🌹 本記事は『バスティアン』原作121話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。
ホテルを飛び出したオデットの足が、当てもなく向かった先は、
二年前にバスティアンと訪れた遊園地だった。
逃げたいはずの夜。
その光の中で、彼女はずっと目を背けてきたものと、向き合うことになった。
たどり着いてしまった場所
週末の遊園地は大勢の行楽客で賑わっていた。
ここがどこなのかを悟ると、オデットの口からため息のような失笑が漏れた。
気づけば、足は二年前に訪れた遊園地へ向かっていた。
あまりにも皮肉な偶然に、オデットは自嘲するように笑う。
ここまで重なれば、不運という言葉さえ滑稽に思えた。
それでも彼女は、再び前を向いて歩き出した。
背後に置いてきた世界から遠ざかることができるなら、どこでも構わなかった。
どこへ向かいたいのか、自分でももうわからない。
そもそもそんなものは、最初から存在しなかったのかもしれない。
陽気な音楽、人々の笑い声、客を呼ぶ露天商の声が、
肌寒い風に乗って流れてくる。
多くの客が電気の宮殿へ吸い寄せられていくなか、
オデットだけは人波から外れ、静かな一角へと歩いていった。
その足が、不意に甘い香りの前で止まる。
綿菓子の屋台だった。
妖精の糸
「妖精の糸」──
二年前と変わらない看板を前にすると、忘れたはずの記憶が次々とよみがえった。
綿菓子を買うために列へ並んでくれたバスティアン。
手をつないで歩いた夜道。
きらびやかな光に包まれた電気の宮殿。
メリーゴーランドから聞こえてきた陽気な音楽。
覚えているとさえ思っていなかった記憶まで、
あとを追うように蘇ってきた。
壊れた過去の欠片が心を突き刺す。
一口も食べないまま、落としてしまったあの日の綿菓子を思い出した。
すると突然、空腹が込み上げてくる。
自分でも戸惑うほど、切実な空腹だった。
「お一つ、いかがですか?」
店主に声をかけられ、反射的にバッグへ手を伸ばす。
そこでようやく、自分が財布一つ持たずホテルを飛び出してきたことを思い出した。
小銭は一枚もない。
羽織るはずのコートさえ置いてきていた。
「……いいえ。結構です」
小さく微笑んで断ると、オデットは足早に屋台を離れた。
肩のショールをかき合わせても、
晩秋の冷たい風は容赦なく体温を奪っていった。
愚かな散歩
もう帰らなければ、と思った。
このまま風邪でもひけば、計画に支障をきたすかもしれない。
—— そんな危険を冒すべきでない。
それでも、その場を離れることができなかった。
彼女は頑なに前だけを見て歩き続けた。
はしゃぐ子供たちを乗せたアトラクション、甘く油っぽい匂いの露店を通り過ぎ、
遠く、さらに遠く。
あてもない足取りは、遊園地の行き止まりでようやく止まった。
道の終わりで、オデットはゆっくりと顔を上げた。
観覧車は、家族や恋人たちを乗せてゆっくりと夜空を巡っていた。
その光景を、ただオデットだけが一人立ち尽くして見上げていた。
ゆっくり回る巨大な金色の車輪を見つめる瞳は、溜まった涙で透明に膨れ上がっていた。
一人だけの地獄
—— 絶対にこの子を産んではいけない
妊娠の可能性を知った瞬間から、その決意だけは揺らいでいなかった。
バスティアン・クラウヴィッツが、憎む女との間にできた子を愛するとは思えない。
父に見放され、継母のもとで育つ子の未来も、容易に想像できた。
サンドリンも、すでに警告していた。
その子を産めば、胸が張り裂けるような出来事を何度も味わうことになる、と。
そんな運命を背負って生きる子を、この世に産み落としたくはなかった。
たとえバスティアンから逃げ切れたとしても、
怯えながら身を隠して生きる日々が待っている。
そして何より恐ろしかったのは、
自分がこの子を心から愛せなくなるかもしれないことだった。
憎しみは、きっと子どもにも向けられる。
地獄は自分一人で終わらせたほうがいい。
——それなのに、なぜ?
