泥の中の愛㊺|153話 船が沈む時 ─ 幻の足音と、赤い森への疾走

バスティアン|泥の中の愛㊺|153話 船が沈む時 ─ 幻の足音と、赤い森への疾走 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。

マルグレーテのいない屋敷を、
オデットは幽霊のようにさまよっていた。

その静けさを破ったのは、
「白い犬の死骸が見つかった」という一報だった。

幻の足音

ベッドの下の毛糸玉を拾おうとして、それを見つけた。
マルグレーテのお気に入りの、松ぼっくりだった。

用心深く拾い上げたその時、コツコツと軽やかな足音が聞こえた。

マルグレーテの気配。
勘違いだとわかっていながら振り返り、音を追って屋敷をさまよい、やがてぜんまいの切れた人形のように立ち尽くす——それが、毎日繰り返されるオデットの日常だった。

気づけば海の前のテラスに立っていた。
やがて幻聴は、砕ける波の音の間に消えていった。

ドーラがコートで肩を包んでくれる。
これもまた、壊れた日常の一部だった。

食料品の決済。
大掃除の予定。
夕食のメニュー。

ごく日常的な会話の果てに、隠しきれない本心がこぼれる。

「もしかして、新しい情報が入りましたか?」

松ぼっくりを握る手に、力がこもった。

「……申し訳ございません。」

ドーラに返せるのは、無力な一言だけだった。
情報は寄せられたが、大半が勘違いか謝礼金目当ての嘘ばかりだった。

オデットは頷き、何も付け加えず寝室へ向かった。

その日、郵便物を分類していたドーラは、予期せぬ書簡に手を止めた。
トリエ伯爵家からの手紙だった。

驚いたことに、受取人は——彼女自身だった。

船底から這い上がるネズミ

船が沈む時、最初に動き出すのはネズミだ。

継母の手足だったメイド、スーザンから連絡が来たのは、モリー殺害の三日後だった。
次は自分の番だという予感。
姪の死に呆けたままのナンシーよりは、ましな判断力だった。

人里離れた海岸で、スーザンはひざまずいて懇願した。

この茶番がそろそろ退屈になり始めたバスティアンは、首を回して遠い海を見つめた。

「申し訳ございませんでした、若旦那様。どうかお許しください」
身辺保護と逃亡資金を対価に、スーザンはこれまでの悪行を告白する、と。

バスティアンは応じつつも確約はせず、取引の優位を握った。

告白は、最後のパズルのピースだった。

——ディセン公爵の手紙を盗んで事故の真実を突き止め、異母妹を武器にオデットを脅迫した。
オデットはティラを守るために従った。
それは、戦争の英雄バスティアン・クラウヴィッツの名誉を守るための選択でもあった。

義母への贈り物

バスティアンは、封筒を差し出すことで返事とした。

「義母への贈り物です」

最後の一撃に失敗したテオドラは、退却の準備を進めていた。
モリーを殺して証拠を消し、財産を処分する——フランツのための救命艇だろう。
どれも関心事ではなかった。

殺人罪で刑務所に入れることも、廃人となったフランツに手を出すことも、最初から選択肢になかった。
オデットを害そうとした目的を悟った時、その恩に報いる道が見えたのだ。
彼女に教えられたやり方で、報いる。

この封筒こそが、テオドラの最後を最も悲惨にする方法だった。

助けてくれとしがみつくスーザンに、彼は顎で落ちた封筒を指した。
うまく使えば身の危険も消える武器——生きる道を探す才能だけは、ネズミに劣らないようだった。

返せない借り

家へと続く道にハンドルを切ったのは、衝動だった。

——オデットは日常へ、彼は復讐へ。

それぞれの島に隠れ、現実から逃避する日々。

一見穏やかでも、いつまでもこうは生きられないと、バスティアンにはわかっていた。

王冠をかぶせたかった女は、茨の冠の犠牲者となって落ちていった。
歪んだ欲望で宿った子は、冷たい土の下に。
小さな犬一匹すら、守れなかった。

——『君を愛している』

間に合わなかった告白が、億万金の借金となって返ってきた。
もう、返す手段は残っていない。

腐った傷口は切り取らねばならない。
それがオデットに贈れる唯一の贈り物なのかもしれない。

それでも——手放せなかった。

いっそ一緒に腐りたかった。
壊れた姿をさらしてすがりついてでも、引き留めたかった。

愛でなくていい。

同情や憐憫なら買えるかもしれない。
哀れなものを放っておけない女だから、留まってくれるだろう。

そんな自分が、ぞっとするほど嫌になった。
気づけば、車は屋敷に着いていた。

赤い森へ

「大変なことになりました、ご主人様」

真っ青な顔の執事が駆け寄ってくる。

海岸の崖付近の森で、白い犬とみられる動物の死骸が見つかった。
奥様が、自分で確認するとそちらへ向かわれた——引き留めても無駄だった。

静寂の中、バスティアンはゆっくりと森を見た。

あの場所でオデットが目撃するであろう光景が脳裏をよぎった瞬間、
本能的に体が動いた。

彼は、赤い夕焼けに染まった森へ向かって、全速力で走り始めた。

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