただけのこと……」
息を喘がせながら、アリシアは続けた。
「人間が芝生の上を通り過ぎれば、芝生は踏みつけられるでしょう。それと同じなのです。人間は、ただ芝生の上を渡るために踏むのであって……芝生が死ぬことを願って踏むわけでは、ありません……」
長く話すほど、その声は聞き取れないほど潰れていった。今やその言葉を理解できるのは、この地下牢でカイエターナただひとりだった。
アリシアにとって、世界で最も自分を憎む者が、世界と自分を繋ぐ唯一の窓口となっていた。
「ゆえに、それと変わりないと?」
「私が彼女たちを、わざと害したわけではなかったではありませんか」
哀願していたアリシアの瞳に、鮮明な敵意が宿った。
「あなた様は、ご自分が何を害しているのか、はっきりとお分かりになりながら……その蛮行を、私に……しでかされたのですよ。神が私に授けてくださった子を、あなた様の血脈を……!」
カイエターナはアリシアの頬を強く打ち、立ち上がった。
「大事。大事、とな……。私の息子に女を捧げる、あの“大事”のことだな」
「私はオスカル様のためなら、できぬことなどございませんでした。お望みになるものが何であれ、あの方が幸せにさえなれるのなら……」
「神が、男に女をあてがう者を好まれるなどという話は、耳にしたことがないがな」
死ぬ勇気すらない女
大量のパノテに蝕まれた身体には、たった一度の平手打ちに耐える力さえ残っていなかった。
アリシアは床へ倒れ伏した。両腕は後ろ手に縛られ、両脚も折られている。自力で起き上がることなどできない。それでも、まだ泣く力だけは残っていた。
(舌を噛み切って死のうなどと、よくも考えついたものだ)
あれほど死を望みながら、いざ舌を噛めば痛みに耐えられず、わずかに血を流しただけで終わった。
(死ぬ勇気すらない、情けない女め)
カイエターナは、生意気にも舌を噛んだその歯を、三日かけてすべて抜かせた。そのたびに主治医を呼び、命に障らぬよう手厚く治療まで施した。その甲斐あって、アリシアは無事に回復した。
だが本人にとっては、ひどく不幸なことだった。自ら死ぬ最後の機会まで失ったのだから。あのとき最後までやり遂げていれば、天国へは行けずとも、少なくともカイエターナから逃げることだけはできたはずだ。
カイエターナは哀れむように舌を鳴らした。
「口では毎度、いっそ死んだ方がましだと言っているが……実のところ、このように打ちのめされている方が、いまだ死ぬことよりはましなのだろう。そうではないか?」
「あなたは……人間ではない……」
アリシアが掠れた声を絞り出した。
「本当に……大きな罰を受けることになる……」
「どうせ、お前が許してくれるというのに。この身に何を心配することがあろうか?」
「……」
「許すことのできぬ者は、天国へ辿り着くことができぬと言っていたではないか」
カイエターナは悠然と続けた。
「私は望んだこともないし、お前を許してやる理由などないのだが……お前は私を許さねばならぬのだな、アリシア。そうではないか?」
「……」
「夫を愛し、生涯を善く生きたのだから——天国へ行かねばならぬものな?」
バルカの不妊毒によって、バルカの女が
——地獄に落ちるのはあなただ、息子の最後の血脈を自らの手で殺めた代償を必ず払うことになる……。そう呪詛を吐くアリシアの、後ろ手に縛られた手をカイエターナの靴の踵が踏みつけた。
骨が繋がる暇さえないほど幾度となく砕かれてきたため、もはやその手は形を保つことすら難しかった。それを見下ろした瞬間、カイエターナの胸を束の間の満足感が満たす。
——だが、それもすぐに消えた。
いくら水を飲んでも渇きの癒えない病にでも罹ったかのように、何をしても足りなかった。
アリシアがどれほど苦しもうとも、自分以上に苦しんでいるとは思えない。
まるで残された人生のすべてが、アリシア・バルカを踏みにじるためだけに存在しているかのようだった。
大量のパノテを飲ませ、生死の境を彷徨わせてしまったせいで、今となっては死なせぬよう加減しながら扱わなければならない。 そのことさえ、カイエターナには苦痛だった。
それでも——誰が手を下さずとも、毎日、確実に死の苦痛を味わい続けていることだけは気に入っていた。毎分、毎秒。 自分が何もしなくとも、絶えずアリシアの首を締め上げ、心臓と肺を蝕み続けるものがある。
