🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
真夜中、オデットはピアノに向かった。
過ぎた時間を巻き戻すように、
幻想曲を、もう一度最初から。
最後の音が消えれば、
二人の三年間も終わるはずだった。
真夜中の彷徨
真夜中を告げる鐘が鳴る。
——もう、最後の日が来た。
眠れずにベッドを降りたオデットは、衝動的に寝室を出た。
闇に沈んだ廊下を歩き、階段を降りて、書斎のドアの隙間から漏れる明かりを見つけたとき、
初めて自分の間違いに気づいた。
この一週間、バスティアンは早く帰宅して夕食を共にし、深夜まで書斎で働いていた。
電話と手紙が殺到し、秘書や重役がアルデンヌを訪れた。
まるで会社ごと屋敷に移してきたような光景だった。
無理をして時間を割いてくれていることを、オデットは知っていた。
時間がこの男にとってどんな意味を持つのかも。
その努力がありがたく、報いられないことが申し訳なかった。
結局、互いを苦しめるだけの関係だと実感させられる日々。
——だから、ここまでだ。
書斎の明かりから視線を外し、オデットは背を向けた。
月明かりのピアノ
寝室には戻らず、この屋敷で過ごした日々を辿るように歩いた。
きれいに片付けた小さな書斎の机。
廊下の端、月明かりに染まったサンルーム。
その真ん中に置かれたピアノの譜面台は、がらんどうだった。
楽譜はもうすべて片付けてある。
別れを告げるように鍵盤を撫でていた指が、そっと一音を押した。
冷たく澄んだ音が、透明な闇に染み渡る。
残響が消える前に次の音を、また次の音を。
音階を口ずさんでいたオデットは、溜息のようにくすりと笑った。
——その影に気づいたのは、その時だった。
半分開いたドアの向こう、廊下の床に映る人影。
壁に寄りかかって立つ男。
彼が来た。
オデットは慌てて鍵盤から手を引っ込めた。
それでもバスティアンは動かなかった。近づきもせず、退きもしない距離で。
この一週間ずっとそうだったように。
一体、なぜ?
離婚はしかるべき時に代理人を通して処理されると聞いていた。
何もなければ二度と会うことはないだろう。
別れの挨拶すらない終わりになるだろう。
その事実を改めて認めたとき、ピアノを閉じようとしていた指先から、力が抜けた。
オデットはまっすぐな姿勢でピアノに向き合い、止まっていた幻想曲の続きを弾き始めた。
音と音はやがて一つの旋律に合わさり、流れるような演奏になった。
去る決心をした瞬間に、音楽が始まった。
幻覚でも、夢でも構わなかった
仕事を終えて書斎を出たバスティアンは、微かな音楽を耳にした。
気のせいだと思いながら、足はすでにサンルームへ向かっていた。
眠っているはずのオデットが、月明かりの中でピアノの前に座っていた。
自分の目で見ても現実感のない光景だった。
聞き慣れた旋律と、低く口ずさむ歌声も。
幻覚だと結論づけた刹那、中断されていた演奏が再開した。
バスティアンは廊下の壁に背を預け、静かに目を閉じた。
——夢でも構わなかった。
生まれて初めて心に留めた音楽は、相変わらず美しかった。
この演奏が続くことを願った。
その甘美な虚しさが溜息になった刹那、穏やかな水面のような旋律が聞こえた。
トリル。
——美しい瞬間を続けようとする、努力の音だった。
ダ・カーポ——巻き戻した時計の針
再び最初へ。
——ダ・カーポ。
オデットは記憶の楽譜に従って曲の冒頭に戻り、
豊かになっていく幻想曲の中で、時計を巻き戻してみた。
取り返しのつかない傷を与え、傷つけられた日々。
その果てに、偽りの中で平穏を享受した日々。
プロポーズを受けた、バラが満開の春の午後。
回想の終着点は、震える手でベールをまくった夜——誤ってかけ違えられた、この縁の最初のボタン。
過ぎた時間をもう一度生きられたなら……。
良い時代に出会い、平凡なスタートラインに立つ将校と淑女を描いてみる。
しかし、弾きながらオデットには分かっていた。
