🌹 本記事は『バスティアン』原作119話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。
路上で意識を失ったオデットが目を覚ましたのは、
見知らぬ天井の下だった。
そして彼女には、誰にも言えない行き先があった。
目覚めた、見知らぬ天井の下
最初に目に入ったのは、見慣れない天井だった。
午後の日差しが、装飾を最小限に抑えた薄い灰色の天井を染めている。
四柱式ベッドのレースの影の下で目覚める、いつもの自分の部屋とは違う風景だった。
「よかった」
ため息の混じった男の声が、ぼんやりとした意識の向こうから聞こえてきた。
慣れ親しんだあの声よりも、温かく、柔らかい。
「……ジェンダース卿?」
乾いた唇でその名を囁き、ゆっくりと首を向ける。
ベッドのそばに座ったマクシミリアンが、
憂いを帯びた眼差しで彼女を見つめていた。
「車を降りてすぐ、意識を失って倒れられました。
とりあえず私の家にお連れしたのです」
濡れた綿のように重い体を、オデットは辛うじて起こして座る。
水を渡したマクシミリアンは、窓辺へ行き、カーテンを調整する。
光が彼女の顔に直接当たらないようにとの配慮だった。
水を飲んで意識をはっきりさせたオデットは、
ゆっくりと記憶をたどった。
祝福と呼ばれたもの
伯爵が訪れる前から、体調は良くなかった。
寒気がして、冷たい汗が流れ、車での移動中に容体が急激に悪化した。
込み上げる吐き気を、必死にこらえていたせいだった
「海軍省に連絡しておきましょう。ここからそんなに遠くないですから。クラウヴィッツ少佐がすぐに来られます」
「いいえ、やめてください」
オデットはひどく動揺し、彼を制した。
疑念を抱かれる言動だとわかっていたが、もう余裕は残っていなかった。
「あの方はとても忙しい方ですから。つまらないことで、夫を心配させたくありません」
「妊娠はつまらないことではありませんよ、オデット。
妻を愛する夫なら、むしろこの世で最も大きな祝福として喜び迎える知らせですよ」
ジェンダース家の医者が、妊娠の可能性があると告げていったのだ。
そのため、薬は処方しにくいからと。
目覚めたら、改めて主治医に診てもらうように──。
オデットが、慌てて首を横に振る。
「アルマを身ごもった時、私の妻も今のあなたとまったく同じ症状を見せましたよ」
「何か大きな誤解をされているようです、ジェンダース卿。そんなことはありません。自分の体は、私が一番よく知っています」
「助けていただき、ありがとうございます。これで失礼します」
──逃げるようにベッドを降りた彼女は、
しかし一歩も踏み出せずによろめいた。
旅行ではない荷物
支えた体を通して、オデットの震えが鮮明に伝わってきた。
マクシミリアンは、彼女を暖炉の前の椅子へ連れていった。
立ち上がろうとする肩を押さえる手に、
以前にはなかった断固とした力がこもっていた。
「話したくないことなら、あなたの意思を尊重します。むやみに干渉しないと約束しましょう。その代わり、もう少し休んでから、私と一緒に帰りましょう」
当然、夫を呼ぶべき状況だとわかっていた。
それでも、怯えるオデットを、彼はとても見ていられなかった。
しかし、学長との約束を思い出したマクシミリアンは、
5時までには戻るからと言い残し、震える肩にブランケットをかけて客間を出た。
廊下の角を曲がると、アルマが駆け寄ってきた。
「パパ!クラウヴィッツ夫人、旅行に行くみたいよ。
カバンに可愛い服や靴がいっぱい入ってたの!」
他人の物を勝手に触ってはいけないと叱る父に、
アルマは不満げに口を尖らせた。
「カバンが倒れちゃったから、起こしてあげただけだよ。悪いことじゃないもん」
その小さな手が、きらきら光る何かを握っていた。
「小さなメグがカバンから落ちて、ケガしちゃったの。
クラウヴィッツ夫人に届けてあげるの」
それを受け取ったマクシミリアンの眼差しが、深くなる。
オデットの飼い犬に似たクリスタルのオーナメントだった。
── 旅行に出かける貴婦人が、わざわざ持っていくような物ではなかった。
舞い上がる鷹
目的地が近づくにつれて、オデットの足取りは速くなっていった。
日が暮れようとしている。
闇が降りて裏通りが活気づく前に用事を済ませるには、一刻を争う必要があった。
── ジェンダース伯爵は秘密を守ってくれるだろう。
バスティアンに連絡するつもりなら、とっくにそうしていたはずだから。
感謝だけを胸にしまい、
オデットはそのまま彼の家をあとにした。
蟻の巣のような路地を抜け、息を切らして質屋にたどり着く。
