🌹 本記事は、『この結婚はどうせうまくいかない』原作第7巻・終章をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分や必要な箇所では、原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
※地名・人名について:本作には現時点で原作小説の公式日本語翻訳版がないため、地名・人名などの固有名詞は原文をもとに当サイトで日本語表記しています。今後、公式日本語版で異なる表記が採用される可能性があります。
終章|風はかつて吹いていた場所へと帰っていく 24
這うような馬車に揺られること八時間。
ルシアーノの頼みを忠実に守るミゲルは、イネスの抗議にも一切動じない。
ようやくカルステラへ到着した彼を待っていたのは、ネズミの巣のように狭い官邸と、崩された塀だった。
ところがイネスは、その光景を誇らしげに見せつける。
カッセルが帰ってくる場所を整えるため、彼女はすでに新たな計画を進めていた。
君のミゲルなんてものは、最初からいなかったよ
カルステラへ向かう馬車は、まるで這うような速度で進んでいた。
「こんなに焦らされていたら、そのせいであなたの甥や姪たちが、お腹の中でもう大変な精神的苦痛を受けているわ」
イネスがどれほど訴えても、ミゲルは「うん」「そう」「分かった」と答えるだけ。
御者に速度を上げさせる気配はなかった。
おかげで山道とは思えないほど快適な旅だったが、カルステラまで八時間もかかってしまった。
かつて同じ道を半分ほどの時間で走破したイネスにとっては、まさしく苦行だった。
「窓の外がちっとも変わらないじゃない」
「気のせいだよ、イネス」
「気のせいじゃなくて、あなたのせいよ、ミゲル。ルシアーノが一体あなたに何をしたっていうの?」
「何もされていないんだけど……」
「私のミゲルを返して。ミゲル」
「君のミゲルなんてものは、最初からいなかったよ」
ミゲルは途中で何度も馬車を止め、嫌がるイネスを外へ連れ出して歩かせた。
長時間同じ姿勢でいるより、少し身体を動かした方がよいと考えたのだ。
それでもイネスは、なかなか変わらない窓の外を眺めては苛立つばかり。
とうとうミゲルは、気を紛らわせようと戦場の話を持ち出した。
それは妙案であり、同時に悪手でもあった。
イネスの関心を引くことには成功したものの、そこから三、四時間、延々とカッセルの話をする羽目になったのである。
こうして、すっかり疲れた顔のミゲルと、この上なく晴れやかな顔のイネスが、ようやくカルステラへ降り立った。
この婆やが心臓を潰して死ぬところを
官邸に到着するなり、玄関の奥から悲鳴が響いた。
「アイ、ディオス・ミオ! イネス様!」
「アロンドラ!」
家政婦の姿を見つけたイネスは、ぱっと顔を輝かせ、勢いよく階段を駆け上がろうとした。
ミゲルが慌てて後を追うより早く、アロンドラが階段を駆け下り、彼女を押し止めた。
「この婆やが心臓を潰して死ぬところを、どうしてもご覧になりたいのですか!
そんなお身体で、こんなにも不用心に駆け寄って来られてどうなさいますか!」
「……ごめんなさい」
ミゲルは耳を疑った。
自分の忠告には散々文句を言っていたイネスが、家政婦に叱られると素直に謝っている。
妙に裏切られた気分だった。
やがて二人は階段の途中で抱き合い、泣きながら再会を喜び始めた。
先回りしていたラウルとフアナは、取り残されたミゲルに向かって肩をすくめる。
どうやら、しばらく終わりそうになかった。
アロンドラがお世話してくれなかったからよ
それからというもの、辺りは「ディオス・ミオ」の嵐だった。
双子を宿した大きなお腹を見て驚き、イネスの頬を包み込んでは、以前より痩せてしまったと涙ぐむアロンドラ。
メンドーサから届く新聞を読むたび、イネスの身を案じて泣いていたという。
イネスが最近はよく食べて太ったのだと説明しても、アロンドラは、ならばメンドーサではどれほど痩せ細っていたのかと嘆くばかりだった。
「アロンドラがお世話してくれなかったからよ」
甘えるように答えるイネスを、ミゲルは呆然と見つめた。
まるで幼いセニョリータと、その乳母のようだった。
イネスはアロンドラの涙を拭い、優しく抱きしめた。
「お腹!お腹にはいつだってお気をつけにならないと!」
なおも心配する家政婦に、イネスは可笑しそうに笑うだけだった。
そしてアロンドラは、ようやくミゲルに気づいた。
「あらまあ!大佐様のお身体をそのまま写し取ったようなセニョールもいらっしゃいましたね!」
今度は両腕を広げ、カッセルによく似た弟を心から歓迎した。
いや、これが本当に兄上とイネスの家だって?
