泥の中の愛③|111話 夜が来る ─ 逃亡資金と、冷たい水

バスティアン|泥の中の愛③|111話 夜が来る ─ 逃亡資金と、冷たい水 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作111話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

オデットは小さな書斎で、
テーブルに広げた小切手と紙幣、硬貨を見下ろした。

逃げるための準備が、静かに始まっていた。

逃亡資金

小切手と紙幣、硬貨、そして自分の貴重品まで。

持っているすべてをかき集めたが、その額はみすぼらしかった。

この二年間で貯めてきた、
まとまったお金のすべてをティラに渡してしまったからだった。

あの子を守らなければという思いばかりに気を取られ、
この結婚が終わった後のことに備えられなかったミスが痛恨の極みだったが、
今さら時間を戻す道はない。

ならば、今できる最善を探すしかない。

オデットは小さな書斎を探した。
名前の頭文字が刻まれた万年筆と銀の指貫も箱に入れた。

ティラを送り出したら、出ていく。

オデットは改めて決意を固めながら、金と貴重品が入った箱を整理した。
これで、国境の外に出てしばらく身を隠すくらいにはなるはずだった。

あの男は、どうしても私に子どもを産ませるつもりだ。

毎日繰り返される情事は、
オデットがこれまで知らなかった種類の異常さを伴っていた。

オデットは鍵付きの引き出しの一番下の段に箱を入れた。
鍵は、本棚の中央に差してある画集の中に隠した。

ジェンダース伯爵の言葉

不安に波打つ胸をかろうじて落ち着かせたオデットは、
夕日が差し込む窓の前へとゆっくり近づいた。

庭いっぱいに咲いたハマギクの香りが、風に乗って漂ってきた。

ジェンダース伯爵の推薦を受けて植えた花だった。

——『助けが必要なことがあれば、いつでも言ってください』

彼が時折かけてくれた優しい言葉が、
儚い希望となってきらめき、消え去っていった。

世間を欺くための契約結婚だったこと、
父親を不具にした妹を守るために夫を裏切ったこと、
その罪の代償として子どもを要求する夫から逃れるために助けてくれなどと、
どうして言えようか。

他の誰の名前を思い浮かべてみても、結果は同じだった。

—— 結局私は、一人なのだ。

唯一残ったぬくもり

その残酷な真実が棘となって刺さった瞬間、
キャンキャンと吠える声が聞こえてきた。

暖炉の前で昼寝をしていたマルグレーテが、
いつの間にか足元に近づいてきて、尻尾を振っていた。

オデットは静かな微笑みを浮かべ、マルグレーテを抱き上げた。

クッションに押しつけられた毛並みを整え、
曲がったリボンの形も直してやった。

「もう大丈夫よ、メグ」

オデットは、淑女らしい姿に戻ったマルグレーテの鼻先にそっとキスをした。
眠りから目覚めたばかりの犬は、限りなく柔らかく、暖かかった。

オデットは、慰めを与えてくれる小さな体をぎゅっと抱きしめたまま、
日が暮れていく夕景を見つめた。

進入路の向こうから車のヘッドライトがきらめき始めたのは、
インク色の闇が降りた頃だった。

—— 夜が来る。

ふと、その事実を思い出したオデットの眼差しが深くなった。

次第に近づいてきた光は、屋敷の中央玄関の前で停まった。
バスティアンが降り立った。

いつもより早い帰宅だった。

マルグレーテを床に下ろしたオデットは、か細く震える手で窓を閉めた。

どうやら今日は、夜がさらに長くなりそうだった。

冷たい水

「ミュラー様からのお手紙が届きました、旦那様。
今し方、お使いの方がお持ちになりました」

次第に速く交錯する荒い息遣いと喘ぎの間に、
丁重な報告をする執事の声が流れ込んできた。

トーマス・ミュラーからの急ぎの手紙が届いた。
その夜、ようやく訪れた中断だった。

バスティアンの視線はふと鏡へ向かった。
鏡越しに視線が重なった。

涙で濡れた顔とは対照的に、
オデットの青緑色の瞳は驚くほど静かだった。

風のない水面のようなその静かな眼差しは、
なぜか不快なほど長くバスティアンの意識に残り続けた

「私の部屋に置いてください。すぐに確認します」

短い指示を執事に残したバスティアンは、そのまま事務的な動きを続けた。

そうして、事が終わるとガウンを羽織って自分の部屋へと向かった。

会社の仕事を何よりも重要視する男だから、今夜はこのあたりで終わることができそうだ。

オデットはその希望にすがって疲れた体を起こし、
浴室へ向かった。

シャワーの下に立つと、
水の音がザーッと、静まり返った闇の中へ響き始めた。


通路のドアを閉めたバスティアンは、寝室を横切った。

ベッドは空っぽだった。

あの女のやることなど、どうせ分かりきっている。
だからあえて考える必要はなかった。

トーマス・ミュラーから送られてきた書類に目を通しながら、暖炉の前でタバコを吸った。

フェリアとベロフを結ぶ鉄道事業の権利。
父親の会社も喉から手が出るほど欲しがっている利権だった。

この機会に二年前の失敗を挽回しようと、
バスティアンは検討した企画書を炎の中に投げ入れた。

いつの間にかタバコが燃え尽きるほどの時間が経ったにもかかわらず、
浴室の扉は開かなかった。

新しいタバコをくわえたバスティアンは、
まだ水の音が絶えない浴室の方へ向かった。

ドアを開けると、密度の高い闇が彼を包み込んだ。

スイッチを入れると、
シャンデリアが光を放ち、浴室はたちまち暖かい光に満たされた。

水の音が聞こえるガラスの壁の向こうに近づいたバスティアンは、
呆れて笑ってしまった。

真っ青になったオデットが、
シャワーの下にうずくまって震えているところだった。

肌寒い秋の夜に、
氷のように冷たい水を浴びているのだから当然の結果だった。

バスティアンが水を止めると、オデットは顔を上げた。

それぞれ異なる温度を帯びた視線が、一点でぶつかり合った。


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