泥の中の愛⑨|117話 愛する恋人のために ─ 肖像画と、床に散らばる紙幣

バスティアン|泥の中の愛⑨|117話 愛する恋人のために ─ 壁を埋める肖像画と、床に散らばる紙幣 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作117話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

深夜、サンドリンは他人の家に忍び込んでいた。

——あの男を、確実に手に入れるために。

同じ夜、オデットの寝室では、別の取引が始まろうとしていた。

真夜中のアトリエ

プレヴェ通り近くの高級住宅街に、フランツ・クラウヴィッツのアトリエはあった。

窓辺に立ったサンドリンは、上流階級のタウンハウスが静かに密集する通りを眺めていた。
貧しい無名の芸術家たちがこの一等地に居を構えていられるのは、
ひとえにフランツの財力のおかげだった。

「ドアが開きました!」

ノアの興奮した声が、深い夜の静寂を破る。

顔をしかめてカーテンを閉めたサンドリンは、足音を殺して二階へ上がった。

真夜中に泥棒のように他人の家へ忍び込む。
滑稽だった。

だが、それくらいの自己嫌悪にも耐える価値がある。

汗を拭いながら嬉しそうに笑うノアの顔から、
最後の罪悪感まで消え去っているのをサンドリンは見て取った。

フランツの絵を見せてほしいと最初に頼んだ日、ノアはきっぱりと拒んだ。
友人をそんな風に裏切ることはできない、と。

けれどサンドリンは、彼が必ず承諾すると信じていた。
友情や義理をそれほど大切にする男なら、そもそも友人の秘密を覗き見たりしないだろう。
まして、悪意のある噂を流したりしないはずだろう。

ただ、多額の報酬を提示してから、
五日も経たずに考えを変えるとはさすがに思っていなかったが。

壁を埋め尽くす、一人の女

照明をつけると、暗闇に沈んでいた部屋の景色が一気に目に飛び込んできた。

敷居を越えたサンドリンは、少し驚いて立ち止まる。

フランツの絵は、思っていたよりはるかに完成度が高かった。
ひ弱な金持ちの坊ちゃんの退屈しのぎ、と切り捨てるのが惜しいほどに。

事業家よりも、いっそ芸術家であったほうが利用価値がありそうだ──ついそんな感想が、彼女の口をついて出た。

ノアに案内されて間仕切りの奥へ回ったサンドリンは、思わず目を見開いた。

油絵、水彩、版画、スケッチ。

技法は違っても、
描かれている女は一人だけだった。

—— オデット。

一目でそれとわかるほど精密に、繊細に描かれたバスティアンの妻が、
四方の壁を埋め尽くしていた。

美しいモデルへの芸術家の情熱、というだけでは到底説明のつかない、奇怪な光景だった。

一番隅に立てかけられた大きなキャンバスへ目をやったサンドリンは、
乾いた唾を飲み込んだ。

乱れたシーツの上に横たわるオデットのヌード画だった。
月明かりに濡れた肌と、観客を見つめるうつろな眼差しが、
絵の中の女をいっそう猥褻に見せていた。

——「当分は今の結婚生活を続けるつもりらしい」

バスティアンと会ってきた父親の、呆れたような報告がふと頭をよぎり、
サンドリンはつい笑ってしまった。

これを見たバスティアンは、いったいどんな顔をするだろう。
あとどれくらい、この女の夫でいられるだろう。

愛する恋人のために

父親は、次善策を検討するよう助言した。
結婚が成立しなくても事業上の利益は保障される約束を取りつけたのだから、
ここで手を引いても損はない、と。

だが、心臓が数字で埋め尽くされた父親の取引方式と、サンドリンの心は全く違った。

必ずバスティアン・クラウヴィッツと結婚する──彼女は改めて決意を固めた。

報われない愛に苦しみ、二度目の離婚をすることになっても構わなかった。
少なくとも、あの男を完全に手に入れたという達成の記憶だけは、
自分のものとして残せるのだから。

