🌹 本記事は『バスティアン』原作118話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。
あと三日。
冬が来る前に、この家から消えなければならない。
その決意だけを胸に、オデットは秋の庭園で穏やかに微笑んでいた。
秋の庭園、案じる客人
秋の花が満開の庭園で、
アルマと子犬がはしゃぎ回るのを、オデットは静かに眺めていた。
パーゴラの下に差し込む日差しが、
穏やかな微笑みを浮かべる彼女の顔を照らしている。
その横顔をしばらく見つめていたマクシミリアンが、
ついに我慢しきれなくなった言葉を、慎重に口にした。
「ご気分が悪そうに見えて、心配です」
「私は大丈夫です、ジェンダース卿。ご心配なく」
だがマクシミリアンは引かなかった。
実はトリエ伯爵夫人に頼まれて来たのだった。
事前に連絡すれば「大丈夫」と嘘をつくだろうから、
適当な口実を作ってでも訪ねてみてほしい──そんな依頼だった。
もし何か頼みごとをされたら、できる限り聞いてやってほしいと。
オデットは静かにため息をつき、頷いた。
ジェンダース家の車を使えば質屋へ行けるかもしれない、というかすかな希望もあって、
今朝の訪問を受け入れたのだった。
追い詰められていく理由
それほど親密でもない自分になぜそんな頼みごとが回ってきたのか。
オデットに直接会って、わかったようが気がした。
マクシミリアンの眼差しが深くなった。
「お医者さんには診てもらいましたか?」
「そこまでするようなことではありません」
オデットはきっぱりと首を振った。
ジェンダース家の主治医を紹介できると、柔らかな力をこめて申し出る彼に、
オデットは丁重に、しかし頑として断った。
「お心遣いはありがたいのですが、そのご提案はお断りさせてください。
十分に立派な医者であるクラーマー博士に大変なご無礼を働くことになると思いますから」
彼女の夫が戻って以来、オデットは変わった。
何度考えても、マクシミリアンの結論は同じだった。
この女性が日に日にやつれていく理由は、ほかならぬ夫なのだ。
「すまない、オデット。心配が先立って、失言をしてしまったようだ」
緩くなった彼女の結婚指輪を、彼の視線がじっと捉えていた。
世界で一番きれいな花
気まずい沈黙を破ったのは、駆け戻ってきたアルマだった。
背中に隠していた花束を差し出すと、
父親は慌てて「勝手に花壇の花を摘んだのか」とたしなめる。
だがオデットはそれを制し、子どもからの贈り物を優しく受け取った。
「アルマのように可愛らしい花ね」
アルマは首を振り、オデットの手をそっと握る。
「お花は世界で一番きれいなの。だから、クラウヴィッツ夫人みたいにきれいって言わないといけないのよ」
その無邪気な言葉に、オデットは思わず笑みをこぼした。
アルマの笑い声に、子犬まで嬉しそうに吠え始める。
オデットは身をかがめ、アルマの頬にキスをすると、自分で結んだリボンの髪をそっと撫でた。
残された日は、あと三日。
今はそのことだけを考えなければならない。
—— 必ず、去らなければ。
感傷に流されるわけにはいかなかった。
毒も同然の金
モリーを通して届けられたテオドラ・クラウヴィッツの手紙を受け取ってから、
その切望はいっそう切実になっていた。
助けが必要なら金を渡す。
要求はただ一つ。
—— 冬が来る前に姿を消すこと。
—— バスティアンとフランツの目に触れない場所で、死んだように生きること。
それは援助ではなく、脅迫だった。
異母兄の妻に異常な執着を見せる息子を守るため、母親が差し出した条件だったのだろう。
毒も同然の金だった。二度とあの女の策略には乗らない。
そう決めて手紙を燃やした。
モリーを追い出しても、別の手先が送り込まれるだけだ。
だから今はそのままにしておく。
ただ、テオドラがバスティアンに危害を加えるつもりはないと確信できた以上、
もう逃げ道を塞いで去るべき時だった。
心を落ち着けたオデットは、静かに話を切り出した。
「もうラッツへお帰りになるのですか?」
アルマを送り届けたあと研究室へ戻る予定だというマクシミリアンは、穏やかに頷く。
「でしたら、一つ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
ずっと胸にしまっていた言葉だった。
「どうぞ、オデット。いくらでも」
赤い夢
