何がバスティアンを追い詰めたのか⑫|82話 いくつかの可能性 ─ 幻想曲と、雨の金融街

何がバスティアンを追い詰めたのか⑫|82話 いくつかの可能性 ─ 幻想曲と、雨の金融街 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作82話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

海軍祭まで、あと数日。

オデットは再び楽譜店へ向かい、
バスティアンは海軍省の食堂で古い上官と向き合った。

そして雨が降り始めた金融街で、オデットは路地裏に身を隠した。

最後の取引

今日の蓄音機は幻想曲を流していた。
陰湿な密会には似合わない美しい旋律が、がらんとした店内に響き渡った。

「おっしゃっていた名簿です」

オデットは上着の内ポケットから封筒を差し出した。

「面白い名前がたくさんあるわね。でも、まさかこれが全部?」

「バスティアンは、ほとんどの仕事を会社で処理します。家で得られる情報は……」

「だったら会社に行けばいいじゃない」

「ご不満なら、他の人を当たってみてください」

「私に大声を出す立場ではないはずよ」

「それは奥様も同じだと考えております」

首輪をつけられたような立場に追い込まれても、
オデットの気高さと反抗心は失われていなかった。

これくらいの度胸がなければ、
バスティアン・クラウヴィッツの裏をかくことなどできない。

「パーマー夫人の身辺を調べるぐらいなら、与えられた仕事をきちんと解決してほしいわ」

オデットはさほど驚いた様子もなく、ため息をついた。
父はパーマー夫人の証言についての主張を撤回した。

目撃していなかった可能性が高いが、軽々しく確信するのは難しかった。
だから私立探偵を雇って調べさせていたのだが、テオドラの目はモリーだけではないようだった。

「今回が最後です。約束は必ず守ってください」

「わかっているわ。どうせ祭りが終わればバスティアンはベルクを離れるのだから」

離婚するまで時間を稼げばいい。
オデットは、その事実を慰めとして、今この瞬間の罪悪感に耐えた。
この結婚が終わったら、ティラと一緒に新大陸へ発つつもりだった。

遠く、とても遠く。

誰も彼女たちを見つけられない場所へ。

「ところで、バスティアンの鉄道会社ですが。ラヴィエールと共同事業をしているとか。ラヴィエール公爵の娘とバスティアンの関係は、尋常ではないようですが」

「バスティアンは、そんな不貞な男ではありません」

オデットは少しもためらわずに首を横に振った。
無駄に探りを入れるための餌だろうから、付け入る隙を与えてはならない。

「男を信じるの?意外と純真なところがあるのね」

テオドラは、ジェフと出会った経緯を、面白い思い出話でも披露するかのように語った。
バスティアンの生みの母も、あなたと同じように考えていた——夫は絶対にそんな男ではないと。
でも、結果は見ての通り、と。

「だとしたら、なおさらバスティアンを信じなければなりません。
母親がどんな目に遭ったかを知っている男が、父親と同じ過ちを繰り返すはずがないのですから」

「人間は、そんなに高貴な存在ではないわ。あの子は自分の父親そっくりの息子よ」

「バスティアンに申し訳ないとか、恥ずかしいという気持ちはないのですか?」

「全くないわね」

「最後に一つだけ忠告してあげるわ、オデット。偽善を振りまかないことね。その方がよほどいけ好かないから」

優しくささやく声が、幻想曲の旋律に乗って聞こえてきた。
テオドラが去った後も、オデットはしばらくその場に留まっていた。

蓄音機は、幻想曲の次の楽章を再生し始めていた。
よりにもよって、花が咲く春の日の午後、ラインフェルトのラウンジに響いていたのと同じ曲だった。

海軍省の食堂で

海軍省の食堂で、バスティアンは久しぶりに古い上官と向き合った。
爵位を持たない中流階級の出身で、バスティアンが将校に任官したばかりの時から大尉だった男は、相変わらず大尉の階級章をつけていた。