あの日、病院を飛び出し、裏通りを抜けた途端、
込み上げてきた吐き気。
まるで、自分を傷つけようとした母親への、小さな命の精いっぱいの抵抗のようだった。
本当にそれが最善なのか
オデットはうつむき、赤く凍りついた両手へ視線を落とした。
感覚を麻痺させるような寒さの中でも、ティラの腹で踊っていた赤ん坊の感触だけは、
今も鮮明に残っていた。
永遠に消えない、烙印のような記憶だった。
この子を産むことが狂気であることは、誰より自分が分かっていた。
それでも、どうしても最後の一歩を踏み出せない自分に耐えられなくなったその時、
見知らぬ声が聞こえた。
「あの……奥様。何かお困りですか?」
観覧車へ向かう途中の若い夫婦だった。
父親に抱かれた子供は、アルマと同じくらいの歳に見えた。
両親に公平に似た、かわいらしい少女だった。
オデットは力なく笑って首を振った。
黙礼で感謝を伝え、心配そうな彼らのそばを通り過ぎ、近くのベンチへ向かった。
帰るべき時だとわかっていた。
しかし、今はまともに体を支える自信がなかった。
ベンチの端に身を縮めて座り、ショールをきつく引き寄せた。
この子が欲しがっている
向かいの屋台では、温かい飲み物を売っていた。
おそらく、あの日、バスティアンがココアを買ってきてくれた場所だろう。
思い出したくない記憶の中の食べ物ばかりが欲しくなる。
「もしかして、この子が欲しがっているのだろうか?」
不意に浮かんだ疑問が、心を深くえぐった。
まともに食べていない日々が続いていた。
自分が何も口にしなければ、
この子も同じように飢えている。
それでもなお、自分にしがみつこうとしている。
ふと、オデットは観覧車を見上げた。
ちょうど乗り込んだ一組の家族が、回る車輪に従って空へ昇っていく。
じっとその光景を見守っていた彼女は、両手で静かに腹を包んだ。
闇が濃くなるほど、遊園地の光は鮮明になる。
オデットは、その光に染まった目で、美しい偽りの世界を見つめた。
溜まった涙が乾き、かすかな温もりが冷めていくまで。
初めて、その命を自分の中に確かに感じながら。
妻は、私が探す
「ホテル側に言って、近隣を捜索してもらうのが良いのではないでしょうか?」
すでに二度、夕食を遅らせて戻ってきた従僕が、慎重に尋ねた。
検討中だった書類を閉じ、時計へ目をやる。
時刻は、すでに八時を回っていた。これ以上、待つ理由はなかった。
「むやみに騒ぎ立てる必要はありません」
——「ですが、奥様がまだ……」
「妻は、私が探します」
彼はためらいなく客室を出た。
ベッカー夫妻は、まだ一階のレストランにいた。
友人を招いて、結婚式の前夜祭を楽しんでいる最中だった。
幸せに満ち足りたティラの顔を見ると、オデットがますます滑稽に見えた。
報われぬ愛でも構わないと言ったか。
その高潔な願いが叶えられたことを記念して、祝杯でも挙げるべき夜だった。
ティラには何も知らせなくていい。
幸せだけを抱えて旅立てばいい。
すべてを捧げても報われないオデットだけが、さらに深い絶望へ沈んでいく。
それでいい。
孤島
通りに出たバスティアンは、夜空に輝く観覧車へ向かって歩き始めた。
そこにいる気がした。
根拠はなかったが、そう信じられた。
その直感が正しかったと確かめるのに、長くはかからなかった。
かつて共に行った遊園地へ続く道の向こうから、オデットが近づいてきた。
顔を判別できる距離ではなかったが、
バスティアンは一目でその女だとわかった。
スカートとブラウス、肩のショール一枚がすべて。
冬の入り口に差しかかった北部の夜を、あんな格好でうろつく女を正気と見るのは難しい。
名前を呼ぼうとして、やめた。
バスティアンはガス灯の下に立ち、オデットを待った。
疲れ切った足取りでとぼとぼ歩きながらも、
彼女は背筋をまっすぐ伸ばした姿勢を崩さない。
互いの影が届くほど近づいて、オデットはようやく顔を上げた。
虚ろな瞳が彼をはっきり捉えるまでには、もう少し時間が必要だった。
「……バスティアン?」
血の気の失せた唇が囁く名が、冷たい風に乗って届く。
赤く凍りついた両手をきちんと重ねて握りしめ、
オデットはただ黙って彼を見つめるだけだった。
揺れるまつ毛の影が、彼女をいっそう寂しそうに見せた。
必死にもがいたはずなのに、結局また、すべてが始まった場所へ戻ってきた。
父親のギャンブルの借金で売られた頃から、全く抜け出せていないかのようなオデットの姿が、
バスティアンの眼差しに宿る幻滅をさらに深くした。
それでもなお、ありがたくもない幸運を掴んでいる自分が滑稽だった。
バスティアンは静かにため息をつき、
脱いだコートで震えるオデットを包んだ。
拒む気力さえ失った様子の彼女は、おとなしくその場に留まっている。
今にも気を失ってもおかしくない姿だった。
バスティアンは、長い放浪を終えて戻ってきた女を抱きかかえ、ホテルへ向かった。
正面玄関のほうがはるかに近かったが、彼はあえて遠回りして裏口を選んだ。
ティラが、姉の不幸を知らないように。
そうして、この女の絶望と苦痛が、完全に自分だけのものとなるように。
皇帝は役目を終えた駒を捨てた。
父は死んだ。
妹は幸せを抱えて旅立っていく。
そしてオデットだけが、取り残された。
バスティアンは静かにその姿を見つめていた。
満足のいく成果だった。
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