🌹 本記事は、『この結婚はどうせうまくいかない』原作第7巻・終章をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分や必要な箇所では、原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
※地名・人名について:本作には現時点で原作小説の公式日本語翻訳版がないため、地名・人名などの固有名詞は原文をもとに当サイトで日本語表記しています。今後、公式日本語版で異なる表記が採用される可能性があります。
終章|風はかつて吹いていた場所へと帰っていく 23
半日も山道を揺られていく、と妹が言い出した。
——自分の身の大切さを知らない無法者には、家族の監視が必要だ。
小言を飲み込み続けた兄は、とうとうミゲルを同行者に押し込んで妹を送り出す。
一人馬車の中で、ルシアーノは皺の寄った一枚の紙を取り出した。
「軽い散歩」が「軽いカルステラ行き」になる
これまでの苦労を誰よりも知っているはずのイネスが、今度は半日も山道を揺られる馬車でカルステラへ行くという。
ルシアーノは呆れ果てた。
しかも妹は相談するどころか、すでに行くと決めた後だった。
「主治医たちは揃って、『どうしても必要な軽い散歩以外は、できる限りベッドからも降りない方がよい』と言っていたんですよ。それなのにイネスは、うなずくだけで……」
ミゲルの嘆きはもっともだった。
イネスにかかれば、医師の言う「軽い散歩」は「どうしても必要な仕事」に置き換わり、今度は「軽いカルステラ行き」にまで変わってしまう。
一体、どこが軽いというのか。
以前は家族の監視のもと、それなりに安静にしていたはずが、今では何でもできるけれど、自分の意思で我慢しているだけだと言わんばかりだった。
「……どうやら一度監獄に入ったせいで、もう怖いものがなくなってしまったのではないでしょうか」
ルシアーノも同感だったが、口には出さなかった。
慣習に、大した論理など必要ない
ルシアーノ自身、今ではイネスがカルステラへ向かうべきだと理解していた。
どれほど腹立たしく、不安な決断であろうとも。
エスポーサ城、イネスの故郷であるペレス城、そしてメンドーサ。
エスカランテ小公爵夫妻の子供が、そのいずれでもない場所で生まれるなど、両家の誰も想像していなかっただろう。
母オルガの甲高い悲鳴が、今にも聞こえてきそうだった。
あんな未開の僻地で、軍人たちの噂の種になりながら後継者を産むだなんて。まともな医者がいるとでもいうのか——。
オルガほど露骨ではなくとも、メンドーサの貴族たちも同じように考えるはずだ。
オルテガでは、生まれた土地に精神的、霊的な意味があるとされ、妊婦は数か月も前から出産する場所を定め、家門を挙げて準備することさえ珍しくなかった。
そして大抵の場合、慣習というものに大した論理など必要ない。
イネスの選択は、カルステラの人々にさえ奇異に映るかもしれない。
けれど見方を変えれば、彼女もまた慣習に忠実に、子供たちにとって最もふさわしい「場所」を選んだのだ。
しかも、それは夫妻と子供たちの未来を守る、絶好の時機を捉えた選択でもあった。
子供の誕生を政治的に利用するなど、母親であるイネス自身が思いつかなければ、家族の誰も言い出せなかっただろう。
エスカランテ家にとっても悪い話ではない。
(すぐ傍で孫たちを可愛がれると楽しみにしていた父上の落胆だけは、どうしようもないだろうが)
保護ではなく?
