泥の中の愛㉞|142話 鋼鉄の壁 ─ 説得の尽きた使者と、近づく誕生日

バスティアン|泥の中の愛㉞|142話 鋼鉄の壁 ─ 説得の尽きた使者と、近づく誕生日 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。

皇帝の犬が、主人に噛みついた。

説得も、懐柔も、取引も通じない。
トリエ伯爵夫人の前に立ちはだかったのは、鋼鉄でできた壁だった。

服従しない忠臣

バスティアンは礼節を崩さぬまま、皇帝の命令を拒んだ。

「皇帝陛下が帝国の軍需統治権者として下される命令であれば、何なりと従う準備ができております。しかし、私の妻のことは軍律と無関係な領域にあり、ゆえに私には無条件に服従しなければならない義務はありません」

抑揚のない声と冷ややかな顔が、威圧感を倍増させる。

皇帝は伯父として関与する資格がある、と食い下がる伯爵夫人に、
彼は非の打ちどころのない黙礼で応じるだけだった。
その優雅さが、かえって辛辣な嘲弄になった。

「いかなる理由で成立した結婚であろうと、私は私の妻に対する合法的な権利を持っています。皇帝陛下の命令で下賜されたからといって、皇帝陛下の命令で奪い去ることはできない、と代わりに陛下にお伝えください」

帳簿の数字にも動じない

オデットはもう何の利益ももたらさない。
離婚しても結婚の対価は有効であり、不利益は生じさせない――伯爵夫人は、今度は帳簿の数字に訴えた。英雄を守るための、皇帝の配慮でもあると。

「皇帝陛下が素晴らしい取引条件を提示されたことは、私もよく存じております」

ならば愚かなプライドを捨てなさい、それが二人のための道だと迫る彼女に、バスティアンは確信に満ちて断言した。

「よくある騒動にすぎません。解決できます。必ずやり遂げます」

警告のような挨拶を残して去る背中を見送り、伯爵夫人はソファに崩れ落ちた。

——鋼鉄でできた壁。

これ以上の説得は無意味だった。
別の方法を、講じなければならないようだ。

懐かしい縄張り争い

五日ぶりに起き上がったオデットに、ドーラは厳格な寮母のように食事を勧めていた。

「なんだか、懐かしいですね。
レモネードとキュウリのサンドイッチを思い出します」

「トマトスープを忘れては寂しゅうございます」

縄張り意識で張り合った日々が、はるか昔のようだった。

目の上のこぶだった奥様と情が通い始めるとは――ほとんど手つかずの皿を下げ、ドーラは独断で温かいスープとパンを運んだ。
口の中は苦くても、その真心を踏みにじりたくなくて、オデットはスプーンを握った。

バスティアンの帰宅は一定しなかった。

遅い午後、深夜、早朝。
不意に立ち寄っては去っていく。

ほとんどの時間、オデットとは眠って過ごしていた。
だから挨拶さえ交わせない日がほとんどだった。

青い夜明けの光に染まった顔。
夕焼けと溶け合う優しい足音。
月明かりを背に去る後ろ姿。

そのすべてが夢のようで――抱いたマルグレーテの温もりがなければ、初日の会話さえ、自分だけの夢だと思っていただろう。

「それでも、奥様の誕生日には早く戻ってきてくださるといいのですが」

結婚して三年近く、誕生日はいつも一人だった。
今年こそはお二人で――ドーラの声が遠ざかっていく。

もうすぐ誕生日。
それを知っても、これといった感慨は湧かなかった。

眠りの中で、オデットはあの男の夢を見た。
マルグレーテを返してくれて、嬉しかった。
子どもを返してくれて、嬉しかった。

そして――別れを告げて、眩しい真昼の光の中へ遠ざかっていく後ろ姿を、いつまでも眺めていた。

祭りのない勝利

「終務式」は、バスティアンの簡潔な送年の辞で締めくくられた。

大陸最大の鉄鋼会社設立、前代未聞の株式公開、
そしてフェリアとベロフを結ぶ鉄道事業の再落札成功。

記念すべき一年なのに、社内は静かだった。
祭りどころではないオーナーへの配慮だった。

父の没落は予想より速かった。
海運株まで手放して鉄道を守ろうとしているが、再生不能だ。
鉄道が手に入り次第、終わりにする――きちんと終止符を、と促すミュラーに、バスティアンは首を振った。

「これだけあれば、祖父の目を閉じさせるには十分な成果だと思います」

ついに、使命は完遂目前まで来た。
永遠の目標を成し遂げる日が迫っている。

なのに、劇的な喜びはなかった。
ただ、疲れ果てているだけだった。

誘拐事件は正当防衛と認められ、捜査は終わる。
政敵たちは、妻の虐待に加え「父親を食い物にする息子」という非難まで焚きつけ始めたが、この危機を越えれば、嫉妬の届かない場所まで飛躍できる。

一年の最後の日

運転手の待つ車に乗り込み、目を閉じると頭痛が増した。
おそらく、睡眠不足のせいだろう。

再び目を開けた時、車はフレベ大通りの中心にいた。
華やかな明かり、楽しい音楽、通りを埋める人々。

祭りに染まった街を眺めながら、バスティアンは時の流れを思い知った。

いつの間にか、一年の最後の日――あの女の誕生日が、近づいていた。

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