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🌹 本記事は『泣いてみろ、乞うてもいい』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。本文中の会話・心理描写・印象的な表現については、原作の表現を適宜引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
通り過ぎた車
「私は……一人で行きますね。おじさんがすごく厳しいので」
道の途中で立ち止まり、レイラは気まずそうに微笑んだ。
他の男と二人でいるところをアルビスの人々に見られるのは避けたかった。
何の関係がなくても、噂は勝手に膨らんでいくものだから。
「それでは今日はこの辺で。代わりに今度の日曜日、一緒に昼食はいかがでしょうか?」
「いいえ。私は……」
「今週がお忙しいようでしたら、来週でも構いませんよ。
顔を見るのも辛いほど僕が嫌いでないのなら、もう一度だけ会ってみましょう」
赤くなりながらも、男は引き下がらない。
学校へ品物を配達する雑貨店の息子。
ただの顔見知りだった彼と、今日の午後、校長室で突然引き合わされた。
校長が遠縁で、自ら仲人を務めるつもりだと知った時には、頭の中が真っ白になった。
その時、背後から自動車の音が聞こえた。
——まさか。
幻聴だと思いたかった。
だが、黄昏の道を照らす前照灯はどんどん近づいてくる。
二人のそばで一瞬だけ速度を緩めた車は、そのまま再び加速し、曲がり角の向こうへ消えた。
ヘルハルト公爵を乗せた車だった。
できない約束
「ルウェリン先生?」
呼びかけられ、レイラは我に返った。
「申し訳ありません。私は……まだ心の準備ができていないようです」
校長に背中を押され、お茶に付き合っただけだった。
結婚を前提に誰かと会う気持ちなど、今のレイラには微塵もない。
いつかは結婚するかもしれない。
けれど今は、ただ一生懸命働いて、平凡な毎日を送りたかった。
男は失望しながらも、レイラの意向を尊重してくれた。
むしろ無理に場を設けて不快な思いをさせたと謝り、肩を落として去っていった。
良い人を傷つけたことに、胸が痛んだ。
それでも、断れないまま引きずるほうが、いつかもっと深く傷つける。
——カイルに、そうしたように。
ふいに浮かんだ名前に、レイラの眼差しが沈んだ。
元気でいるだろうかと思うことは、今でもある。
恋しくないわけではない。
けれど、ただ彼の幸せを祈ることが最善なのだと分かっていた。
一緒に道を歩き、笑い、何の気兼ねもなく親しくできたあの日々には、もう戻れないのだから。
春の部屋
辺りが暗くなるまで、レイラは一人で立っていた。
今度は別の不安が押し寄せる。
あの曲がり角を曲がった先で、公爵が待っているのではないか。
冷たい空気を深く吸い込み、レイラは代わりに春のことを考えた。
新しい場所。
新しい生活。
できれば、大きな窓のある部屋がいい。
日当たりがよくて、窓の向こうに木が一本でも見えたらいい。
それが無理なら、近くに公園か森があればいい。
アルビスが恋しくなった時、草や木の匂いを嗅げるように。
そんな未来を思い描いているうちに、高鳴っていた胸は少しずつ鎮まっていった。
勇気を出して曲がった先に、公爵の姿はなかった。
空っぽのプラタナスの道を満たしていたのは、白い月光と木々の影だけ。
レイラは安堵の息を吐き、自転車に乗った。
静かな道に、ペダルを踏む音だけが続いていった。
返事のない手紙
郵便箱を開けるカイルの顔は、今日も緊張で強張っていた。
数通の手紙を見つけて浮かんだ期待は、すぐに苦笑へ変わる。
レイラからの手紙はない。
毎週手紙を送っているのに、返事は一度も届かなかった。
父からは、休暇に大陸旅行でもしてはどうかと勧められていた。
今のままレイラのもとへ戻っても意味がない。
だが、旅に出たところで同じだった。
——私たち二人だけが幸せになれるそんな場所は、
カイル、そんな場所はこの世界にはないのよ。
目を閉じれば、悲しく微笑んだレイラが蘇る。
