📖 作品の読み方はこちら→ 泣いてみろ、乞うてもいい ガイド
🌹 本記事は『泣いてみろ、乞うてもいい』原作をもとに、物語の流れと人物心理を整理しています。会話部分は原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
マティアスは、数年ぶりに婚約者の名を呼んだ。
レイラは、遠い南の町で、彼がもうすぐ結婚すると思い浮かべる。
——あなたはあの子を永遠に失ったのよ。
その頃、角を曲がってきた自転車が、彼女の目の前に迫っていた。
姿を消した公爵
ヘルハルト公爵が健康上の問題で引きこもっている。
その噂は、あっという間にカルスバールの上流社会に広まった。
すべての公の場から、マティアス・フォン・ヘルハルトが姿を消した。
アルビスを訪れても、公爵の顔を見ることはできない。
公爵家は、過労で体を壊して別棟で療養中だという簡潔な回答を貫いた。
結婚が再び延期されるかもしれないという噂も、流れ始めていた。
それが、クロディーヌ・フォン・ブラントが連絡もなくアルビスを訪れた理由だった。
別棟にマティアスを見舞いたいというクロディーヌに、エリーゼは曖昧に笑って言葉を濁した。
「体の調子が悪いから、眠り込んでいることが多いのよ」
それに、マティアスは別棟に人を入れるのを好まない。
けれど、今日のクロディーヌは頑固だった。
「そうかもしれませんが、私は公の婚約者ですわ」
結局、エリーゼは諦めたように頷いた。
状態が良くならなければ、結婚を数ヶ月延期しなければならないかもしれない。
ブラント家に言い訳のしようもない今、彼女を止める口実はなかった。
崩れるか、耐え抜くか
咲いたばかりのバラの花束を手に、クロディーヌは川沿いの道を別棟へ向かった。
公爵邸にいる間じゅう口元を離れなかった華やかな微笑みは消え、その顔は冷たく沈んでいた。
あの男は崩れるだろうか。それとも、毅然と耐え抜くだろうか。
それが実に気になっていた。
そして今、答えを知ることになったが、決して楽しい気分ではなかった。
無残に崩れ落ちた姿を見たい気持ちがある一方で、ヘルハルト公爵らしい品位を保ってほしいとも思っていた。
それなのに、結局この様だとは。
舌打ちする間に、車は別棟の川岸に止まった。
降り立った時、クロディーヌの口元には再び微笑みが浮かんでいた。
不快な気分は相変わらずでも、少しずつ期待が高まってくる。
崩れ落ちたヘルハルト公爵を嘲笑う日が来るとは。
これも、レイラに感謝すべきだろうか。
仮面のような微笑み
その頃、マティアスはシャワーを浴びたばかりで、誰かと通話をしていた。
レイラ・ルウェリンの件だろうと、随行人マーク・エバンスは思った。
なかなか進展がないため、公爵は自ら乗り出し、持てるすべての人脈と手段を動員して、ビル・レマーとレイラを探していた。
それが最近、公爵が精力を注ぐ唯一のことだった。
それ以外の時間は、薬を飲んで死んだように眠るか、バルコニーに座って、流れる川とその向こうの森をじっと眺めるだけだった。
待ってもらうよう伝えようと振り向いたエバンスの前に、クロディーヌはもう迫っていた。
「命令よ、エバンスさん」
鋭い声に彼が渋々退いた時、通話を終えたマティアスが顔を向けた。
ガウンを一枚、ゆるく羽織っただけの姿だった。
戸惑いながらも、クロディーヌは引き下がらなかった。
目が合ったマティアスも、同じだった。
——婚約者が大変な病気だと聞いて、知らないふりはできないから。
やつれた顔をまっすぐ見つめて、クロディーヌは満面の笑みを浮かべた。
少しは戸惑うだろうという予想に反して、マティアスは普段と変わらない、仮面のような微笑みを浮かべた。
想像もできない姿なのに、口調も態度も身振りも、彼女の知るマティアス・フォン・ヘルハルトそのものだった。
テーブルに置かれたバラの花束を見た彼の口元に、一瞬、妙な微笑みが浮かび、すぐに跡形もなく消えた。
「少々お待ちいただけますか? ご覧の通り、突然押し入られた淑女を迎えるにふさわしい格好をしていませんので」
普段よりずっとゆっくりとした口調のせいか、その声は不気味なほど低く聞こえた。
怯んだ様子を悟られないよう、クロディーヌは首と腰をさらにまっすぐ伸ばした。
「ええ。いくらでも」
大胆に答えはしたものの、半裸に近い男を見ることができず、視線を少し落とす。
彼が寝室へ去ってから、ようやく息をつけた。
なぜわざわざ、別棟に引きこもっているのだろう。
二人の思い出が詰まった場所だとでもいうのか。
そこまで考えが及ぶと、泥沼に足を取られて転げ回っているような気分になった。
こんなふうに呼んだことはなかった
戻ってきたマティアスは、ズボンにシャツを一枚羽織っただけで、
濡れた髪を額に垂らしたままだった。
「許しもなく訪ねてきた私の無礼を責めるおつもりですか?」
無言で見下ろすマティアスの視線に向き合いながら、クロディーヌは言い放った。
病人同然の姿でも、彼の威圧感は相変わらず大きかった。
むしろ、前より脅威的に感じられるほどに。
「いえ」
ゆっくりと向かいの席に腰を下ろして、マティアスは言った。
「むしろ良かったと思います。そうでなくても令嬢にお会いしようとしていたところでしたから」
——結婚以外に、ヘルハルト公が自分に会おうとする理由など思いつかない。
クロディーヌが皮肉を込めても、マティアスは沈着なまま、まさにその話をするつもりだったと答えた。
