泥の中の愛㊽|156話 崩れた祭壇 ─ 夜の海の幻と、破棄された嘘

原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。

その夜、最後の砦が崩れた。

白い砂浜の向こうから、
マルグレーテが、走ってきたのだ。

慣れてしまった無駄足

今日は、二件の情報提供があった。

午前は海水浴場近くの白い犬——まったくの別犬だった。
夕方はリボンを見つけたと主張する男——自らそのレースを編んだオデットには、模様の違いが一目でわかった。
金を要求した男は、従僕たちに引きずり出された。
どれも、もう慣れてしまった騒ぎだった。

真夜中近く、編み物を置いた耳に、またマルグレーテの足音が聞こえる。
耳を塞いでみても、何の役にも立たなかった

耐えかねてバルコニーへ逃げ込んだ——冷たい潮風と波の音の中へ。

だが今夜は、その最後の砦さえ崩れた。

白い砂浜の向こうから、マルグレーテが走ってきていた。
オデットが編んだあのリボンを結び、恋しがるように吠えながら。

そんなはずがない。
一カ月探しても見つからなかった犬が、こんな風に現れるはずがない。

幻覚だと、わかっていた。

——それでも、紛れもなくマルグレーテだった。

確信が固まったのと同時に、足が動き出した。

窓の外の白い影

帰宅したバスティアンは、階段の踊り場で足を止めた。

もうあと少しだった。

父の鉄道会社は、今日、最終的に不渡りを出した。
びた一文残さず奪い取る計画は順調で、最優先はアルデンヌの領地。
あれを壊したら、オデットと出発しよう。

目的地は不明確でも、決心は揺るがなかった。

「マルグレーテを探すための捜索要員のことですが、今の規模を維持されるおつもりでしょうか?」
二階に着いた時、ロヴィスが慎重な質問を投げかけた。

「はい、そのつもりです」

バスティアンは、ためらうことなく淡々とした答えを口にした。

ちょうどその時。
窓の外——白い寝間着の女が、波打つ夜の海へと歩き入っていた。

風になびく黒髪。
か細い後ろ姿。
気づいた時には、海水は腰まで達していた。

目を閉じて開いても、何も変わらない。

「……オデット!」

彼は猛獣のように走り出した。

テラスを駆け抜け、コートを、ジャケットを脱ぎ捨てながら浜辺への階段を下り、
速度を緩めぬまま、海へ飛び込んだ。

空気の抜けたボール

マルグレーテではない。

幻だと気づいたのは、海水が肩まで来た後だった。
犬が消えた場所には、空気の抜けた白いゴムボールだけが漂い、やがて水面下へ沈んで消えた。

愚かなことをした——自嘲の笑みを浮かべた顎の下で、水がちゃぷちゃぷと音を立てる。
現実は、冬の海のように冷たかった。

名前を叫ぶ声に振り返ったのと同時に、高波が押し寄せた。

足が海底に届かない。
もがく間にもう一波。

制御を失った体は沖へ流され、最後の意識まで薄れかけた頃——腕を掴む握力を感じた。

海の上に横たわり、白い月と向き合って、初めてバスティアンの存在に気づく。
彼女を抱いたまま、彼は波に逆らって泳ぎ、浅瀬へ、そして乾いた砂の上へ。

唇から流れ込む息が、海に奪われた温かさを取り戻してくれた。

嘘をついたんだ

「そんなんじゃないんです。悪いことなんて考えていなかったわ。私はただ、メグがそこにいるような気がして」

たどたどしい釈明に、バスティアンは歪んだ笑いを漏らした。

嘘ではない。
澄んだ目を見ればわかる。

本当に、マルグレーテを探して海に入ったのだ。
そして、その病的な執着が、犬への恋しさだけでないことも。

マルグレーテを追いかけているのではない。

追いかけているのは——

その苦痛は彼女を繋ぎとめる最後の糸で、
同時に、いつか彼女を死に至らしめるものでもあった。

「メグがそこに……」

「君の犬は死んだんだ」

「そんなこと言わないで。確かにメグじゃなかったって、あなたが言ったじゃない……」

「嘘をついたんだ。そうしないと、君が離れられない気がしたから」

崩れた祭壇

「……違う」

逃げるように身を起こしたオデットを、バスティアンは捕らえ、両手でその顔を包んで視線を引きつけた。

「気をしっかり持って、僕の言葉をよく聞くんだ、オデット」

感情を排した声が、夜の海のように冷たく沈む。

「子どもはもういない」

すでに崩れた祭壇の残骸を、彼は片付けた。

「マルグレーテももういない」

最後の祭壇が崩れた。

血を流す場所を失った犠牲者の虚ろな瞳は、
まもなく猛烈な怒りで満たされていく。

バスティアンは、敢然と、次を待った。

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