うたた寝していた老主人がチャイムに飛び起きるなか、オデットはバッグを台に置いた。
黒いベール越しに顔をうかがう視線を感じても、
彼女は動揺しなかった。
「これも売るのかい?」
品物を吟味していた老主人が、一通の封筒を手にしていた。
このバッグに入れた覚えのない物だった。
「……いいえ」
うっかり紛れ込んだ手紙だと思った。
しっかり封がされたその封筒に、押された印章を見るまでは。
—— 『舞い上がる鷹』
ジェンダース家の紋章だった。
いつでも助ける、という約束
最後の光が差し込む窓辺で、彼女は封筒を開けた。
驚いたことに、中にはお金が入っていた。
挟まれていたメモを、慌てて広げる。
——『アルマが誤ってカバンを倒してしまい、夫人の物を破損させてしまいました。
娘の過ちを代わってお詫び申し上げます。
このお金は、壊してしまった子犬の人形代です』
急いで書いたのか、
普段より線の雑な、それでも紛れもないジェンダース伯爵の筆跡だった。
その時になって、オデットは売るために持ってきた装飾品を思い出す。
バッグの中身を見られたこと以上に当惑したのは、
すべてを承知のうえで、見て見ぬふりをしてくれた彼の態度だった。
—— しかも、こんなにも多額の金を。
マルグレーテに似ているからと大切にしていたが、
あのオーナメントは露店で買った安物にすぎない。
それに価値などないことを、ジェンダース伯爵が知らないはずがなかった。
そこまで考えが及んで、ようやく追伸の意味が腑に落ちた。
——『私はいつでもあなたを助ける準備ができています』
何度か読み返しているうちに、査定が終わった。
手紙を折りたたみ、お金といっしょにハンドバッグの奥に押し込む。
目元が熱くなり、喉が詰まったが、耐えられないほどではなかった。
冷静な態度で交渉に臨んだオデットは、
望む額すべてとはいかなかったが、妥協できる線は守った。
バッグごとすべてを引き渡して、質屋を出た。
自分への、許せない憎しみ
薄暗い闇の降りた裏通りが、歓楽の灯りでゆっくりと染まり始めていた。
最も派手に照らされた向かいの賭博場を前に、オデットの顔を自嘲がよぎる。
情けない偽善を振りまきながら歳月を無駄にし、
今日に至った自分が憎かった。
自分の手ですべてを台無しにしておきながら、
責任だの義務だのと口にしていたなんて。
──いっそすべてを投げ出して逃げていれば、こんな悲劇はなかったものを。
最後の道理を尽くしたいという罪悪感だと信じてきた。
だが今思えば、それはただのわずかな自己満足にすぎなかったのかもしれない。
そのくだらない欲のせいで、
より大きな罪を犯すことになるとは、夢にも思わずに。
きつく閉じた目を開けたオデットは、逃げるように狭く暗い路地へ入っていった。
路地の奥で
その病院は、路地の最も奥まった薄暗い場所にあった。
まともな看板一つない、怪しげな外観とは裏腹に、
腕だけは確かだと言われていた。
ためらいながらオデットが一歩を踏み出すと同時に、ドアが開いた。
ひどく腫れた目をまともに開けられない女が、
友人に支えられて出てきた。
「死ぬほど痛いらしい。一人で行ったら、這いつくばりながら出てくる羽目になるだろうね」
ぶっきらぼうに警告を残した女の腕の中で、
もう一人が苦痛の悲鳴を上げ、むせび泣いていた。
「おい、そこの」
痰の絡んだ声に、オデットはびくりと振り返る。
開いたドアの向こうで、老婆が手招きしていた。
エプロンに付いた血が、目に刺さるように飛び込んでくる。
おそらく、先ほどの女が残した跡だろう。
今すぐ逃げ出したい気持ちを必死に抑え、
オデットはもう一度、そのみすぼらしい建物へ向き直った。
無意識に下腹部をさすっていた手を、そっと引っ込める。
「ツケはダメだよ。意味はわかるね?」
冷たく光る老婆の目に、オデットは頷いてみせた。
そして、
金の入ったバッグを握りしめ、オデットは歩き出した。
📖 前の記事
▶泥の中の愛⑩|118話 赤い夢 ─ あと三日、冬が来る前に
📖 次の記事 【泥の中の愛】
▶ 泥の中の愛⑫|120話 当てもない足取り
🌹 原作『バスティアン』を読み進める
▶バスティアン|原作ガイド
【免責事項】
※翻訳方針については当サイトの「翻訳・引用ポリシー」をご確認ください。
※本記事は作品のテーマを考察するものであり実在の行為を推奨・肯定する意図はありません。
※作品の引用・翻訳は著作権法の範囲内で行い、引用元を明記しています。
※本記事は作品内容の分析・評論を目的としたものであり、原作の翻訳全文を掲載するものではありません。