泥の中の愛⑲|127話 狂信者と求道者 ─ 二つの血が宿したもの

バスティアン|泥の中の愛⑲|127話 狂信者と求道者 ─ 二つの血が宿したもの 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作127話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

オデットの逃走から、五日。

彼女を監視する探偵ケラーにも、
甥を問い詰めるマリアにも、
バスティアンの胸の内だけは、まるで見えなかった。

理解できない命令

理解できない命令だった。

電報を読み返したケラーは、ため息をついた。
カフェの窓越しに監視しているのは、バスティアン・クラウヴィッツの妻が潜む宿。

そもそも、カルスバール行きへの同行を命じられた時から、過剰な措置だと思っていた。
そばにいる妻を、わざわざ第三者に見張らせるとは。

ベッカー夫妻の尾行に任務が変わった時は、安堵したものだ。

しかし、ベッカー夫妻が発つ日の朝、突然任務が変わった。

すぐにカルスバールに戻り、妻を見張れ。
必要なら追跡してでも、足取りを完璧に把握しろ。

まるで逃走を予見していたかのような指示だった。
それなのに、ただ見ているだけでいろとは。

二年前、出征を控えたバスティアンが探偵事務所に現れ、
留守中の妻の動向を調べろと依頼してきた時から、この男の考えは読めなかった。
いっそ捕まえてこいと命じられたほうが、よほど簡単だった。

白い犬を抱いた女が宿を出たのは、彼が席を立ちかけた時だった。

五日ぶりに姿を見せたオデットは、
警戒深く周囲を見回し、速足で繁華街へ向かった。

荷物はない。
遠出ではなさそうだ。

納得はできなくても、任務は任務だった。

コートの襟で傷跡のある顔を隠し、ケラーは目標を追い始めた。

平然と嘘をつく甥

「いったいどうするつもりなの?」

皇帝が押し付けた、あの厄介者を、と叔母であるマリア・グロースは単刀直入に切り出した。

「申し上げたように、オデットはただ、しばらく旅に出ただけです」

「私まで騙そうとするなんて。本当にがっかりよ、バスティアン」

オデット逃亡の噂は、すでに首都まで届いていた。
今や夫が妻を虐待したという中傷まで飛び交っていた。

それでもバスティアンは何の手も打たず、黙々と日常を生きている。
喜んでいるのは、彼を目障りに思う連中だけだった。

旅行の計画などなかったことは、邸の者から確認済みだと迫るマリアに、
バスティアンは動じない。

父の葬儀に続き妹の結婚式と、大きな出来事が続いて健康を害した妻に、
自分が休養の旅を勧めたのだ、と。

「もし本当にそうなら、そんな風に姿をくらましたりはしないでしょう。あなたはいつも、あの子に対して度を越して気前が良かったのだから」

「それはもう2年も前のことです」

「どうかしら。私の目には、今も全く変わって見えないわよ」

マリアの眼差しに、かすかな悲しみが宿った。

年内に離婚しなさい

契約結婚に同意したのは、バスティアンを信じていたからだった。
個人的な感情で事を台無しにする子ではなかったから。

まさか、これほど愚かな愛に目がくらむとは。

「この際、終わりにしなさい」

皇帝との約束の期間はとうに過ぎた。
もはや血縁の繋がりがなくとも、ジェフ・クラウヴィッツに対抗する力は得ている。

それはバスティアンの功績だった。だから、今さらオデットを許せない理由もなかった。

年が変わる前に離婚しなさい、破局の責任はオデットにあるのだから、
皇帝も手は出せない——。

しかし、バスティアンは礼儀正しく一線を引いた。

「僕の方で判断して処理します。目的には支障がないようにしますので、その点はご心配なく」

非の打ちどころなく丁寧で、そして、霜柱のように冷たい眼差しだった。

——こんな時は、まさに父親そっくりだ。

結局は半分、クラウヴィッツの血を引く子なのだと痛感し、
マリアは諦めのため息を漏らした。

狂信者と求道者

欲望は、クラウヴィッツ家の信仰に等しかった。

財産に目がくらみ、手に入れれば次は栄誉に狂う。
今日の悲劇を招いたジェフ・クラウヴィッツがそうだったように。

程度の差こそあれ、その狂信者じみた気質は自分にも、そしてバスティアンにも流れている。
幸い、クラウヴィッツの欲望は一瞬の炎だ。

激しく燃えるが、長くは続かない。
ただ一つだけを渇望するには、あまりに貪欲だから。

——だが、あの子はまた、イリスでもあるのだ。

イリスは対極だった。
たった一つの目的に人生を捧げる、求道者のように生きる血。

その盲目的な執念は、貧民街の古物商人を大富豪に押し上げた原動力であり、
同時に、愚かな愛に目がくらんだ大富豪の娘を死へ導いた毒でもあった。

—— 狂信者と、求道者。

水と油のような二つの気質は、果たして一人の人間の中に共存できるのか。

目の前が遠くなった瞬間、バスティアンが席を立った。

「オデットは遠からず戻ってきます。その時、改めて伺います」

午後の日差しを受けた青い目に宿る光は、
クラウヴィッツの欲望のようでもあり、イリスの執念のようでもあった。

どうか、戻ってきませんように

「バスティアン!」

去りかけた背中を、マリアは衝動的に呼び止めた。

「あなたにはまだ、母方の祖父に返すべき借りが残っていることを忘れないで」

責任と使命の重圧に押しつぶされて生きてきた子に、
もう一つ足枷をはめる言葉だとわかっていた。

それでも構わなかった。
少なくとも、母親と同じ運命をたどるよりは、ましなはずだから。

何でもないことのように笑ってみせたバスティアンは、
軍人らしい節度ある足取りで去っていった。

マリアは、切に願った。

——どうかオデットが、永遠に戻ってきませんように。


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