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🌹 本記事は『泣いてみろ、乞うてもいい』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。本文中の会話・心理描写・印象的な表現については、原作の表現を適宜引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
靴のつま先
雪のせいで、馬車は速度を出せなかった。
窓の外を窺うレイラの目には、隠しきれない不安がにじんでいる。
「そんなに怯えることはないのだよ。
お前を苦しめようと、この馬車に乗せたのではないのだから」
カタリーナ・フォン・ヘルハルトの皺の寄った口元に、慈愛の笑みが浮かんだ。
その温かな眼差しに、レイラもようやく少し緊張をほどく。
大奥様は巧みに会話を導いた。
学校生活のこと、今日の公演のこと。
演劇の話になると、その微笑みはいっそう深くなった。
「さぞ困ったことだろうに、それでもなかなかうまくやってのけたね」
褒められたレイラの頬が赤くなる。
今や耳まで真っ赤だった。
——(一口頬張れば、よく熟した果物のように甘いだろう)
マティアスは、あの当惑するような演技を思い出して込み上げる笑いをこらえた。
膝の上で揃えたレイラの両手が、不安そうにもぞもぞと動いている。
感情を隠せない女だ。
嘘も下手だ。
だから、あんなにもひどい演技しかできないのだろうか。
座席に背を預けたマティアスは、長い脚をさらに伸ばした。
自分の靴のつま先が、レイラの靴に触れるように。
レイラが足を引く。
また追う。
何度避けられても諦めず、
とうとう自分のつま先を彼女の靴へぴったりとつけた。
たったそれだけの接触なのに、
レイラは裸にされたように恥ずかしかった。
「やはり立派な教師ですね」
「子供は好きかい?」
「……はい、奥様」
「賢い上に子供まで好きとは、本当に素晴らしい教師の素質だね。そうだろう、マティアス?」
「はい、お祖母様」
微かな笑みの混じった返事に、レイラの目が丸くなった。
儀礼的な返答だろう。
それでも意外だった。
首をかしげ、事務的に答えるだけ。
それがレイラの知るヘルハルト公爵だったから。
「休暇はどのように過ごす予定ですか?」
突然マティアスから丁重に尋ねられ、レイラの頭は真っ白になった。
それが面白いのか、彼の片方の口角がわずかに上がる。
「勉強もして、ビルおじさんの仕事も手伝って、それから……」
ためらった瞬間、触れ合っていたつま先が、こつんとレイラの靴を叩いた。
「次の学期の準備をする予定です!」
戸惑いのあまり、声が裏返った。
ありふれた休暇の予定を悲壮な宣言のように口走ったレイラに、大奥様が楽しそうに笑う。
「そうかい、レイラ。真面目な休暇の計画だね」
マティアスは何事もなかったかのように足を組み替えた。
その図々しい顔が、ますます腹立たしかった。
「やはり立派な教師ですね、ルウェリン嬢」
からかっているのは明白なのに、口調だけはこの上なく丁重だった。
踵でその足の甲を踏みつけてやりたい気持ちを抑え、
レイラも大奥様に接する時と同じ丁重さで会釈した。
「ありがとうございます、公爵様」
狭い馬車の中で、向かいに座る男の視線を避け続けることなどできない。
結局また目が合った瞬間、レイラは小さく肩をすくめた。
先ほどまでの悪戯っ気が嘘のように、公爵の瞳には何の感情もない。
ただ、深く静かだった。
——レイラを飲み込んだ、あの夏の川の水のように。
人形の靴
普段の倍ほどの時間をかけて、馬車はようやくアルビスへ続く道に入った。
大奥様がうとうとし始め、車内は静まり返る。
いつの間にか、レイラも眠りかけていた。
意識を保とうとしては、ふいに頭が垂れ、はっとして首を振る。
マティアスの視線が、閉じられた目からゆっくりと下りていく。
薄暗い車内でも、彼が贈ったネックレスはほのかに光っていた。
——さらに下へ。
視線は、馬車の床で止まった。
