泥の中の愛⑮|123話 すべてが無駄だった ─ 虚しさの果てと、僕のオデット

バスティアン|泥の中の愛⑮|123話 すべてが無駄だった ─ 虚しさの果てと、僕のオデット 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作123話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

ティラは守り抜いた。
逃げる算段も、整っている。

——それなのに

心に残ったのは、底の見えない虚しさだけだった。

気圧される手先

頬を張られたモリーは、悲鳴すら上げられずにふらついた。
目の前にオデットが立っていると気づいて、ようやく何が起きたのかを理解する。

何様のつもりだと金切り声を上げるモリーに、オデットは静かに告げた。

機会があるうちに立ち去り、二度とバスティアンの周りをうろつくな、と。

「夫を裏切った分際で」と食い下がるモリーの頬を、もう一度パチンと張る。

それでも、モリーを見つめる眼差しは、ただ静かなままだった。

その鋭さに気圧され、モリーは思わず生唾を飲んだ。

——最低限の好意も断るなら、今すぐバスティアンに話してもいいのよ。

オデットの言葉は、空脅しではなかった。
自分はすでに弱みを全て握られている身。

銀の燭台や食器を持ち逃げしたコソ泥—— そういう筋書きにすれば、メイドが突然姿を消しても不自然ではない。

あなたも捨てられたのよ

「あちらが約束した報酬がいくらだと思ってるんですか!
私がこんなはした金で黙って退散するとでも?」

モリーは失笑する。

だがオデットは、もう一つ「礼」をくれてやった。

——いくら約束されていようと、その金が手に入ることはない。
私との約束を破った時、テオドラ・クラウヴィッツは、あなたのことも見捨てたのよ。

本当にあなたを守るつもりなら、とっくに危険を知らせて逃がしていたはずだから。

小さく首をかしげるオデットの顔には、何の表情もない。

これまで無事だったのは、
ひとえにバスティアンの寛容という、思いがけない変数のおかげだった。
そうでなければ、オデットもろとも、とうに断罪されていただろう。

テオドラにとってあなたは、偶然にも有効期限が延びただけ。
使えるうちは使い、用済みになれば私と一緒に切り捨てる。

──今が、その時だった。

声を荒げることもなく、オデットはモリーの逃げ道を一つずつ塞いでいった。

世間知らずの面影は、どこにもない

反論できないモリーの目には、
オデットがまるで気の狂った女のように映った。

この二年、もてあそんできたはずの、哀れな世間知らずの面影は、どこにもない。

一体どうやって、この本性を隠して生きてきたのだろう。
モリーは思わず背筋を震わせた。

「だから、これまであなたを放っておいたのよ、モリー。」
「ハエと同じような消耗品は、脅威にならないもの。それに、あなたを通じてテオドラ・クラウヴィッツの動向も探れたから。」

オデットは淡々と続けた。

「すべてをすっかりお見通しの賢い方が、どうしてざまを見ろと言わんばかりに騙されて、崖っぷちに追い込まれたんでしょうね?」

皮肉を言うモリーに、
オデットはわずかな疲労をにじませて微笑んだ。

「身をもって知ったからかしら。それ以上に痛い教訓はないから。」

窓際のテーブルに戻る頃には、西の空が赤く染まり始めていた。
まもなく、最後の夜が訪れる。

「あなたもそういう教訓を得てみたいなら、そうすればいいわ」

—— 期限は明日の正午まで。

戻ってもまだここにいるなら、その時はあなたの決断を尊重する。

オデットは、あらかじめ用意していた包みをモリーへ差し出した。

「持って行きなさい」

淡々とした通告で、会話は閉じられた。

すべてが無駄だった

ドアがノックされた。

瞬時に表情を切り替えたモリーは、何事もなかったようにウェイトレスを迎え入れる。
ずる賢い子どもだった。

夕食の支度を整えると、ウェイトレスは部屋を出ていった。
包みを抱えたモリーも逃げるように立ち去り、客室にはオデットだけが残された。

窓の向こうでは、暮れていく街に観覧車の灯りが浮かんでいる。

その光を見ると、また綿菓子が食べたくなった。

子どもの食べ物に心を奪われる自分が、おかしかった。
すべてを失い、逃げることだけを考えているのに──。

ティラは守り抜いた。
それが、この地獄を選んだ唯一の理由だった。

なのに心には、
何をしても埋まらない虚しさだけが残っていた。

たった一つでも意味を残したくて必死にもがいた結婚は、
結局何も残さないまま終わろうとしている。

残ったのは、絶望と、
消えることのない後悔だけだった。

抱え込んだ腕

無期懲役囚のような面持ちで食卓を立ったオデットは、
一歩も踏み出せず、その場へ崩れ落ちた。

突然のめまいだった。
気づけば、両腕で腹を抱え込んでいた。

本能だった。

その事実に気づいたオデットは、力なく目を伏せた。
やがて最後の光が消える頃、ようやく姿勢を正すと、冷え切った料理をゆっくりと口へ運んだ。

食欲はなかった。
それでも、その義務のような食事は、夜が更けるまで続いた。

僕が守り、僕が台無しにする

犬の鳴き声が玄関に響いた。

酒席から戻ったバスティアンは、
足元で吠えるマルグレーテを静かに制し、寝室へ入った。

オデットはベッドの端で、小さく身を丸めて眠っていた。
その安らかな眠りを乱そうとは思わなかった。

コートを脱ぎ、隣へ横たわる。

昨夜、自分の胸へ温もりを求めてきた姿が、もう遠い昔のことのようだった。

考えてみれば、この女はいつもそうだった。

—— 金、盗む機密書類、凍えた体を温める体温。

得るものがあれば身を寄せ、それさえ長くは続かない。

今になって、ようやく完全に手に入れた女。

——僕が守り、僕が台無しにする。

僕のオデット。

ティラの結婚も移住も、最初から止めるつもりはなかった。

むしろ、オデットが動かなければ、自分が手を回していたはずだった。
ディセン家の私生児が、どうにかして幸せになることを願っていたから。

役に立たなくなった姉のことなど、すっかり忘れるほどに。
そうして、オデットが憐れみを向ける相手が、もう誰もいなくなるように。

それでもティラの名を持ち出したのは、
ただオデットを縛る口実が欲しかっただけだった。

すべてが、思い通りに運んだ。

その歪んだ満足感を抱えたまま、バスティアンは意識を手放した。

月明かりの窓辺に

再び目を開けたのは、夜が深まった頃だった。

視線は空いたベッドを通り過ぎ、窓辺で止まる。

青白い月明かりの差し込む窓辺に、女が立っていた。

彼の妻、オデットだった。


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