泥の中の愛㉓|131話 冬の雨 ─ 砕けた希望と、雨の中へ踏み出す男

バスティアン|泥の中の愛㉓|131話 冬の雨 ─ 砕けた希望と、雨の中へ踏み出す男 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作131話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

最初のボタンは、無事に留まった。

小さな希望に胸を熱くしたその日、
オデットは夕刊の一面で、あの男の顔を見た。

最初のボタン

面接を終えたオデットの顔には、明るい笑みが浮かんでいた。

下宿屋の主人が紹介してくれたのは、裕福な弁護士一家の五歳の娘にピアノを教える仕事。
気位の高い母親が難関だと聞いていたが、反応は好意的で、来週から授業ができるかと探りまで入れられた。

心はもう決まっていると見てよさそうだった。

いつになく弾む足取りで、オデットは年の瀬の商店街を歩いた。
曇り空さえ祝福に思える日だった。

暖かい南の小さな町で平穏に暮らす――二年間忘れていた夢が、叶うかもしれない。

飾られたショーウィンドーを眺めながら、日用品を買い、
金貨の形をしたチョコレートまで衝動買いした。
無駄遣いの余裕などないのに、今日の記念にすることにした。

——あなたは、どんな子かしら?

リンゴを買い、停留所を探しながら、ふと思う。

数々の試練を乗り越えた、たくましい子。
味の好みも自分とは違うらしい。

想像の先に、あの男の顔が白い吐息の上に浮かんでは消えた。

――いつか子どもが父を知りたがる日が来るだろう。

だが、それは遠い将来のことだ。

今は目の前の現実を生きることで手一杯だった。

夕刊の一面

それに気づいたのは、トラムの鐘が聞こえ始めた時だった。

タバコ屋の店先の売店に、あの男の顔があった。
幻かと見直しても、変わらない。

今日の夕刊の一面に、バスティアン・クラウヴィッツの写真が載っていた。

『北海の英雄、父と繰り広げた鉄道戦争では惨敗を免れず――』

フェリア政府の国有鉄道事業権をめぐる入札で、勝利は父ジェフ・クラウヴィッツの手に渡った、という記事だった。

発表は今日の午前。
そしてバスティアンは、わざわざフェリアに来て、その場に出席したという。

金を出せと怒鳴る店主に、
半分魂の抜けたまま新聞を戻し、謝罪する。

指先から始まった震えは、あっという間に全身へ広がった。

——あの男が、ここにいる。

頬の傷跡

逃げるように売店を離れたが、力の抜けた足は言うことを聞かない。
トラムから溢れた人波に押され、バランスを崩した瞬間、
腕をガシッと掴む手があった。

――「大丈夫ですか?」

反射的に礼を言い、慌てて落とした物を拾った。
破けてしまった紙袋は諦め、上着のポケットに無造作に押し込んだ。

—— ベルク語だった。

まるで、こちらの国籍を知っているかのように、ごく自然に。

青ざめて見回しても、男の姿はもうない。

友好国だ――ベルク人がいても珍しくはない。
冷静になろうと努めるうち、すれ違いざまの顔が蘇る。

ぼんやりした顔立ちの中で、頬の大きな傷跡だけが鮮明だった。

奇妙な既視感の正体を理解した唇から、呻きの混じった嘆息が漏れる。
カルスバールの駅で、トランクを拾ってくれたあの男。

トラムを待つ余裕も失い、オデットは我を忘れて走り始めた。

嘲笑される敗者の役

その頃バスティアンは、小切手一枚で交渉を終えていた。

蒸気機関車三十台分の金額で、エティエン鉄鋼を買収。
鉄道を買えなかった金を鉄鋼に使う気か、と探る老獪な事業家に、
大恥をかいたので何か一つは手に入れて帰らないと体裁が保てない、と適当にとぼけてみせる。

実のところ、負けは織り込み済みだった。

鉄道事業はすでに飽和していた。
衰退していく王朝を簒奪する気は微塵もない。

あのくだらない鉄道王の玉座は、腐り朽ちるまで父のものでいい。
フランツがかき集めた債券が紙くずになれば、落札した事業を進める余力は消え、投げ出すしかなくなるだろう。

その時、安値で拾うのが最も合理的だ。
目標額で事業権が手に入るなら、嘲笑される敗者の役などいくらでも演じられた。

父が勝利に酔うほど、物事は順調に進む。

残る任務は、ただ一つ。
妻と共に、帰国の途につくことだけだった。

冬の雨

ケラーのメモを運転手に渡し、車はオデットの下宿屋へ向かった。

だが、チャイムを鳴らす寸前、見慣れた顔の男が現れた。
ケラーの助手だった。

「申し訳ありません」

謝罪から入るのは、良くない兆候だった。

クラウヴィッツ夫人は三十分ほど前にここを発ち、ケラーが追跡中。
おそらく、列車に乗るつもりだと。

「わかった。出発しよう」

予期していた状況だった。
面倒にはなったが、感情を消耗する必要はない。

このかくれんぼも、ここまでだ。

そしてバスティアンは、もはや盲目の手先になってやる気はなかった。
それだけで、結論は出ていたも同然だった。

車が駅舎へ着く頃、一日中曇っていた空から、
冷たい冬の雨が降り始めていた。

バスティアンは、ためらうことなく、
その雨の中へと出て行った。

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