不安に襲われて、クロディーヌは先回りした。
——体の都合で結婚を延期したいというなら、聞くつもりはない。
式の壇上まで自分の足で歩いて来られるなら、それで構わない、と。
「見たところ、その程度は何ら問題にならないようですね?」
「令嬢」
「もうそれ以上話さないで。聞きませんから」
「クロディーヌ・ブラント」
呼ばれた名前に、頭の中が真っ白になった。
婚約が内定してから数年、彼は一度も、こんなふうに彼女の名前を呼んだことがなかった。
雰囲気が変わった。
否定できないその事実に、息が詰まりそうになった頃。
マティアス・フォン・ヘルハルトは、ついに言った。
「ここで終わりにしよう、クロディーヌ」
公爵は、もうすぐ結婚するだろう
「少し休んだらどうだ?そのままじゃ体を壊すぞ」
背後から聞こえた声に、標本整理に没頭していたレイラは顔を上げた。
ずり落ちた眼鏡を直して、大丈夫ですよと明るく笑う。
長く使わずにいた母国語にも、今ではかなり慣れてきた。
ルウェリンさんは本当に明るい性格だと笑って、中年の博士が先に帰っていく。
静かになった研究室で、レイラは標本整理を終え、投函する郵便物をまとめ、博士の散らかった机まで片付けた。
戸締まりをして廊下に出ると、初夏の午後の気だるい日差しが降り注いだ。
斜めがけにした鞄の紐を握りしめて、きっぱりとした足取りで長い廊下を歩く。
ロビタ南部の海岸都市シエンは、美しい海と港で名高い町だった。自然史博物館とその附設研究所も、シエンの名物の一つだった。
郵便物を投函して、市場で一日中食べたかった桃を買う。
アルビスなら、籠を持って森へ行きさえすれば良かったのに。
思わずそう考えて虚脱し、少し笑った。
——公爵様は、もうすぐ結婚するだろう。
帰り道、ふと浮かんだその考えに、レイラは少し呆然とした。
だから、角を曲がって走り込んでくる自転車に気づかなかった。
はっと我に返った時、自転車はすでに目の前まで迫っていた。
鋭い金属音に、行き交う人々の悲鳴が混じった。
淑女の仮面を脱ぎ捨てて
長い静寂の間、クロディーヌは指一本動かさず、マティアスを見つめていた。
マティアスも、その視線を避けなかった。
開け放した窓から吹き込む川風に、二人の髪と衣擦れが揺れなければ、時間が止まったと言ってもいい光景だった。
「本当におかしいですわね」
ふっと笑いを漏らして、クロディーヌが先に口を開いた。
——あなたが、よもや私にこんな言葉をかけるとは。
悪意を込めてケラケラと笑っていた声が止むと、その顔は氷のように冷たくなった。
「お体の調子が悪いから判断力も曇っているようですね。聞かなかったことにしてさしあげますわ」
「いや。いつになく明瞭な判断だ。クロディーヌ」
「なぜです? あの卑しい孤児を探して、私の代わりに公爵夫人の座に座らせるとでもいうのですか?」
自分の口から出た言葉に、クロディーヌ自身が驚いた。
『もうあなたは子供ではないのよ。淑女になりなさい』——アルビスへ向かう馬車の中で母にそう言われた日から、自分の一部のように思ってきた優雅な淑女の仮面を、脱ぎ捨ててしまった気分だった。
もう止めるべきだと分かっていても、止めたくなかった。
「驚きもしないのですね」
マティアスは眉を少し上げただけで、これといった動揺を見せなかった。
愛人にして一生傍に置くつもりだった子なのだから、わざわざ隠す気もなかったのだろう。
けれど、公の望み通りにはならない。
たとえ婚約破棄を受け入れたとしても。
クロディーヌの唇に、微笑みが戻ってきた。
「運が良ければレイラを見つけ出すことはできるでしょうけど、決して手に入れることはできないですわ。あの子はすべてを知って逃げ出したのですから」
「……全てを知っている?」
永遠に失ったのよ
「ええ、私が教えてあげました」
——ヘルハルト公爵が、欲しい孤児を手に入れるためにどんな計略を巡らせたか。
それに巻き込まれて蹂躙された姿が、どれほど哀れで情けないか。
そのすべてを。
「それでもレイラが戻ってきてくれると思いますか? さあ、どうでしょう。
この世界にそのような男を愛する女性はいませんよ」
マティアスの顔に、ついに、表情と呼べる感情の変化が現れた。
穏やかな微笑みを浮かべたまま、クロディーヌははっきりと言葉を続けた。
「だから無駄な希望は捨てて、あなたらしくヘルハルト公爵の人生を生きなさい。私は喜んでそのようなあなたに耐える公爵夫人になってあげますから」
背もたれに深く身を預けたまま、マティアスは微動だにせず彼女を見つめていた。
心の内の読めない眼差しだったが、どうでもよかった。
この男が仮面を奪い取ってくれたおかげで手に入れた、今この瞬間の自由を、クロディーヌは満喫することにした。
「どういう意味か、本当に分からないのですか?」
嘲りを込めた瞳が、冷たく輝いた。
「マティアス・フォン・ヘルハルト、あなたはあの子を永遠に失ったのよ」
📖 続きを読む
◀ 原作117話 永遠に知らないままでいること(前の記事へ)
▶ 原作119話 (※更新予定)
📖 初めて読む方はこちら
▶ 泣いてみろ、乞うてもいい 完全ガイド
📚 あらすじ一覧
▶ 原作あらすじ一覧(原作61話~最新話)
👤 登場人物・人物考察
▶ 登場人物・人物相関まとめ
📖 漫画・原作を読む
▶ 漫画・単行本・電子書籍はこちら
🔚 結末を先に知りたい方
▶ 結末ネタバレ【本編完結】