遠くから、カルステラの家に揺りかごを置く場所などないと訴えるラウルの声が聞こえてきた。
ルシアーノは、廊下の向こうへ遠ざかる妹を見送りながら、ミゲルに声を落とした。
「君がカルステラまでついて行ってくれ。監視が必要だ」
「……保護ではなく?」
「何と呼ぼうと構わん。これ以上おかしな真似をさせないためだ」
「つまり……気にかけて見ていてほしい、ということですか?」
ミゲルが柔らかく言い換えても、ルシアーノの表情は晴れなかった。
無法者
イネスがどれほど賢く立ち回ろうとも、ルシアーノには、妹が手に負えない無法者に思えてならなかった。
何もかも計算しておきながら、いざとなれば自分の身を顧みずに飛び出していく。
その性分を知り尽くしているからこそ、舌打ちしながらも、心配せずにはいられないのだ。
「……どれほど利口だろうと、自分の身の大切さを知らない無法者には、家族の監視が必要なんだ」
結局のところ、妹が無茶をしないよう見守ってほしいという、過保護な兄らしい頼み事だった。
イネスには忠実な側近たちがいる。
それでもルシアーノが求めているのは、彼女が少しは遠慮するかもしれない、対等な立場にある「家族の目」なのだろう。
もっとも、ミゲルがすでにイネスにとって、かなり使い勝手のいい手下になっていることまでは知らないらしい。
ルシアーノの視線は、いつまでも遠ざかる妹の背中を追っていた。
最も無駄で差し出がましい
遠ざかる妹の背中をいつまでも見守るルシアーノを見て、ミゲルは考えた。
兄と妹というのは、また違うものなのだろうか。
自分にも妹がいたなら、あれほどまでに心配し、愛することができただろうか。
ミゲルも、戦場にいるカッセルを幾度となく案じ、祈りを捧げてきた。
けれど六歳年上の兄は、幼い頃からずっと大人びていて、あまりにも大きな存在だった。
自分が成長しても、その距離は縮まらなかった。
カッセルには、一日たりとも強くなかった日などない。
兄のために何かしたくとも、自分にできることなどほとんど思いつかない。
だからこそ、ふと思うのだった。
カッセル・エスカランテという男を、自分などが心配することこそ、最も無駄で、差し出がましいことなのではないか、と。
兄の死を最後まで信じなかったイネスの揺るぎなさも、同じところから来ているのかもしれない。
家族だから、心配せずにはいられない。
それでもカッセルとイネスは、後になって周囲の心配をまるで無駄骨だったかのように思わせてしまうところまで、よく似ていた。
それは、イネスとルシアーノがどこか鏡写しのように似ているのとは、また別の意味で。
それでもカッセル・エスカランテに似ているからね
「……いっそのこと、小公爵様ご自身が行かれてはいかがですか? 私が何を言ったところで……」
ミゲルがどれほど真剣に忠告しても、イネスには可愛い弟扱いされるだけだった。むしろフアナの方が、よほど発言力があるかもしれない。
「もちろん、君の言うことなど雑音ほどにも聞かないだろう。それでも、カッセル・エスカランテに似ているからな」
「……まさか、それで?」
「君によく似た兄を思い出して、イネスが一度くらいは考え直すかもしれないだろう」
呆然とするミゲルに、ルシアーノは悪びれもせず続けた。
「もちろん、私は君と違って非常に忙しい」
「だからといって、私も暇なわけではありません」
「鍛錬ならカルステラの方が都合がいいだろう。平和で、余計な邪魔も入らない」
まるでミゲルには鍛錬以外にすることがないとでも言いたげだった。
もはや反論する気力もなく、ミゲルは頷くしかなかった。
こうしてルシアーノは、ミゲルをイネスの同行者に押し込んでから、ようやくエスカランテ公爵邸を後にした。
フアンとイサベラはイネスの突然の出発を咎めないだろう。
けれどヴァレスティナ家の兄としては、そう簡単に割り切れない。
カッセルが帰還途上の今、イネスがまた無茶をした時に責任を負うエスカランテ家の人間が、傍に一人は必要だった。
いささか頼りなくとも、ミゲルならその役目を果たせるはずだ。
そこまで気を回してやった兄の苦労を、果たして妹は分かっているのだろうか。
ルシアーノは舌を打った。
もっとも、あれほど頭のいいイネスが、分かっていないはずもなかった。
最も親愛なるヴァレスティナ
甥や姪たちと離れる寂しさは、ルシアーノにもあった。
一人きりで馬車に腰を下ろすと、その思いはいっそう強くなった。
彼はポケットから、いつの間にか皺の寄った一枚の手紙を取り出した。
『最も親愛なるヴァレスティナ、私のたった一人の兄へ』
そこには、これから誰に父親の愚痴をこぼすのか、寂しくて泣かないようにと、いつものイネスらしい冗談が綴られていた。
けれど、続く言葉は違っていた。
イネスは、これまでずっと兄に申し訳なさを抱えて生きてきたことを打ち明けていた。
そして、もう兄に救われることばかり願うのではなく、これからは自分も兄を支えられる、強く揺るぎない妹になりたいと。
兄をどれほど誇りに思ってきたか。そして、一度たりとも憎むことなどできなかったことも、ようやく伝えられたのだった。
最後には、生まれてくる子供たちの代父になってほしいという願いが添えられていた。
その返事は、出産を終えた自分の額に、兄が口づける時に聞きたいのだと。
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