泥の中の愛②|110話 長い一日の終わり ─ 再びその扉の前へ

バスティアン|泥の中の愛②|110話 長い一日の終わり ─ 再びその扉の前へ 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作110話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

夕暮れの光の中で、オデットは目を開けた。

ボタンが引きちぎられたドレスと破れた下着、それぞれ違う方向に投げ出された靴。
乱雑に散らばっている衣類を見ていたオデットの眼差しが深くなった。

—— そうだったわね。

残された痕跡

悪い夢でも見たのかもしれないという愚かな期待を捨てたオデットは、淡々と現実を受け入れた

静かな波のように押し寄せた悲しみは、
やがて白い泡となって消え去っていった。

オデットはただ、疲れていた。
長い年月の間に蓄積された疲労が、巨大な津波となって押し寄せたかのようだった。

もう休みたい。
このまま、とても長い眠りに落ちてもいいような気がした。

カチカチカチカチ……

枕元から聞こえてくる規則的な物音の正体に気づいたのは、
たそがれが降りる頃だった。

時計だった。
あの男が外していった腕時計。

つらそうに体を起こしたオデットは、
静かな眼差しでバスティアンの時計をじっと見つめた。

以前とは違った。
彼は、統制を失った欲望に流されていた日々よりもはるかに理性的だったが、
それゆえに一層脅威的だった。

最後の希望であり、救いであった男は、
もういない。

支払うつもりのない代償

「奥様、ドーラでございます」

オデットはハッと我に返り、慌てて立ち上がった。
体は思い通りに動かず、結局まともに数歩も進めずガクンと座り込んでしまった。

「頭痛のためにお休み中だと伺いました」

——頭痛。
あの男が用意しておいた言い訳なのだろう。

「…いいえ。その必要はありません」

時間を稼げる言い訳をしようと再び口を開けた瞬間、
体に残った生ぬるい感覚に気づいた。

それが何であるかを悟ったオデットの眼差しが、
小刻みに揺れた。

目を閉じても、どうしても目を背けられなかった感覚が、
ふいに現在のように鮮明によみがえった。

目頭が熱くなり、息が詰まった。

「奥様? 本当に大丈夫でございますか?」

「……はい。心配しないでください」

オデットは喉元までこみ上げてきた泣き声を飲み込み、
ペチコートを引き寄せ、痕跡を拭った。

正常な結婚をしていれば、とっくに済ませていたはずの儀式に過ぎない。

—— だから、深く気にすることはない。

オデットは冷静に言い聞かせた。

「ありがとう、ドーラ。何か手伝ってほしいことがあれば呼びますから、もう下がってください」

—— 考えなさい

ゆっくりと息を整えたオデットは、
何度も自分に言い聞かせながら浴室に向かった。

まだ意識がはっきりせず、まともに思考することは難しかったが、
少なくとも一つの事実だけははっきりしていた。

あの男は狂っている。

そしてオデットは、その狂った男が望む罪の代償を支払うつもりはなかった。

どんなことがあっても、絶対に。

皇帝との交渉

「これもすべて君のおかげだ」

皇帝との交渉は順調に進んでいた。

褒賞として提示された爵位や地位を受け取る代わりに、
バスティアンはその権利を未来へ持ち越すことを選んでいた。

皇帝は内心、その傲慢さに呆れながらも、あっさり受け入れた。

いつか、あの男は自ら作った翼をつけ、飛び立つだろう。
高く、おそらく今手に入れられる地位よりもはるかに高く。

その最中も、バスティアンの意識は何度も別の場所へ引き戻される。

ふと時間を確認しようとして、自分が時計を置いてきたことに気づいた。
海軍士官としてはあり得ない失態だった。

しかし時計を思い出した瞬間、
脳裏によみがえった記憶に息遣いが熱くなった。

交渉のため皇帝と向かい合う今この瞬間も、
彼の思考は結局あの女の周囲を回り続けていた。

そんな自分がふと情けなくなり、
バスティアンは自嘲するように口元を歪めた。

皇帝は夫婦関係について、遠回しに言及した。

結婚を続けるにせよ終わらせるにせよ、その決定を尊重する。
そう告げながらも、血縁者であるオデットの幸せを願う気持ちを隠そうとはしなかった。

バスティアンは静かに頷いた。

反論はいくらでもできた。
だが、その言葉を口にする代わりに、彼は丁重な微笑みだけを返した。

今の彼の胸を占めているのは、爵位でも褒賞でもなかった。
アルデンヌに残してきた一人の女。

その存在が、交渉を終えた後もなお彼の思考を離れなかった。

妻の寝室の前で

「奥様は、お早めにお休みになられました」

すでに夜も更けていた。

「ご苦労だった。もう休んでいい」

落ち着いた返事を口にしたバスティアンが、再び歩き出した。

ゆっくりと廊下を横切り、バスティアンは妻の寝室の前で立ち止まった。
それほど酔ってはいなかった。

驚いたロヴィスが息をひそめている間に、扉が開いた。
バスティアンは、微塵の躊躇もなくその敷居を踏み越えた。

その扉が再び閉まると同時に、
長い一日の終わりを告げる大時計の鐘の音が響き渡った。

ロヴィスは安堵のため息をつき、踵を返した。

廊下の角の陰に隠れて覗き見ていたメイドたちが、
慌てて駆け去る音が、夜の静寂を乱した。

明日の朝、使用人たちの休憩室は、
いつもとは違う話題で賑わうだろう。

主人夫婦の不仲の噂は、もう消えたと見て差し支えないだろう。

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