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🌹 本記事は『泣いてみろ、乞うてもいい』原作をもとに、物語の流れと人物心理を整理しています。会話部分は原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
夜の汽車で、振り返らないように目を閉じる女。
変わらぬ秩序の中で、完璧な一日を重ねていく男。
——逃亡するために、愛を囁いただと。
彼は笑った。
笑いは、なかなか止まらなかった。
永遠に言えなくなった言葉
言い淀む従者マーク・エバンスを、公爵は眉間に皺を寄せて促した。
ようやく告げられたのは、庭師ビル・レマーとその養女が姿を消したという知らせだった。
夜のうちに、逃げるようにアルビスを去ったらしい。
クロディーヌは思わず両手を組んだ。
老婦人が嘆息を漏らし、エリーゼ・フォン・ヘルハルトとブラント伯爵夫妻も、青天の霹靂のような知らせに当惑する。
「まさか。逃げたですって? レイラが? あの子が一体どうして?」
心から驚いた顔でマティアスを見つめながら、クロディーヌは胸の内で思っていた。
——手紙は、ちゃんと届いたのだ。
声を上げて笑い出したい衝動を抑えるには、これまで身につけてきた淑女の作法をすべて動員しなければならなかった。
思いやり深い婚約者の顔で、話し合いは延期しなければと遺憾を示す。今日ばかりは、あの卑しい子供のくだらない自尊心を褒めてやれそうだった。
——何ということでしょう、公爵閣下。あの言葉は永遠に言えなくなったようですね。
少しばかり本気の憐憫を込めて見つめた先で、マティアスの顔はただ冷たく静かだった。
それでもクロディーヌには感じ取れた。この男を取り囲む空気の流れが、変わったことを。
家の用事があるので午餐は共にできないと、彼は整った姿勢を崩さないまま詫びた。
感情というものがあるのかと思わせるほど、冷淡な声。
けれどジャケットのボタンを留める指先は、微細に震えていた。
それに気づいた瞬間、クロディーヌは喜んでレイラを許すことにした。
自分と同じ痛みを味わったあとで、結局は自分の夫となる男。
これならかなり満足のいく結末だった。
傷だらけの女となって、再び国境を
汽車は深い夜に国境を越えた。
窓の外は濃い闇でも、レイラにはその風景を描き出すことができた。
幼い頃、独りで汽車に乗り、故郷を離れて見知らぬ国へ向かった、まさにその道筋だったから。
ガラスに映る自分の姿が、記憶の中のあの子供の顔と重なる。虚無的な笑みがこぼれた。
恐れと期待の入り混じった目を輝かせて国境を越えた子供は、傷だらけの疲れ切った女となって、再び国境を通過しようとしていた。
眠っているとばかり思っていたビルおじさんが、静かにレイラを見下ろしていた。
まだだいぶ先だから少し目を閉じて休んでおけと、濃い疲労の滲む顔で優しく笑う。
その心が分かる気がして、レイラも微笑みで応えた。
揺れる汽車の音と、あちこちから聞こえるいびきが、今は有難かった。その騒音がなければ、この深い沈黙に耐えるのは辛かっただろう。
ロビタへ行こうという言葉を初めて聞いた時でさえ、レイラはそれが本気だとは思っていなかった。
けれどビルおじさんは、雷のような速さで旅立ちの準備を終えた。
皆の目を逃れる逃亡の身。
持ち出せたのは、これまで貯めてきたお金と、トランクに入るだけの荷物がすべてだった。
行き先は、ロビタの南の端にある海辺の都市。
かろうじて連絡が取れる程度の遠い親戚が、二人の定着を助けてくれるのだという。
白黒の人生には、戻れない
結局眠るのを諦めて、レイラは目を開けた。
「ごめんなさい、おじさん」
自分がおじさんを訪ねて行きさえしなかったら……。
そう言いかけたレイラを、ビルは恐ろしい表情で遮った。
「やめろ、レイラ。いくらお前でもそんな言葉は許すことができない」
「お前よりも大切なものは私の人生にないよ。お前が私を訪ねて来てくれた日、私の本当の人生が始まったんだ。本当にそうだよ」
レイラの頭を撫でながら、ビルは笑った。
それは彼の、最も正直な本心だった。
レイラのいなかった頃の人生は、味気なく平穏だった。この子を引き取って育てなければ、今もそんな日々が続いていただろう。
それでもビルは、決してあの頃に戻りたくなかった。
美しい光で満たされた世界を味わったあとで、再び白黒の人生に戻るのと同じことだから。
どこでだって、私たちはうまくやっていける。今までずっと、そうしてきたように。
揺れる三等車の隅の席で、二人は長く互いを見つめ合い、どちらからともなく微笑んだ。
赤くなった目元と鼻筋など、知らないかのように。
初めて食卓で向かい合って見つめ合った、あの夜のように優しく。
——そう。すべて大丈夫だ。
未練を断ち切る呪文のように、レイラはその言葉を呟いた。
夜が更け、やがて夜明けが始まりかける。
深い眠りに落ちていびきをかくビルおじさんを、レイラは自分の毛布でくるんだ。
車窓の外には、春の花が咲き乱れる野原が線路に沿って続いていた。
振り返りたくなくて、レイラは固く目を閉じた。
「探せ」
文字通りの、夜逃げだった。
庭師とその養女の失踪を、ほかにどう説明できるだろう。
学校を訪ねたマーク・エバンスの報告も、手がかりにはならなかった。