そして最後にはいつも、何一つ言い返せなかった自分への嫌悪だけが残った。
親の影から離れれば何でもないはずの、
たった一人の女の子さえ守れない。
医者になれば、二人が幸せになれる場所を見つけられるのだろうか。
けれど、その日はあまりにも遠かった。
君なしで、どうやってそこまで耐えればいい。
数ヶ月でさえ、永遠のように長いというのに。
その時、ある考えが閃いた。
——もうすぐ成年になる。
祖父が遺してくれた遺産を自分の意思で処分できるようになる。
なぜ、もっと早く思いつかなかったのだろう。
カイルは勢いよく身体を起こした。
机へ向かい、ペンと便箋を探す。
その手は、焦りと切迫感に満ちていた。
鶏の話
「なぜ皆、急にお前の花婿を見つけてやろうと躍起になっているのだ?」
夕食の支度をするレイラを見ながら、ビル・レマーが首をかしげた。
「公爵家の大奥様まで、突然お前の花婿になるような男はいないかとヘッセンに尋ねたそうだ」
「大奥様が、なぜそんなことを?」
「さあな。まあ、レイラ、お前が気に入られたのだろう」
誇らしげなビルに、レイラは呆れたように笑った。
「おじさん、まさか私が邪魔になったとか、そういうわけじゃないですよね?」
「それは何という馬鹿げた話だ?」
「そうじゃないなら、私はおじさんとずっと一緒に暮らしたいです」
「大奥様が紹介してくれる花婿も断るつもりかい?」
「おじさんより素敵な男性なら喜んで会ってみますけど、悲しいことに、そんな男性はこの世界にはいないような気がするんですけど?」
明るく笑うレイラを見て、ビルの胸はかえって痛んだ。
花婿候補を断るのは、やはりカイルのためなのだろうか。
カイルは今でも手紙を送り続けていた。
レイラに内緒で抜き取った手紙が増えるほど、ビルの罪悪感も膨らんでいる。
こんなにも切ない二人を引き裂くのは忍びない。
けれど、縁を繋ぎ直す道もない。
「もしもの話だが、レイラ」
衝動的に口を開いた。
エトマン家と絶縁してでも、二人が結婚できるよう手伝ってやったらどうだろう。
大騒ぎになるだろう。
庭師としてここにいられなくなるかもしれない。
それでも、レイラのためなら——。
「おじさん?」
不思議そうに見つめられ、ビルは口をつぐんだ。
「だから、それは……そうだ、鶏だ! 鶏を」
「鶏ですか?」
「もしもの話だが、明日は鶏を一羽さばくのはどうかと。
そうだ。それを聞こうとしていたところだ」
あまりにもぎこちない出任せだったが、レイラは気づかず、くすくす笑った。
「はい、おじさん。
明日は鶏の丸焼きを食べましょう、私たち!」
金色の鳥籠
蓄音機の音を少し上げ、マティアスは振り返った。
電灯をすべて消した寝室を、暖炉の炎だけが照らしている。
温もりの染み込んだウィングチェアに腰を沈めると、向かいの長椅子から鳥が飛んできた。
ワルツの旋律を口笛でなぞれば、カナリアは応えるように澄んだ声でさえずり始める。
彼の鳥は賢かった。
教えたわけでもないのに、いつからか音楽が流れると自然に歌うようになった。
そのため、鳥と音楽を聴いて過ごす夜が増えた。
大抵はワルツ。
交響曲やピアノ曲を流すこともあったが、
マティアスの知る限り、彼のカナリアはワルツを最も美しく歌った。
音楽が止まる。
寝室に残るのは、薪の燃える音だけ。
マティアスが褒めるように小さな頭を撫でると、
手に慣れたカナリアは甘えるように嘴を擦りつけた。
彼は笑った。
鳥籠の前まで行き、手を下ろす。
カナリアは何のためらいもなく、籠の中へ飛んでいった。
自分の巣へ戻るように。
マティアスは、金色の扉を閉めた。
次の曲を奏で始めた蓄音機も止めた。
ベッドに横たわり天井を見つめると、気だるい疲労の混じったため息が漏れた。
「おやすみ」
顔を向けて挨拶すると、
その言葉を理解したかのように、カナリアは居心地の良い巣の中で眠っていた。
マティアスは、そんな鳥をじっと見つめていた。
もう、その目は笑っていなかった。
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