泥の中の愛㉒|130話 高価な顔 ─ 北向きの部屋と、フェリアへ向かう列車

バスティアン|泥の中の愛㉒|130話 高価な顔 ─ 北向きの部屋と、フェリアへ向かう列車 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作130話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

オデットは三つ目の宿に、ようやく根を下ろした。

その頃バスティアンは、鉄道戦争の決着をつけるため、
フェリア行きの列車に乗り込む。

——彼女の潜む、あの街へ。

北向きの部屋

三つ目の宿は、町外れの静かな住宅街にあった。
厳格な老婦人が営む下宿屋。

一番安い部屋は最上階の北向きで、寒くて薄暗かったが、暖炉があるだけで十分だった。

中流階級の女性だけを選んで受け入れる主人の前で、オデットは没落貴族の令嬢だと身分を偽り、ピアノを弾き、教養を試す討論までくぐり抜けて、ようやくこの部屋の資格を得たのだった。

「本当によかったわね。ね?」

マルグレーテに話しかけるのは、逃亡生活で身についた癖だった。

しっぽを振って応えてくれる小さな相棒に、かすかな微笑みがこぼれる。
目の前が真っ暗になる時でも、こうしてまた勇気が湧いてくる。

ひと月が経とうとしていた。
心配していたことは、何も起こらなかった。

オデットが落ち着いていく間、腹の子も健やかに育った。
これまでの不安がむなしくなるほど、穏やかな日々の連続だった。

春までに

この冬はここで過ごせる。
だが春には、子と暮らす新しい家を探さなければならない。
その頃には腹も目立っているだろう。

潔癖な主人が、父親のいない子を身ごもった下宿人を我慢してくれるとは思えなかった。

一日でも早く稼がなければ。

幸い、元家庭教師だという主人は、オデットの演奏を気に入っていた。
時間制のピアノ教師の仕事なら探してやれる、と。

危険を避けてしばらく引きこもるつもりだったが、
すべてが終わったのなら、時間を無駄にする必要もない。

今夜の夕食で頼んでみよう——そう決めると、心はすっかり軽くなった。

薪は日が暮れてからだけ。

贅沢だった過去二年が異例だっただけで、家運が傾いてからはずっとこうして冬を越してきた。
ただ本来の場所に戻っただけだと、オデットは謙虚に現実を受け入れた。

「苦労させてごめんね、メグ」

枯れ枝を拾える場所を探そう。
夕食の鐘が鳴り始め、身なりを整えていた彼女は、ふと立ち止まり、
少しずつ膨らみ始めた腹に手を当てた。

近いうちに、ゆったりした服が必要になりそうだ。

仕事を探す決意は、いっそう固くなった。

父に認められた息子

「よくやった、フランツ。お前がやったんだな」

ジェフ・クラウヴィッツの眼差しには、かつてない愛情と自負がにじんでいた。

破り捨てられるのが常だった報告書が、今日は父の膝の上にきちんと載っている。
フランツは夢見心地のまま、ぼんやりと父を見つめた。

表向きは鉄道王の座をかけた戦争。
だがその裏には、傘下の数十社の利権がかかっていた。

バスティアンはクラウヴィッツの構造をそっくり模倣してイリス商会を再編し、
今や鉄道会社同士の全面戦を挑んでくる。

鏡の中の自分と戦っているようだ、とジェフが感じる所以だった。

バスティアンが全力を注ぐのは、フェリアとベロフを結ぶ鉄道事業権の落札。

だが自信過剰には隙が生まれる。
フランツはその隙を突き、バスティアンが狙っていた新興国の債券を一足先に買い付けた。

イリス商会の資金確保に大打撃。
しかも入札を指揮するフェリアの財務大臣は、クライン伯爵家の姻戚だ。

「今回の鉄道事業権の落札は、お前の時代を切り開く第一歩となるだろうな」

二日後には勝者が発表される。
意気揚々と中央駅へ入った親子の前に——雲のような人だかりを引き連れた、長身の将校が現れた。

高く売れる顔

「お久しぶりです。お父さん。お元気でいらっしゃいましたか?」

先に口を開いたのはバスティアンだった。

一見、普通の家族のような挨拶。
殺しそうな目で睨みながらも、ジェフは声を荒げられない。

聖戦の舞台である中央駅で、
息子と取っ組み合ったという噂など容認できるはずもない。

直接フェリアで入札発表を見守るとは積極的だ、と探るバスティアンに、
ジェフの浅い忍耐が尽きる。

今のような状況で顔を売るのが得策か。

妻一人まともに面倒を見られず恥をかいた馬鹿者に、
重責を任せたいと思う者がいるか、と。

「ずいぶん高く売れる顔なので、ご心配はいりませんよ」

それは、見ればわかること——脅しを残して去る父子を、バスティアンはのんきに見送った。

飴玉を一つ含ませておいたから、しばらくは静かにしているだろう。

大衆の関心は、連日ゴシップ紙を賑わす海軍の英雄に集中していた。
警官に導かれてホームへ移った彼は、
随行員の待つ特等室で、すぐに作戦会議を始めた。

青白い月

会議が終わる頃、窓の外は濃い闇だった。

議事録をまとめる師・トーマス・ミュラーに休むよう促し、
逆に何度も念を押されて、バスティアンは一人になった客室でベッドに身を横たえた。

有り余る宝石を置いて去った女は、安宿を転々としながら職を探し、暇さえあれば薪を拾い歩いている——

ケラーの報告を受けた日、彼は呆れてしばらく笑った。

そして翌日、海軍省に休暇を申請した。
フェリア出張に、自ら同行するために。

泥沼に落ちた評判に、この手間。
オデットによる損失を計算すると、また虚しい笑みがこぼれる。

——最も高価に売られている顔は、もしかするとあの女かもしれない。

ネクタイを緩めて窓の外を見ると、青白い月が浮かんでいた。

フェリアのどこかで眠る女を思い浮かべながら、バスティアンは目を閉じた。


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