泥の中の愛⑭|122話 最後の宿題 ─ 別れの朝と、振り下ろされた手

バスティアン|泥の中の愛⑭|122話 最後の宿題 ─ 別れの朝と、振り下ろされた手 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作122話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

バスティアンは約束を守り、
ティラの結婚式は、つつがなく執り行われるだろう。

明日には、すべてが終わる。
オデットは、そう自分に言い聞かせていた。

守られた約束

ベッカー夫妻の結婚が宣言され、誓いのキスで式が締めくくられた。
オデットは心からの拍手を送った。

妹の幸せを守るためだけに、必死でもがいてきた。
その努力が、ようやく報われた瞬間だった。

自分の選択は最善だった。
すべてが無駄になったわけではなかった——そう証明してくれる結末に、彼女は安堵する。

これでよかったのだ。
ときおり胸をかすめる疑問には、蓋をした。

隣のバスティアンは、招待客と同じ拍手を送りながらも、
その眼差しは徹底して無関心だった。

まるで、ティラという存在を、既にきれいに消し去ってしまったかのように。

昨夜の温もり

「意外ですね」

退場行進が始まると、低い囁きが降ってきた。

「命のように大切にしている異母妹の結婚式なのに。涙の一つでも流すべきではないか?」

歪んだ笑みでオデットを見下ろすその青い瞳が、昨夜を思い出させ、
彼女の頬を赤く染めた。

昨夜、凍えた体を包んだ、あのコートの温もり。
それが、限界まで張りつめていたオデットを、内側から崩した。

いっそこのまま壊れて消えてしまいたい—— そう願った瞬間に、バスティアンは彼女を抱きしめた。

拒まなければと、頭ではわかっていた。

だが、そうするだけの力は、もう残っていなかった。
指一本でさえ突き放せない相手だった。

どうせ互いのどん底を、とうに見せ合った関係だ。
今さら、はばかるものなどない。

オデットは諦めるように、自分を差し出した。

夜が長すぎないことだけを願いながら、意識を手放した。

見慣れない安息

死のような眠りから覚めたのは、夜明けに近い頃だった。

バスティアンの腕の中で。
彼を、抱きしめて。

裸のまま抱き合っていたが、それ以上のことがあった痕跡は、どこにもなかった。

—— なぜ。

答えの出ない問いを抱えたまま、
オデットはカーテンの隙間に朝が滲むまで、静かに眠る彼の顔を見つめていた。

額にかかった髪へ、衝動的に指を伸ばす。
夢かと思ったが、指先に触れた感触は確かだった。

いっそ彼が思い通りに欲望を満たしてくれた方がましだったのではないか……
そんなおかしな考えがよぎった。

慣れきった不幸より、見慣れない安息のほうがよほど恥ずかしかった。
オデットは、その安息に戸惑う自分が嫌だった。

やがて目を開けたバスティアンの瞳には、
寝起きとは思えない、澄んだ冷たい光が宿っていた。

肩から胸へと滑り、再び顔に戻るその視線に、オデットはシーツを引き上げる。

先にベッドを出た彼は、一糸まとわぬ姿にも一切動じず、
水を飲み、ガウンを羽織り、いつも通りの足取りで浴室へ消えた。


「なぜだか、すっきりした顔に見えますね」

細められた眼差しに、はっと我に返ったオデットは、慌てて目を逸らした。

あえて言い訳はしなかった。
妹への愛着が思ったほどではないと誤解してくれるなら、むしろ好都合だったから。

偽りの本心

「お姉ちゃん!」

駆け寄って泣きつくティラに、オデットは喜んで胸を貸した。
この世にたった二人きりだった頃と、何も変わらず。

この子を愛する気持ちは、今も少しも揺らがない。

これほど悲惨などん底に追いやられても、
これまでの献身を後悔したことは一度もなかった。

ティラの幸せだけで十分だった。
それは一点の偽りもない本心だ。

——なのに

なぜ後悔だけが、まだそこに居座っているのだろう。

オデットは頭をよぎるその疑問を必死に無視しながら、
ティラの涙を拭ってやった。

バスティアンの視線を感じたが、振り返らなかった。

明日になれば、すべてが終わるだろう。
そうあるべきだった。

