泥の中の愛㉛|139話 計算は狂った ─ 最後の希望と、愛の影

バスティアン|泥の中の愛㉛|139話 計算は狂った ─ 最後の希望と、愛の影 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。

最後の希望と信じた車は、むなしく走り去った。

いつもそうだったように、救いは届かない。
――ならば。

オデットは、床に光る銃へ、静かに手を伸ばした。

どうせ、いつも一人だった

死力を尽くして手首の拘束を解いた瞬間、バスティアンの車が現れた。
必死に窓を叩いたが、彼の車は気づかないまま遠ざかっていった。

窓を叩いていた手が、力なく落ちた。

外国へ行こう、二人で新しい人生を始めよう――フランツは妄想をまくし立てながら、危険な疾走を続けている。

お腹の子も自分の子として育てればいい。
フランツの妄想は、兄の妻と子を奪って築く家庭にまで及んでいた。

その虚ろな瞳に恐怖しながらも、オデットは気づいていた。
後部座席の荷物の下に、冷たく光るもの。

――銃。

今さら救いの手に頼るのは滑稽だった。
どうせ、いつも一人だったのだ。

ポケットナイフを懐に夜道を歩いた日々を思い出すと、意識は明瞭になった。
彼は運転もままならないほど酔っている。
夜の海に転落して犬死にする前に、この車を止めなければ。

あの日の記憶の中へ

隙を突いて、オデットは銃を握った。

――「よく見ておくんだ」

張り裂けそうな鼓動の間に、射撃を教えてくれたバスティアンの声が蘇る。
忘れていたはずなのに、その記憶は驚くほど鮮明だった。

空と海の間を吹き抜ける風、金色の陽射し、背中を守っていた体温まで。

あの日に戻ったのだと、思うことにした。
背後には彼がいて、だからすべて大丈夫なのだと。

教わった通りに構え、銃身を支える力を加減し、呼吸を整える。

「今すぐ車を止めて!」

ようやく夢から覚めたフランツは、子どもの悪戯でも見たようにクスクスと笑った。

「あなたを救うためだったって、分かっているでしょう?」

「気持ち悪い言い訳はしないで!」

照準点を上げる。銃口は、正確に頭を狙っていた。

バスティアンは来る。
傷ついたマルグレーテともみ合いの跡を見れば、必ず察するはずだ。

何としても子どもを奪おうとする執念の男だ。
だから、車を止めて時間を稼げばいい――揺らぐ心を、彼女は何度も立て直した。

目を閉じるな

「最後の警告よ。車を止めなければ、撃つわ」

その時、闇に沈んだ海岸道路の向こうから、ヘッドライトが急速に近づいてきた。
気づいたフランツが、罵りながら再び速度を上げる。

最後のチャンスを逃してはならない。
躊躇いの光が、瞳から消えた。

――「前を見るんだ」

――「顔を上げて」

姿勢を直してくれた手つきまで、現在のように蘇る。
オデットはあの日の記憶の中へ戻り、引き金を引いた。
果てしない恐怖の中でも、最後まで目標物を見つめたまま。

――目を閉じるな。

心の奥に残っていた、彼の最後の助言のように。

どうか、どうか、どうか

銃声、そして急ブレーキの金属音。
ガードレールに激突した車が、そのまま街路樹へ衝突する。

バスティアンはすぐ後を追って車を止めた。

頭の中が真っ白になり、思考も感情も揮発して、残ったのはただ一つ。
オデットという名前だけだった。

――どうか。

何を願っているのかも分からないまま、祈った。

どうか、どうか、どうか。

大破した車の後部座席から、ふらつきながら女が降りてくる。
海風になびく黒い髪、青い上着。

見間違えるはずもなかった。

血まみれのフランツが追いすがると、オデットは振り向きざまに両腕を上げた。
乱れのない姿勢で、冷徹な狙撃手のように銃口を向けて。

あの銃声の意味を、バスティアンはようやく理解した。

――オデットは、無事だ。

顔を覆う手が、悪寒に襲われたように震えていた。

バスティアンは空へ信号弾を撃った。
そして、再び完璧な照準姿勢を取った彼女へ、慎重に近づいていった。

驚かせないことが、今は何より重要だった。

「オデット」

優しく名を呼ぶ声に、彼女が顔を回す。
涙で曇った視界でも、そのシルエットだけで分かった。

――来てくれた。

張り詰めていた体から力が抜け、
崩れ落ちる彼女を、バスティアンは抱きとめた。

「よくやった。もう大丈夫だ」

憎悪は愛の影

ドーラたちにオデットを引き渡し、バスティアンはフランツと向き合った。

父が熱望した、貴族の血を引く後継者は、もはや再起不能だった。
もともと、オデットを利用してフランツを叩くのは彼の戦略の一つだった。

だからねじれた欲望を傍観してきた。
今さらフランツだけを責めるのは、滑稽な話だった。
むしろ目的を代わりに叶えてくれた彼らに感謝すべきなのかもしれなかった。

「まさかオデットを愛しているとでも?」

フランツが吐き捨てる。
どんなことをしても、あの女を手に入れられない点では、お前も僕と同じだ。
いや――妻にして子まで孕ませておきながら心を得られなかった分、もっと惨めな敗者だ、と。

バスティアンは答えず、背を向けた。

――計算は、狂った。

失敗を認めた瞬間、彼の意識は、この混乱の始まりであり終着点でもある女だけに集中した。

愛せないなら、憎めばいい。
そうすれば、いつか終わると信じていた。

だが今、分かった気がした。
憎悪は、愛の影にすぎなかった。

――結局、僕は君を愛していた。

かつては眩しい光の中で。
今は、その光が落とす影の中で。

その瞬間、肩に鈍い衝撃が走った。

獣の唸りに振り向くと、血のついたナイフを振り上げるフランツがいた。
周囲の悲鳴で、ようやくそれが自分の血だと認識する。

「バスティアン!」

オデットの鋭い悲鳴と同時に、さらに激しい打撃音が響き渡った。

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※本記事は作品内容の分析・評論を目的としたものであり、原作の翻訳全文を掲載するものではありません。