「トロサ諸島の官舎での生活はどうでしたか?」

「なぜそれを俺に聞くんだ?一人で暮らすには十分だったんじゃないか」

「妻にはどうなのか想像がつかず、お尋ねしているのです」

彼はようやく理解したかのように笑いながら頷いた。

「まあ、女性が好むような場所ではないな。古ぼけた官舎に悪天候。一番栄えている街だって、本土の片田舎にも劣るレベルだ」

「奥様は嫌がられましたか?」

「いや……必ずしもそうではなかったな。毎日不満を言っていたが、それでも一緒にいられて良かったらしい。私がいる場所が、そのまま宮殿だとか何とか言ってな」

そこで末娘が生まれ、二人にとって特別な思い出のある場所になった、と彼は言った。
なんだかんだ言っても、結局は人が暮らす場所ではないか。愛する家族と一緒にいられれば、そこがまさに楽園だと思う、と。

その眼差しには、揺るぎない芯が通っていた。
バスティアンは、短い微笑みで彼への敬意を示した。

でも、もう一人で赴任することに決めたんじゃないのか?」

「いくつかの可能性を考えているところです」

「あれほど美しい妻を残して行くのは簡単じゃないだろう」

彼は突然大きな笑いを弾けさせた。

「バスティアン・クラウヴィッツが俺を訪ねてきて、こんな相談をする日が来るとはな。俺がお前だったら、ただ正直に言うと思うんだ。
愛している。君なしでは生きられない。一緒に行こう、と。
夫のこんな告白を断る妻はいないんじゃないか?」

「そういう意味でお話ししたわけではありません」

「ああ、そうか。 そうしておこう」

勝手に結論を出した彼は、話題を変えて末娘の話を始めた。

水の庭園と、雨の前

彼と別れたバスティアンは、
まっすぐ本部に戻る代わりに、「水の庭園」の方へ足を向けた。

決定を覆したい気持ちはなかった。
だが、オデットのいない夜と朝がどうにも想像できなかった。

たった二つの季節を共に過ごしただけの女が、一体何だというのか。

滑稽なことだった。

バスティアンはプラター川と跳ね橋が見えるベンチに腰を下ろし、タバコをくわえた。
街の向こうから、濃い雲が押し寄せてきていた。

雨の金融街

傘を持ってこなかったことに気づいたオデットは、静かにため息をついた。

楽譜店を出たオデットは、先に車で帰るよう運転手に指示を出していた。
もしかしたら心が揺らぐかもしれないと懸念して下した決断だった。

今日は帰りが遅くなるとバスティアンは言っていた。
会社に寄って処理すべき用事があると。

戻るための足も断ち切ってしまったのだから、
もうバスティアンを訪ねていくしかない。

長い間街をさまよい、心を落ち着かせたものの、なかなか足が踏み出せなかった。
運良く執務室まで入ることができたとしても、書類を漁る道は遠い。
バスティアンの目の前で、どうやってあの男をまくことができるというのか。

いっそこのまま逃げ出してしまいたいと思ったその瞬間、
豪華な黒い車が中央銀行の隣にある大理石の建物の前で止まった。
バスティアンが所有している会社だった。

傘を広げた運転手が後部座席のドアを開けると、中年の紳士が降り立った。
一人の赤毛の淑女もその後に続いた。
その女が誰だかわかったオデットは、思わず路地裏に身を隠した。

—— サンドリンだった。

顔の似た紳士は、おそらく彼女の父親だろう。

ラヴィエール公爵と娘は、一体なぜこんな場所に。
その疑問は、続いて現れた一人の男の姿によって解消された。

丁重な微笑みを浮かべたバスティアンが、建物の階段を降りてきていた。
まずラヴィエール公爵と挨拶を交わし、サンドリンにも丁寧な礼儀を示した。
三人は間もなく一緒に会社のロビーへと入っていった。

本格的に降り始めた雨の音は、
いつの間にか街の騒音を圧倒するほどに大きくなっていた。


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