その仮定は前提から間違っている。
バスティアンの熾烈な人生のどこにも、そんな始まりを迎えられる良い時代は存在しなかった。
オデットの骨の折れる人生も同じだった。
そういう二人だった。
そうする以外に、結びつくことのできなかった縁だった。
過去に戻ったとしても、二人の最善は、互いに出会わないことだけだろう。
その事実に直面した瞬間、心を乱していた想念が静まっていった。
過ぎた時間は生き直せない。
だが、迫りくる時間を決める力は残っている。
——今からでも、互いを手放すこと。
最初から出会うべきではなかった縁のための最善の結末を、
オデットは淡々と受け入れた。
——そして、フィナーレ。
オデットは目を閉じ、最後まで弾き続けた。
最後の小節に達した刹那、オデットは楽譜にはないトリルを重ねた。
何の意味もないと知っている。
それでも、次の音を。その次の音を。
——終わりを、ほんの少しだけ先へ延ばすように。
美しい曲の余韻を自ら乱してまで、オデットは音を繋いだ。
だが、それでも終わりは容赦なくやってきた。
儚い努力を止め、最後の音符を押さえる。
力を込めても、音はすぐに消えた。
目を開けると、ドアの隙間の影が揺らぎ、
ゆっくりと廊下の向こうへ遠ざかっていった。
オデットは鍵盤から手を離し、ピアノの蓋を閉じた。
最後の朝、まるで普通の朝のように
夜明けの光の中で目を覚ましたバスティアンは、
隣で眠るオデットの安らかな顔をしばらく見つめていた。
一時間も眠れなかったのに、疲れは感じなかった。
布団で妻の肩を包んでから、出勤の準備を始めた。
あの”旋律”が耳元で蘇ったのは、シャワーを浴びている時だった。
蛇口を閉めたとき、彼の眼差しはさらに深く、静かになっていた。
いつもより長く髭を剃り、髪の一本まで整えた。
制服のシワ、徽章の形。
角砂糖を入れた濃いコーヒーで意識を覚ませても、
ピアノの旋律を消すには、もう一杯が必要だった。
寝室を出ると、オデットが待っていた。
「遅いですよ、バスティアン。
さあ、行きましょう。見送りに行きますから」
にこやかに笑う顔が美しかった。優しい心遣いが愛らしかった。
——つまり、
まるで最後の日のように。
オデットは水色のドレスを着ていた。
好きな服だった。耳たぶで輝く小さな真珠のイヤリングも。
二人は言葉を交わさず、歩調を合わせて長い廊下を歩いた。
玄関ホールの端で、オデットが口を開いた。
「バスティアン、少しお待ちください」
静かに近づいた妻は、勲章の形を直し、また少し離れて微笑んだ。
「いってらっしゃい」
使用人たちが一斉に頭を下げる。
バスティアンは短い黙礼を残して背を向けた。
今日もできるだけ早くアルデンヌに戻る予定だ。
昨日よりもさらに盛大な晩餐を共にし、同じベッドで眠りにつくだろう。
自分を欺きながら、バスティアンは落ち着いた足取りで進んだ。
まるで普通の朝のように。ただ、そうやって。
砕け散った名前
だが、大きくなり続けるピアノの旋律が、ついに理性を侵食した。
運転席のドアにかけた手が止まる。
喉仏が荒々しく震え、眉間のシワが深くなり、固く結ばれた口角が痙攣した。
踵を返したバスティアンは、
階段を上がり、妻と向き合った場所で足を止めた。
オデットは、彼の影の下で丸く見開いた瞳を向けた。
「バスティアン……」
——震える声で囁かれたその名前は、バスティアンの熱い唇の上で砕け散った。
……オデット。
この男、
- 会社をほぼ屋敷に持ってきてまで、毎日あなたと晩ご飯を食べています。
- 逃亡計画に気づいているのに、探偵の調査まで打ち切りました。
- そして今、車まで行ったのに戻ってきました。
そろそろ気づいてもいいんじゃないでしょうか。笑
——とはいえ、その想いを「愛」だと信じられないほど二人の関係を壊したのも、バスティアン自身。
読者にはこんなにも見えているのに、本人たちには、まだ届かない。
それがなんとも、もどかしい160話でした。