(バルカの不妊毒によって、バルカの女が死に瀕しているのだな)
カイエターナは身を屈め、静かに手を伸ばした。その手がわずかに持ち上がっただけで、アリシアの全身が強張る。
さっと血の気を失った顔。
その反応はまるで、徹底的に調教された獣のようだった。
取り返しのつかないことは、よく見極めてから
カイエターナは幾分和らいだ顔で微笑み、アリシアの手をゆっくりと撫でた。
「……お前がそれほど愛したという私の息子と同じように、手を切り落としてしまおうかとも思ったのだ。それでも慈悲をかけて、こうして繋げたままにしておいてやったというのに。不届き極まりないな」
アリシアは、自分が何を乞うているのかさえ分からぬまま懇願と謝罪を繰り返した。やがてその声は言葉ですらなくなり、獣の鳴き声のように崩れていく。
カイエターナは、聞き分けのない幼子を見るように首を振った。
「大袈裟な」
「……あなたを絶対に……許さないわ……」
「これ以上やかましくするなら、舌を切り落としてやろう」
「化け物……。あなたは、化け物よ……」
カイエターナはふと思い直した。
「もっとも、切り落としてしまえば、お前の叫び喚く声が名残惜しくなるだろうな」
「だからこそ、取り返しのつかないことは、よく見極めてから仕でかさねばならぬのだ、アリシア。たとえ、それがどれほど憎い相手に対してであろうとな」
では舌の代わりに、何を切り落としてやればよいだろう。
——ねえ?
優しく尋ねるような声に、アリシアはカイエターナの足元から逃れようと必死に身をよじった。
そして、かつて自分が他の女たちへしようとしていたことを、今度は自分にすると告げられた瞬間、その顔が恐怖で真っ白に引きつった。
もっとも、カイエターナも本当にそのような醜態を見たいわけではない。
アリシアが苦しむさまは見逃したくないが、そこまで汚らわしい姿を目にするのは、自分にとっても耐え難かった。
一度、愛とは何かを語ってみよ
「夫でもない男と交わるのが初めてというわけでもあるまい。一体、何がそれほど嫌なのだ?」
アリシアは掠れた声で否定したが、カイエターナは構わず続けた。
「イハルだけではない。至高にして純真な婚約者を演じながら、アギレとも関係を持っていたそうではないか」
カイエターナは、さらに念を押した。
「そうだ。オスカルと同じ、赤い髪をしたあの男だ」
二人の視線がぶつかり合った。カイエターナは異様なほど柔らかな微笑みを浮かべる。
「だから皇太子妃よ、一度、愛とは何かを語ってみよ」
——私が殺めたものは、本当に私の血脈だったのだろうか?
「……オスカルの子よ。オスカルだけの子だったのだから……!私が、あのような汚らわしい奴らの種など孕むと思うか!」
他の男たちとの関係は否定できなくとも、その一点だけは揺るぎない真実だとでもいうように、アリシアは叫んだ。
折れた手で床を引っ掻く音が、地下牢に響く。
カイエターナはその血走った目を見下ろした。
おそらく、自分も今や似たような目をしているのだろう。
——あの愚かな女と、似た姿になっていくとは。
「あなたが殺したのよ!オスカルの子を、あなたが……!」
(……信じるものか!)
命というものは、指と同じなのだよ
カイエターナは、床を引っ掻くアリシアの爪をすべて剥がすよう命じた。
「爪なら剥がしても、また生えてくる。だが指は、一度切り落とせば二度と生えてはこぬ。それでは一度楽しんだだけで終わってしまう」
男たちに押さえつけられながらも、アリシアは呪詛を吐き続けた。
「殺せ……私を殺せ……」
——これでは、天国の近くにすら辿り着けまい。
カイエターナは微笑んだが、やがてその表情から笑みを消した。
「お前を殺すだと? それで一体、誰が得をするというのだ」
「……殺してやる。カイエターナ……貴様を、殺してやる……!」
「命というものは、指と同じなのだよ」
カイエターナは静かに告げた。
「お前を殺してしまえば、二度とお前を殺すことができなくなる」
——だから
私が生きている限り、お前も生きていなければならぬのだ。
たとえ、それが永遠になろうとも。
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