🌹 本記事は『バスティアン』原作125話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。
すべてを終わらせる日が、来た。
穏やかな午餐、和やかな狩猟会。
その静けさの下で、オデットの計画と、バスティアンの夢が、静かに動き始める。
女主人のエスコート
「昼食の準備が整いました、奥様」
執事の声で、短いティータイムが締めくくられた。
席を移るよう告げたカタリーナ・フォン・ヘルハルトの視線は、
最後までオデットに向けられていた。
オデットは静かに立ち上がり、公爵家の老婦人をエスコートする。
貴婦人たちの列の先頭で、陽光に満ちた廊下を進む。
窓の外には、天国にも比肩されると名高い公爵家の領地が広がっていた。
狩りに出た男たちが、庭園の奥の森へ向かっていく。
その中に、オデットは一目でバスティアンを見つけた。
公爵と馬を並べる姿は、馬上でも変わらず端正で隙がない。
——昨夜、理性を失って互いを貪り合った男とは、とても思えなかった。
恥ずかしがり屋の新妻
「クラウヴィッツ夫人は、ご主人様から目を離せないようですね」
茶目っ気のある笑みを浮かべているのは、
ヘルハルト公爵の祖母だった
結婚三年目なら新婚の夢から覚める頃だが、
二年も離れていた夫婦なのだから恋しいのも無理はない。
子どももまだいないから、今が一番良い時だろう——中年夫人たちの言葉に、一斉に笑いが起こる。
オデットはそっと目を伏せ、微笑みを浮かべ、恥ずかしがり屋の新妻を装った。
話題は自然と、来年に控えたヘルハルト公爵の結婚へ移っていく。
ようやく一息ついたオデットは、
決行の時を見計らいながら、窓の外へ視線を向けた。
狩りの一行は、もう森の入り口に差しかかっていた。
顔などわかるはずのない距離で、それでもまた、一目でバスティアンだとわかった。
初めて出会った日から今日までの記憶が、
荒涼とした初冬の風景の上を、足早に通り過ぎていく。
互いの利益のために手を取り合い、
気づけば互いを蝕み合う関係になっていた。
時間を引き延ばすほど、傷は深くなるだけだった。
——だから、この辺りで終わらせるのが、正しいのだ。
最後の迷いを消し去り、オデットは目の前の現実に意識を戻した。
隠せない異変
昼食会場に入り、軽やかに歓談する。
まずは集まりに加わり、頃合いを見て席を立つ——そのつもりだった。
異変は、前菜が出された直後に起きた。
オデットの様子に気づいたカタリーナの目が、丸く見開かれる。
食前酒を口にしていたエリーゼの視線も、すぐに同じ場所へ向かった。
「……申し訳ありません。胃炎のせいで」
言葉を結びきれないまま、オデットは空えずきを繰り返した。
「どうやら、そういう問題ではなさそうですね」
注意深く観察していたエリーゼの口元に、妙な笑みが浮かぶ。
目配せで嫁を制した老婦人は、温かい憐憫の眼差しで、少佐の妻を見つめた。
「客用の寝室で休みなさい。狩り場に人をやって、クラウヴィッツ少佐を呼び戻してあげるから……」
「いいえ、奥様」
ハッとしたオデットは、慌てて首を振った。
礼儀正しく落ち着いた彼女には、似つかわしくない反応だった。
そんな迷惑はかけられない、許されるなら先にホテルへ戻らせてほしい。
夫の仕事を、こんなことで邪魔したくないのでと。
「ご主人様抜きで、お一人でですか?」
きょとんと問い返すカタリーナに、オデットはかなり切実に訴えた。
聞き入れないわけにはいかない、懇願だった。
誤射
一番最初に獲物を仕留めたのは、ヘルハルト公爵だった。
疾走するノロジカを一発で沈めた腕前に、リンドマン小侯爵がからかい混じりの拍手を送る。