たった二人だけの世界の、終わり

ホテルの前で、オデットはティラと別れた。

次の予定へ向かうバスティアンが去った後は、いくらか楽な気持ちで挨拶を交わせた。

「幸せになるのよ。それだけでいいから、わかった?」

ティラには、もうティラだけの世界ができた。
その世界に、オデットの居場所はもうない。

その事実を受け入れて、彼女は淡々と別れを告げる。

言えなかった言葉は、胸の奥に埋めた。
この瞬間が、悲しみとして記憶されることだけは望まなかったから。

「愛してる」

最後の声に、隠しきれない陰りが滲む。
幸いティラは気づかないまま、夫と子と共に新しい世界へ去っていった。

クラクションを鳴らして走り去る車を、オデットは振り返らなかった。
窓から身を乗り出した妹が、泣きながら手を振っているのはわかっていた。

けれども、ただ前だけを見て歩き続けた。

もう、次のことを考える時だ。
過去を振り返る余裕などなかった。

最後の宿題

明日の今頃には、フェリア行きの汽車に乗っているだろう。

スイートの窓辺を行き来しながら、オデットは何度も計画を確認した。

まずバスティアンとヘルハルト家を訪れ、頃合いを見て都心へ抜ける。
男たちは夜まで狩猟場だから、彼を欺くのは難しくない。

荷物をまとめ、マルグレーテと駅へ向かう時間は、少なく見積もって二時間。

目標はカルスバール中央駅、午後四時の特急。
間に合わなければ、最終便でも構わない。

できるだけ簡素にまとめた荷物と、お金を入念に確かめると、
オデットは「最後の宿題」を片付けるための包みを取り出した。

もうすぐ五時。

夕食の予定を尋ねに、メイドが来る頃だ。

包みをテーブルに置き、夕暮れの光の中で、彼女はモリーを待った。

ノックは、寸分違わぬ時間に、軽快に響いた。

逃げる機会

「座って、モリー。あなたに話があるわ」

旦那様は夜遅くなるため、奥様の夕食は部屋へ—— そう報告するモリーに、
オデットは向かいの椅子を勧めた。

へらへら笑うモリーは、さほど驚いた様子もなく、客室のドアをしっかりと閉め、
素早く腰かけて問いかけてくる。

—— もう決心はついたのか、と。

このメイドの正体は、とうにわかっていた。

テオドラ・クラウヴィッツが、オデットを消そうとしている。
その手先として送り込まれた女。

約束された報酬で家一軒を手に入れ、うんざりするメイド暮らしを終える——それだけが、モリーの関心事だった。

「明日の午前中には発ちなさい。行き先はどこでも構わないけれど、できるだけ遠い所が、あなたのためになると思うから」

期待が最高潮に達した瞬間に放たれた命令に、モリーは眉をひそめた。

「明日になれば、バスティアンがあなたの正体を知ることになるわ。誰が、どんな目的で送ったのか、これまで何をしてきたのか。私が全部話すから。」

あなたの言う通り、恐ろしい人だから、義母の手先を放っておくはずがないと思うのだけど。

冷ややかに沈むオデットの眼差しに、
モリーは思わずスカートの裾を握りしめた。

「まさか、今度はご主人様に媚びへつらうつもりですか?
だから私を密告して、信用を得ようと?」

「何か誤解しているようだけど、モリー。
あなたは、そんな役割を担えるほど重要な存在ではないわ」

ただ、これ以上あなたに我慢したくないだけ—— 逃げる機会をあげるのは、あなたが摘んできてくれた野花への、せめてもの礼だと。

その言葉が、かえってモリーの何かに火をつけた。

振り下ろされた手

今さら、バスティアン・クラウヴィッツがあなたを受け入れるとでも?
子供でも産めば女主人の座を取り戻せるとでも思っているのか。

侮辱に震えながら立ち上がったモリーは、罵詈雑言をまくし立てた。

「座りなさい、モリー」

オデットの顔には、何の動揺もなかった。
だがモリーは鼻で笑い、悪意のこもった笑みを浮かべて、なおも言葉を重ねていく。

「それでも貴族の真似事はしたいようですね? 見せかけだけの乞食王女だということを、帝国中が知っているというのに……」

その雑言が言い終わるより早く。

—— パチーン!

鋭い音が、部屋に響き渡った。


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