泥の中の愛㉔|132話 神と運命が消えた場所 ─ 差し出された手と、鞄の底の産着

バスティアン|泥の中の愛㉔|132話 神と運命が消えた場所 ─ 差し出された手と、鞄の底の産着 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作132話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

祈りは、届かなかった。

レツェン行きの列車が動き出したその時、
ホームの向こうから、あの男が近づいてきた。

行き先も知らない列車

レツェン行きだと知ったのは、乗り込んだ後だった。

一番早く出る列車の切符を掴み、駆けつけた。
準備もなく見知らぬ国へ向かう現実に怖気づいても、足を戻すことはできなかった。

間違いなく、同一人物だった。

頬の傷跡、体格、声。

ベルクを逃げ出した日、列車で助けてくれたあの男と、すべてが一致する。
危険な時だけ現れ、そして消える。

―― 尾行がついている。
誰の命令かは、考えるまでもなかった。

一ヶ月以上も気づかせなかった有能な監視者だ。
今もどこかで見られているかもしれない――息が詰まる思いで、怯えるマルグレーテを抱きしめる。

追われていてもいい。
ひとまずこの町を出られれば、次を考えられる。

――だから、どうか。
無情な神と冷酷な運命に、たった一度だけでも慈悲を。

祈りに応えるような汽笛が鳴り、雨に濡れたホームが遠ざかり始めた。
その直後、鋭い金属音とともに、列車が急停車した。

近づいてくる男

曇った窓を拭い、外をうかがう。

ホームの向こうから、一団の男たちが近づいてくる。
雨で視界はぼやけていても、先頭の男はわかった。

あの背丈、あの体格。
まっすぐな姿勢と、節度ある足取り。

「ここです!ここ!」

客車の前で叫ぶ声は、訛りのない流暢なベルク語だった。

逃げなければ。

わかっているのに、指一本動かない。

一団が乗り込み、足音が近づく。
ドアが開いた。

オデットはマルグレーテを懐の奥に隠すように抱き、ぎゅっと目を閉じた。

土砂降りは、ますます激しくなっていった。

白く燃え尽きる日まで

出発済みの列車を止めたのは、駅長の厚意だった。

フェリア中に顔を知られた「敗者」になったおかげで、
乗り間違えた妻を探したいという要請はあっさり通った。

随行員を下がらせ、バスティアンは単身で通路を進む。

捜索の必要はなかった。
ドアを開けた瞬間、後ろ姿だけで彼女だとわかった。

オデットは、青いコートを着ていた。
彼が贈った、あの服を。

寒がりな彼女を案じて、自ら衣装室に連絡した日の記憶が蘇る。

暖かい服を着せてやりたい――その気持ち一つで、恥ずかしげもない真似ができた時代。

僕が君を、
永遠に僕に心を向けない君を、愛して——

何度裏切られても手放せない、
この惨めな未練が、うんざりするほど嫌だった。

憎悪がこういうものなら、最初から持たなければよかった。

だが乾いた胸に落ちた火種は、
とうに人生すべてを飲み込み、野火に燃え広がっている。

ならば残された道は一つ。

炎の勢いが尽きるのを待つだけだ。

いつか、すべてが白く燃え尽きる日が来る。
憎悪も、執着も、未練も、この女の名前まで、全部灰になって消える。

——ならば、その結末を見届けてやる。

列車を乗り間違えられましたよ、奥様

マルグレーテが尻尾を振って鳴いても、オデットは目を閉じたまま現実を否定していた。

「列車を乗り間違えられましたよ、奥様」

低く抑えた声が、雨と風の匂いを乗せて降ってくる。

目を開けると、雨に濡れた靴が視界に入った。
私たちが乗るベルク行きは反対側のホームだ、と諭す声は、非現実的なほど穏やかだった。

顔を上げる。

神と運命が消えた場所に立つ男は、静かな眼差しで彼女を見下ろしていた。
憎悪も怒りも見当たらない。
かすかに微笑むその顔は、ひどく慈悲深くさえ見えた。

だが、みすぼらしい身なりを一瞥した瞬間、その眼差しは冷ややかに沈む。
いっそ贅沢に暮らしていてくれたほうが、ましだった。

放浪を自ら選ぶほど自分を嫌う女だと、確認せずに済んだのだから。

おとなしく来ないなら、好ましくない方法を使うしかない。
どうせ同じ結末なら、最小限の品位を保てる選択が賢明ではないか?

抑揚のない囁きとともに、手が差し伸べられた。

貴婦人へのエスコートのように優雅な、それは最後通告だった。

短い自由も幸福も、蜃気楼にすぎなかった。
欺いたつもりで、徹底的に欺かれていた。

彼の意図が想像すらできないことが、絶望をさらに深くする。

まずは、最悪を避ける時だ。

崩れそうな心を立て直し、オデットは冷たい手で、その手を握った。
待っていたかのように掴み返す大きな手には、熱い力がこもっていた。

ひっくり返された鞄

特別室のドアが閉まると同時に、列車が動き出す。

鍵をかけ、カーテンを閉めた。
濡れた顔を拭いたバスティアンは、タオルを手にオデットの前に立った。

脱いでください、と濡れたコートを目で指す。

「どうして離婚を受け入れてくれなかったのですか?」

何も聞かなかったような顔で、オデットは冷たく問うた。
――あなたの被害を最小限にする準備までしておいたのに、なぜ。

「最善は僕が決める、オデット」

説得は無駄と判断した彼は、自らコートを脱がせた。

床に落ちたコートから、ガラクタがこぼれる。

安物の石鹸。
靴墨。
潰れた金貨型のチョコレート。

彼女のこの一ヶ月を物語る品々に、バスティアンの眉間の皺が深くなった。

濡れたブラウスのまま放っておけば、何日も寝込むことになるだろう。
こみ上げる心配を飲み込んで手袋を外すと、放心していたオデットがもがき始めた。

ボタンが弾け、床に散らばる。

一歩引いて、着替えを探すために鞄を開けた彼の口から、呻きのような笑いがこぼれた。
どれもみすぼらしい物ばかり。

その中で、「H」を刻んだ金の櫛――この女の最後の矜持のようなイニシャルだけが、
かすかに光っていた。

産着

「触らないで!」

オデットが駆け寄り、叩き、突き飛ばす。

「見ないで!あっちへ行って!嫌!」

膨らんだ腹を隠すことも忘れて暴れる彼女を、
彼は指一本許さないまま、ついに鞄をひっくり返した。

人生のどん底をさらけ出されたような悲しみと屈辱に、オデットが喘ぐ。
その間に、バスティアンは服の山の下から、それを拾い上げた。

——産着。

暇を見つけては、心を込めて作ってきたものだった。

それを掴んで顔を上げた男は、ついに確信を得たはずなのに何の動揺も見せない。
飢えているかのように冷たい眼差しの意味がわからず、
オデットがたじろいで後ずさったのと同時に、列車がトンネルに入った。

明かりのない客室を、暗闇が飲み込む。

客室は、闇に沈んだ。

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