バスティアンは、適度な距離を置いて傍観していた。
公爵の名を掲げてはいるが、実質は従兄のリンドマン小侯爵が主催する集まりに近い。
当のマティアス・フォン・ヘルハルトは狩りに熱意を見せない。
だが、彼の提案した事業協力の話し合いには真剣に応じてくれている。
それで十分だった。
バスティアン自身、狩りにさほど興味はない。
ただ、会話の機会が必要だっただけだ。
勢子が猟犬を川辺へ導き、鳥狩りが始まる。
バスティアンは頃合いを見て水鳥を一羽仕留めた。
異変が起きたのは、彼が白い鳥に銃口を向けた時だった。
先頭のヘルハルト公爵が、正確に、同じ獲物を狙った。
彼らしくない行動だったが、バスティアンは快く譲った。
——だからこそ、わかった。
公爵の誤射が、多分に意図的な選択だったということを。
射撃の天才の名声に汚点が刻まれた瞬間を、公爵は気にも留めず笑い飛ばした。
バスティアンは顔を上げ、鳥が飛び去った空を見上げる。
撃ち落とせば、
マティアス・フォン・ヘルハルトが面白いことをする理由が、わかっただろうか。
わずかな興味は湧いたが、あえて危険は冒さないことにした。
狩り場の乱入者
道の向こうから、一人の女が走ってきたのは、その時だった。
あの子がなぜここに、と驚くリンドマン小侯爵。
使用人の家族らしきその女は、
従者に叱られながらも、ひたすら公爵だけを見つめていた。
主人を慕う世間知らずのメイドの騒動—— そう結論づけて、バスティアンはすぐにその女への興味を失った。
美人ではあったが、マティアス・フォン・ヘルハルトは、その程度の理由でメイドに手を出す人間ではない。
それを証明するように、公爵は乱入者とは反対の方向へ馬を向け、一行を先へ導いた。
あちらの森にはシカが出る。
クラウヴィッツ夫人が喜ぶ贈り物を獲れるだろう——そう告げる公爵に、鹿の頭を受け取るオデットを想像して、バスティアンはつい鼻で笑った。
喜ぶどころか、気絶しなければ幸いだろう。
「妻にまでお気遣いいただき、ありがとうございます」
女の好みをまるでわかっていない朴念仁の好意を、彼は適度な社交辞令で尊重してやった。
赤い落ち葉が、花に変わる
強い風が吹き荒れたのは、二人が道を曲がり始めた瞬間だった。
森を覆う赤い落ち葉が、突風に舞い上がる。
馬を止めたバスティアンの脳裏を、忘れたはずの夢の残像がよぎった。
落ち葉は一瞬にして花となり、森は広大な野原になった。
彼は再びあの夢の中に戻り、そして、見た。
金色の陽光が降り注ぐ地平線の向こうから、近づいてくる人影を。
——幼い頃のオデットだと言われても信じてしまうほど、かわいらしい少女を。
ぴょんぴょんと駆けてきた少女が、
にっこり笑って彼の両手をぎゅっと掴んだ瞬間、夢の記憶は幕を閉じた。
——「クラウヴィッツ少佐」
静まった風に乗って、公爵の落ち着いた声が届く。
そこでようやく、バスティアンは自分がぼんやりと虚空を見つめていたことに気づいた。
——「行きましょう」
雲一つない青い空を静かに見つめた後、彼はゆっくりと視線を転じる。
「はい。そうしましょう」
儀礼的な微笑みと、決まりきった答え。
事業の成功には、ヘルハルトの協力が不可欠だ。
たかが虚しい幻覚のせいで、重大事を台無しにするわけにはいかなかった。
どちらが先に雄鹿を捕らえるか——リンドマン小侯爵の賭けの提案に、男たちは我先にと駆け出していく。
バスティアンは公爵と並び、集団の最後についた。
速度を出さない二人と、森を疾走する一行との距離は、みるみる開いていく。
中断されていた話し合いを続けるには、この上ない条件だった。
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