展覧会の開幕は今年の年末、リンザ・ギャラリーだという。

全てフランツのおかげだと、ノアはひねくれた笑みで自嘲した。
フランツへの感謝は嘘ではない。

ただ、それを覆い隠すほど大きく強烈な感情──劣等感や自己卑下が、その奥で渦巻いている。
サンドリンにとって、最も扱いやすい武器だった。

恩返しをするべきではないかと、
彼女は優しく微笑んでノアと向き合う。

—— あの夜、野心を持つ勝負師を望む、とバスティアンは言った。

ならば、喜んでそんな女になってやろう。

愛する恋人のために、いくらでも。

夜が明けた寝室で

オデットが目を覚ましたのは、夜が明け始めた頃だった。

まだ青い闇の残る寝室は、
深い水の底に沈んだ世界のように静かだった。

ベッドの端に腰かけている男の後ろ姿さえ、その静寂の一部のように見えた。

起き上がりかけた体を止め、布団の端を握ったまま息を殺す。

昨夜の記憶は、この男の下でもがいていた瞬間で途切れていた。
きれいな姿のまま、羽根布団にくるまっていられるような、穏やかな最後ではなかった。

一体なぜ。

混乱を反芻するうちに、
闇の向こうを見つめていたバスティアンが立ち上がった。

暖炉の火が落とす陰影の中で、彼の裸身は薄闇にあってなお存在感を放っていた。

大きな骨格と硬い筋肉の調和は、古代の軍神像を思わせる。

その肉体いっぱいに刻まれた、
神聖さへの冒涜のような傷跡だけが一層異質に映った。

英雄の称号を得るための代償だったのか。
傷の由来を推し量るオデットを置いて、バスティアンは一度も振り返らず寝室を出ていった。

よかった。

遠ざかる足音が消えてから、オデットはゆっくりと体を起こす。

暖炉の前の食卓は、いつの間にかきれいに片付けられていた。
彼が自分で片付けるはずもない。
使用人が入ったのだろう。

他人に見せるためには、
痕跡を消しておく必要があったのだ。

施された慈悲の理由を、オデットは淡々とそう結論づけた。

ベッドの頭にもたれて夜明けを眺めるうち、
体の状態が昨日と大して変わっていないことに気づく。

その事実に悲しく空虚になったちょうどその時、通路のドアが開き、
制服を完璧に着こなしたバスティアンが現れた。

まるで鎧をまとっているかのように、強靭な姿だった。

差し出された手には

規則正しい足音が、明け始めた朝の光の中に響く。

ベッドから一歩離れた場所で立ち止まったバスティアンが、
深まりかけた沈黙を破った。

「計算を忘れていました」

軍用コートから財布を取り出す彼の顔には、一見、寛大そうな微笑みが浮かんでいた。

その行動の意味を悟ったオデットは、
礼を述べ、静かに手を差し出す。

「ありがとう」

長く伸びてきた朝日が、
届きそうで届かない二人の手を照らした。

受け取るべきだ──頭ではそう判断していた。
だが、心がためらった。

道に迷った子どものように途方に暮れ、手を宙に浮かせたまま動けずにいると、
鼻で笑ったバスティアンが、握っていた金を投げつけた。

乱れ舞った紙幣が、ベッドと床の上に静かに舞い降りる。

あからさまな嘲笑とともに見下ろされた眼差しに、
まっすぐ立てた首だけは平穏を装っていても、羞恥に染まった両頬まではどうしても隠せなかった。

——この女は、いつもこんな調子だった。

服従しているふりをしながら、こんなありさまになってもなお、つまらないプライドを捨てきれずにいる。

情けなく、そして愉快だった。
隠しきれていないみすぼらしい心を陵辱する楽しみを、味わうことができたのだから。

時間を確認した彼が、これで終わりとばかりに背を向けるのとほぼ同時に、
オデットは金を拾い始めた。

布団の上の紙幣を集め、落ち着いてベッドの下へ降り立つ。
耳たぶも首筋も赤く染まっていた。

彼女は裸の体をさらしたまま、
床に落ちた金を一枚ずつ拾い集めていった。

サイドテーブルの上、スリッパの間、彼の影の下まで。
一枚も見落とすまいと健気にかき集め、
最後に残ったのは、彼の革靴のつま先に置かれた小額紙幣一枚だけ。

しばらくためらった末、オデットはそのわずかな金まで拾い上げた。

足元にかがむ女の裸の背中を見下ろし、バスティアンの口角がわずかに歪む。

皇宮の舞踏会でイザベラ皇女が叫んだ言葉が、ふと脳裏をかすめた。

——『乞食……。高級娼婦。』

救いようのない世間知らずではあったが、
人を見る目だけは自分より優れていたと、認めざるを得ないようだ。

崩れていく音

「もう少し、差し上げるとしましょう」

立ち上がりかけたオデットの頭上から、笑いの混じった声が降ってきた。

深く息を吸って顔を上げると、
感情のない穏やかな表情のバスティアンが、再び財布を開いている。

—— 仕事が増えたのだから報酬も上げるべきだろう?

署名入りの小切手が四枚、床に落ちた。

増えた業務が何を意味するのかを理解するのは、難しくなかった。
目の前が遠のくほど屈辱的だったが、
それでもオデットは黙々とその金を受け取った。

給料より多い額だ。
もう一度くらい卑屈になれない理由はない。

じっとその姿を見つめていたバスティアンは、
何も言わずに寝室を去った。

ドアの閉まる音を聞きながら、オデットは体を起こして立ち上がった。

心の奥底で何かが静かに崩れていくのを感じたが、
もうどうでもよかった。

札束をサイドテーブルの引き出しにしまい、パジャマとガウンを身につけ、
乱れた髪を整える。

両目にいっぱいに溜まっていた涙が乾いた頃、ノックの音が響いた。

「奥様、お目覚めですか?」

最近やけにこの部屋への出入りが増えた、
はつらつとした声の主は、メイドのモリーだった。


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