🌹 本記事は『バスティアン』原作129話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。
妻が消えて、ひと月。
社交界に姿を現したバスティアンは、平然と噂の渦の中を歩いていた。
その静けさに、揺さぶられる者たちがいた。
噂の渦の中で
バスティアン・クラウヴィッツが現れた——その知らせは、瞬く間にデメル提督夫妻のパーティー会場を駆け巡った。
妻を虐待したのか。
いや、捨て駒同然の妻を大事にするほうが不自然だ。
夫の留守に他の男と通じ、子までできて夜逃げしたらしい——。
ありとあらゆる憶測が飛び交う中、
当のバスティアンは平然と会場を回り、華やかな人脈作りに熱中していた。
消えた妻を案じる様子は、どこにもない。
だからこそ、噂はさらに膨らんでいった。
次第に下品になる陰口に耐えかねて、マクシミリアンは輪を離れた。
それは彼自身にも理解しがたい感情だった。
「こんにちは、ジェンダース卿」
会場の端で水のグラスを取った瞬間、低く落ち着いた声が届いた。
オデットの夫、バスティアン・クラウヴィッツだった。
完璧な紳士
近くで向き合うと、その体格はいっそう際立った。
屈強な士官の多い会場でも、ひときわ目を引く男。
——もし、こんな男が本当にオデットを虐待したとしたら?
心に留めていた噂がよぎり、マクシミリアンの顔色が暗くなる。
だがバスティアンは意にも介さず、
近況から株式市場、スポーツの話題まで、完璧な紳士の話術で会話をリードしていった。
血筋を知らなければ、誰もこの男を平民とは思わないだろう。
窮地にあってなお、余裕と貫禄がにじみ出ていた。
「クラウヴィッツ夫人は、お元気でいらっしゃいますか?」
舞曲が始まる頃、マクシミリアンは衝動的に尋ねていた。
目を伏せたバスティアンは、内心で素直に認めた。
この瞬間を期待して、伯爵を挑発していたのだと。
隠しきれない疑念と敵意——何も知らない顔のマクシミリアンが与えてくれた、望んでいた答え。
——ジェンダース伯爵は、オデットの逃走劇とは無関係だ。
確認は取れた。
オペラ劇場の会員証など、もうどうでもよかった。
卿のお子さんなのですか
「私の妻の安否をジェンダース卿にご報告する義務はないと思いますが」
丁寧で、冷淡な一線。
それでも伯爵は引き下がらなかった。
オデットは友人だ。
妊娠初期で健康もすぐれないと聞く。
そんな体で一人旅に出た友を案じるのは当然のことだ、と諭すように。
「当然のこと、ですか」
じっと見つめていたバスティアンが、面白い冗談でも聞いたように笑った。
「ええと、卿のお子さんなのですか?」
笑みの消えた瞳が、冷ややかに沈む。
思わず声を荒げる伯爵に、彼は肩をすくめた。
冗談です、無礼だったなら謝罪する、悪意はなかった——丁寧な謝罪の形を取った、それは叱責だった。先に一線を越えたのはあなたではないか、という警告。
儀礼的な挨拶を残し、
バスティアンは次の話し相手へと去っていった。
バルコニーの後悔
マクシミリアンは逃げるようにバルコニーへ出た。
冷たい風を浴びて、ようやく息ができた。
礼儀知らず極まりなかったが、指摘そのものは、もっともだった。
出過ぎた干渉だと、自分でもわかっていた。
それでも止められなかった事実が、彼をさらに混乱させる。
——いったい、なぜこんな愚かな真似をしてしまったのか。
深まる冬の夜、闇に沈んだ庭園を見つめながら、後悔が胸を刺した。
オデットをあんな形で送り出すべきではなかった。
説得しても、本当のことは打ち明けなかっただろう。
それでも、窮地を知りながら、もっと積極的に手を差し伸べられなかったのは、自分の過ちではないのか。
侮辱の熱が頬から冷めていくまで、
マクシミリアンは一人、そこに留まっていた。
続けますか?
ノアが声をひそめて尋ねた。
「続けますか?」
——展覧会のことだ。
クラウヴィッツ少佐の妻が消えた今、
あの絵を飾る意味はないのではないか、と。
サンドリンは沈黙のまま酒杯を傾けた。
フランツの絵を展覧会に——そう唆したのは彼女だった。
成功すればラヴィエール家の後援を約束すると。
断るべき狂気の沙汰に、ノアは抗わず巻き込まれた。
どうせフランツのままごと遊びは長く続かない。
惨めに捨てられるくらいなら、先に背を向けようと。
「果たして、フランツはあなたたちを最後まで守ってくれるかしら?」
サンドリンの鋭い問いが、その決心を後押ししていた。
だが、状況は変わった。
オデットが自ら去ったのなら、ここで終わらせるつもりだった。
離婚さえ成立すれば、バスティアンの妻の座は自分のものになるはずだから。
彼を傷つける無理な手は要らない。
だから祈るように待った。一日、また一日と。
離婚は時間の問題——そう信じていた。
オデットを切り捨てなければ、バスティアンの損害は明白なのだから。
誰よりも利害得失に長けた男が、それを知らないはずがない。
にもかかわらず、ひと月近く、彼は動かなかった。
止まれない理由
命懸けで手に入れた名声が崩れていくのに、
バスティアンはオデットを手放さない。
もう「時期を待っている」と合理化するのは難しかった。
胸が真っ黒に焦げるようで、それでもサンドリンは、理由を問いただせなかった。
答えを聞くのが怖かった。
聞けば、何もかも元に戻せなくなるような気がした。
それよりは、この惨めな苦痛に耐えるほうがましだった。
「では、なかったことに——」
しょげるノアに、彼女はゆっくり首を振り、煙を吐き出した。
あの女とは到底一緒にいられない、確実な理由を作ってやる。
バスティアンの政敵に致命傷を与えることにもなる。
彼も無傷では済まないだろうが、偽りの妻を抱えて泥沼を転がる今よりは、ましなはずだ。
「続けて」
淡々と答え、灰を払う。
まだバスティアンを愛しているからか——何度自問しても、答えは見つからなかった。
確かなのは、ただ一つ。
こんな結末を受け入れることは、できない。
止まれない理由は、それだけで十分だった。
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