自分の靴のそばに並ぶレイラの小さな靴は、まるで人形のもののようだった。
この小さな足で、どうしてあれほど疲れも見せずに駆け回れるのだろう。
そう思った時、馬車が突然停まった。
奪われた
「おい、ビル! なぜこんなところまで出てきているんだ?」
御者の声に、レイラがぱっと目を開けた。
「天気がこの調子だから、レイラが心配でな」
外から聞こえた声を理解した瞬間、レイラの顔に明るい笑みが広がった。
大奥様もその心を察し、快く頷く。
「ええ、レイラ。ビル・レマーのところへ行きなさい」
レイラはためらわなかった。
馬車から飛ぶように降り、そのままビルの胸へ飛び込んでいく。
その後ろ姿を、マティアスはただ見つめていた。
何もできずに。
——自分のものを奪われた
そんな気分は、決して愉快なものではなかった。
転勤
「ビル・レマーに出会えたのは、あの子の人生の祝福だよ」
満足げに話す祖母の言葉を聞き流していたマティアスの意識を、
ある一言が鋭く引っ掻いた。
「レイラ・ルウェリンが、転勤をですか?」
「そうだよ。他の都市へ行きたいそうだよ」
村の学校の校長は引き留めたが、本人がどうしても学校を移りたがっているらしい。
「カイル・エトマンとの縁談が破談になったこともあるから、離れたい気持ちは分かるけれど。
互いにあんなにも愛し合っているのに、どうして離れて暮らそうとするのか」
さらに祖母は、別の話まで続けた。
校長の遠縁にあたる雑貨店の息子が、レイラとの縁談を望んでいるという。
良い相手さえ見つかれば気も変わるだろうと、校長自身が仲人を務めるつもりらしい。
「私も一度、口を出してみようかしらね。
このアルビスからそう遠くない場所に、教養があって上品な花婿候補がいるかどうか」
——そうして結婚し、家庭を築き、ビル・レマーのそばで教鞭を執る。
「それがあの可哀想な子の人生に最も良いことだよ。そうだろう、マティアス?」
カタリーナ・フォン・ヘルハルトが得意げに話している間に、馬車は邸宅の前に停止した。
決まった返事を繰り返す代わりにマティアスは、馬車の扉を開けて降り立った。
扉を開けに近づいてきた御者がびくりとして退がった。
マティアスはすでに整っているコートの襟元をゆっくりと直した。
「行きましょう、お祖母様。」
差し出した手も、その表情も。
いつもと変わらず、丁寧で優雅だった。
雪の中の足跡
固く手をつないだビルとレイラがアルビスへ入ったのは、
公爵家の馬車が去り、その車輪の跡を白い雪が薄く覆い始めた頃だった。
「おじさんだけは笑わないと思っていたのに!」
演劇の話を聞いて笑い続けるビルに、レイラがむっとして抗議する。
だが、笑い声はますます大きくなるばかりだった。
「大丈夫だ、レイラ。まあ、可愛かっただろう。すごく」
「観客がみんな、おじさんみたいじゃないんですよ」
ぶつぶつ言いながらも、レイラもやがて笑ってしまった。
ビルおじさんが「大丈夫だ」と言えば、本当に全部大丈夫になったような気がする。
バラ園の外れまで来た頃、レイラの足元をちらちら見ていたビルが立ち止まった。
「おんぶしてやろうか?」
「ええ? 嫌ですよ! 私が一体どんな子供ですか」
「俺が不快なのだ。びっこを引いて、ひどく気になるのはどういうわけだ」
ぶっきらぼうに言うと、ビルはどっしりと背中を向けてしゃがみ込んだ。
「おんぶしないなら、担ぎ上げて行ってしまうぞ」
「お疲れになるでしょうに」
「私を何だと思っている。中年になっても、お前のような女の子くらい五人は楽におんぶできる」
絶対に譲る気のない背中を前に、レイラはとうとう諦めた。
おそるおそる背負われたレイラを、ビルは軽々と持ち上げて歩き始める。
やがてレイラの身体からも力が抜け、楽しそうなおしゃべりが始まった。
唇から漏れる白い息が、雪の粒の間へ溶けていく。
ビルの豪快な笑い声も、当然のように続いていた。
二人の足跡の上へ、大粒の雪が静かに降り積もっていった。
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