練兵場を走る兵士たちの気合の声が、かすかに聞こえる。
うたた寝から目覚めたバスティアンは、習慣で左手を上げて時計を確認した。
作戦司令部の会議まで、まだ三十分ほどある。
乾いた手で顔を洗い、ためらいなく簡易ベッドから降り立った。
休憩室の窓の外、
水の庭園はすっかり秋の色に染まっていた。
目覚めた瞬間の、ぼやけた夢の一場面を思い出させる風景だった。
果てしなく広い野原を、一人で歩いていた。
あたり一面が真っ赤で、血だと思ったが、よく見れば花だった。
赤い花の波に降り注ぐ金色の日差しがまぶしかった。
地平線の向こうから誰かが近づいてきていた気もするが、その先の記憶は曖昧だった。
無意味な雑念を払い、
冷たい水で顔を洗うと、意識がはっきりした。
欲しいものが、もうない男
「今夜、お父さんに会うことになっているんだって?」
背後から、にやにや笑うエーリッヒの声がした。
差し出された煙草を受け取り、バスティアンは窓辺で火をつける。
近くで見るその目は赤く充血していた。
父親を血走った目で追い詰めているという噂も、あながち誇張ではなさそうだった。
エーリッヒは、フランツなど放っておいても自滅すると笑い飛ばす。
ところが返ってきたのは、思いもよらない一言だった。
「うんざりだ」
あまりにも淡々とした答えに、エーリッヒは煙草を持つ手を止めた。
この男は昔からそうだ。
何かを強く欲しがっているようには見えない。
それでも義務だけは黙々と果たし、誰よりも大きな成果を手にしてしまう。
そして、その成功にさえ執着を見せない。
会社も築いた。最年少海軍提督の座も目前にある。
「それだけ手に入れて、まだ欲しいものがあるのか?それとも初心に帰って、またガラクタでも拾うつもりか」
軽口だけを残し、エーリッヒは部屋をあとにした。
計算の合わない憎しみ
エーリッヒが去ると、部屋は再び静かになった。
—— 欲しいものなど何もない男。
自分を思い返しながら、バスティアンは鏡の前でもう一度制服を整えた。
—— うんざりだ。
無意識に口にしたその答えを反芻すると、乾いた笑いがこぼれた。
妻を殺し、子を虐げた者にすら、ただうんざりするだけなのに、
たかが書類を数枚持ち出しただけの女を、これほど猛烈に憎んでいる。
どう考えても、計算が合わなかった。
「クラウヴィッツ少佐!」
デメル提督の威勢のよい声が聞こえてきた。
肩章の形を整えたバスティアンは、準備しておいた資料を持って休憩室を出た
海軍本部の廊下は、会議へ向かう将官と副官でごった返していた。
議題を要約して説明しながら提督を補佐するうち、
二つの建物を結ぶ回廊に差し掛かったところで、また「赤い夢」が蘇った。
何気なく首を向けると紅葉した庭園が見え、当然のように夢の残像が立ち上がる。
曖昧な記憶をたどるうちに回廊の終わりが近づき、
彼は無駄な考えを捨てて司令部へ入っていった。
倒れたオデット
ジェンダース伯爵家の車は、ラッツ市街の公園の西側で停まった。
オデットが希望した場所だった。
眠りについたアルマを胸に抱いたマクシミリアンが、
静かにため息をついて顔を向ける。
「正確な目的地を言ってください、オデット。そこまでお送りしますよ」
額の冷たい汗をぬぐったオデットは、質素な帽子をかぶり、バッグを手に取った。
ずいぶん大きくて重そうな荷物だった。
「ここからそんなに遠くないんです。車に乗るほうが、かえって不便になります」
オデットは頑として譲らなかった。
「本当にありがとうございます、ジェンダース卿」
丁寧な別れの挨拶を残したオデットは、急いで車から降りた。
複雑な心境のこもった眼差しで、マクシミリアンはその後ろ姿を見送った。
マクシミリアンは、運転手に出発を命じることができなかった。
このまま見送るのが最善なのか、確信が持てなかったからだ。
やはり連れ戻したほうがいい──そう判断しかけたまさにその時、
運転手の叫び声が響き渡った。
慌てて車を降りた運転手が、公園に面した歩道へ駆け寄る。
それを見たマクシミリアンの口からも、悲鳴のようなうめきが漏れた。
驚いて目を覚ました子どもが泣き始めたが、それを気にかけている場合ではなかった。
アルマを車に残して降りたマクシミリアンは、
路上に倒れているオデットへ向かって、我を忘れて走り出した。
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