校長もまた、ルウェリン嬢が姿を消したことに当惑するばかりだった。
ビル・レマーの兄は二年前に亡くなり、ほかに行き来のある親戚もいない。
ヘッセンは深い溜息をつき、額を撫でた。
公爵は、逃亡の知らせが伝えられたその日の夜のうちに、アルビスへ帰還していた。
発せられたのは、ただ一言だけだった。
「探せ」
沈着なその一言が、背筋がゾッとするほど冷たく刺さった。いっそ詰め寄るか、怒りを爆発させてくれた方が、気は楽だっただろう。
けれど公爵はその命令のほかに、この件について何も口にしなかった。
慌ただしく戻った最初の日を除けば、何の動揺もなく平穏な日々を送っている。
よくある痴情の縺れでは片付かない、特別な何かがあるのではと思っていたヘッセンが途方に暮れるほど、無関心で冷徹な態度だった。
もう諦められたのではないか。
マーク・エバンスが慎重にそう口にしたその瞬間、執事室の呼び出しベルが鳴った。
——3階のマスタースイート。
公爵の部屋だった。
完璧なヘルハルト公爵の、一日
マティアスは普段と変わらない一日を過ごした。
朝早く起きて新聞を読み、簡単な朝食をとる。
不安定な情勢を憂う理事たちの報告を受け、午後は会議に出席した。
悪化の一途を辿る国家間の紛争を憂慮する側と、それに反駁する側が激しく対立する。
マティアスは舞台上の退屈な演劇でも観るように、それを見守っていた。
どちらの主張にも一理はあった。実のところ、どうでもいいという気持ちにもなった。
そんな無責任な自分が情けなくて、フッと笑いが漏れた。
理事たちが当惑して顔色を窺っているのは感じていたが、笑いはなかなか止まらなかった。
彼がいつもの顔に戻った時、会議室は冷や水を浴びせられたような静寂に包まれていた。
簡潔に詫び、首をまっすぐに伸ばす。
口元には再び社交的な微笑みが浮かび、あとは元通り、巧みに両者の主張を調整した。
膨れ上がった家業の実務は専門家たちの役目で、すべてを総合して決定するのが彼の役割だった。
そのための教育を受け、問題なくこなしてきた。
会議のあとは、招かれた晩餐会へ。
見慣れた顔ぶれに囲まれ、普段通りに食事をし、笑い、会話を導いた。
適度に楽しくも、退屈な時間。
今日もまた、完璧なヘルハルト公爵の日々のうちの一日に過ぎなかった。
自分でも驚くほどに、静かな日常だった。
逃亡するために、愛を囁いた
「申し訳ございません、旦那様」
沈黙を守っていたヘッセンの声で、マティアスはようやく傍らに立つ執事の存在を思い出した。
跡形もなく姿を消した。二人とも縁故がない。
ゆえに行方を探す手立ては程遠い。
少し前に聞いた報告が、一つ二つと頭に浮かび始める。
「探せ」
まるで何も聞いていない人のように、マティアスはあの日と同じ命令を繰り返した。
言葉に詰まったヘッセンが、申し上げた通り……と言いかける。
「まさかこの世の誰とも繋がりがないわけではないでしょう」
閉じていた目を、ゆっくりと、それよりもさらにゆっくりと開ける。
早朝から動き回った一日のせいか、濃い疲労感が押し寄せていた。
「必要なすべての手段を動員しても構いません。探し出してください」
砂を撒いたようにごろつく目を再び閉じたまま、頭を後ろへ反らす。
鋭い顎の線が際立って見えた。
平静な日々を送る公爵が、実は少し痩せたのではないか。
そう思っても、ヘッセンは不必要な言葉を付け加えなかった。
執事が下がると、寝室は深い水の中のように静まり返った。
燕尾服のジャケットも脱がないまま、マティアスは長いあいだ椅子の奥に身を埋めていた。
あの女の計略に、見事に引っかかった。
知らせが飛び込んできたあの日、マティアスは悟った。
何か企みがあることは既に知っていた。だが、まさかこの程度の悪だくみだったとは。
あの日のように、マティアスは声を出してくすくすと笑った。
——逃亡するために、愛を囁いただと。
やはり、彼を狂わせた女らしい。
すぐに見つけ出す。ただそれだけのことだ。
長引く思索を断ち切るように、ようやく身を起こす。
ゆっくりと服を脱ぎ、普段よりも長くシャワーを浴びてから、寝床に就いた。
結局これだけのこと
次の日も、彼の一日は変わらぬ秩序の中で始まった。
決められた時間に目を覚まし、食事をとる。
彼を乗せた車が邸宅の門を通り過ぎる頃、ふと濃い虚無感が押し寄せた。
何でもない、というのは嘘だ。かといって、耐え難いほどでもなかった。
それなのに、レイラ・ルウェリン一人を失えば全人生が崩壊するかのように、戦々恐々とし、狂ったように執着してきた自分がおかしかった。
堪らなくおかしくて、フッと笑いがこぼれた。
——結局これだけのことだ。
熱く乾いた溜息のような自嘲を漏らしながら、マティアスはシートの奥深くに背中を預けた。
たかがこの程度に過ぎない女一人に狂って、取り返しのつかない過ちを犯さずに済むようにしてくれたのだから、むしろお前に感謝すべきか?
ぼんやりと浮かんでは消えていた思考が止まると、口元の乾いた笑みも消えた。
車は今、生い茂ったプラタナスの葉が木陰を落とす道を通っていた。
美しい黄緑色の波を眺めて、マティアスはまたフッと笑った。
このすべてが、ただおかしいだけだった。
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