官邸の中へ入ったミゲルは、再び言葉を失った。
玄関も廊下も、驚くほどこぢんまりとしている。
(いや、これが本当に兄上とイネスの家だって……?)
イネスはそんな彼に使用人をつけ、家の中を案内させた。
だが、そもそも案内するほど広い家なのだろうか。
二階では、生まれてくる双子のために部屋を改装している最中だった。
木柵のついた子供用のベッドと、世話をする大人のための簡易ベッド。
それだけで部屋の大半が埋まりそうな狭さである。
カッセルとイネスが並んで子供たちを覗き込めば、それだけでいっぱいになってしまいそうだった。
もっとも、あの夫婦なら、肩や腕が触れ合うほどの距離をむしろ喜ぶのかもしれない。
使用人は窓の外を示し、見晴らしの素晴らしさを誇った。
確かに、ロゴーニョの丘から続く街並みと、その向こうに広がる海は美しい。
だが、人間は景色だけで暮らせるわけではなかった。
早く逃げろ、と訴えている家
以前カルステラを訪れた時、カッセルはもっと大きな邸宅に暮らしていた。
独身だった兄は、少尉に任官したばかりの頃から、退役大佐の邸宅を買い取って悠々と一人で使っていたはずだ。
それが結婚と同時に、この小さな官邸へ移ったという。
(あの頃は、それほど結婚が嫌だったのか?)
軍人の妻になれば、こんな家で暮らすことになる。
嫌なら出ていけとでも言いたかったのだろうか。
あるいは、わざと狭い家を選び、イネスと肩を寄せ合って暮らしたかったのかもしれない。
いずれにせよ、相手はイネス・ヴァレスティナ・デ・ペレスである。
生まれながらに最高位の貴族として育ち、物を見る目も厳しい女性だ。
ミゲルには、この家が彼女に向かって「早く逃げろ」と訴えているようにさえ思えた。
それなのに、当のイネスはこの暮らしを気に入り、一刻も早く戻りたがっていたのだから、不思議でならなかった。
この家はあなたのお兄様のもの。そして、あの家は私のものよ
階下へ戻ると、イネスが待ち構えていた。
「ミゲル、こっちへ来てみて」
何か自慢したいものがあるらしく、目を輝かせながら彼をテラスへ連れ出す。
そこには青い海を一望できる、美しい庭園が広がっていた。
しかし、イネスが見せたかったのは景色ではなかった。
「そっちじゃなくて、あっちを見て」
指さす先にあったのは、崩れ落ちた塀だった。
「どう? 素晴らしいでしょう」
ミゲルには、何が素晴らしいのか分からない。
狭い家だけでも驚きなのに、今度は塀まで壊してしまったのか。
そんな彼に、イネスは得意げに告げた。
「この家はあなたのお兄様のもの。そして、あの家は私のものよ」
塀の向こうには、もう一軒の官邸が建っていた。
イネスはその家を手に入れるため、ノリエガ大佐に三か月も働きかけ、三十通以上の手紙を送っていたという。
ロゴーニョの丘の官邸は、金さえ払えば買えるものではない。所有には軍部の許可が必要で、原則として軍人本人の名義でなければならなかった。
イネスは当初、カッセルに内緒で隣家を贈り、二つの建物をつなげようと考えていた。ところが、本人が不在では許可が下りない。
そこで彼女が利用したのが、カッセルの戦死の報せだった。
「戦死者の妻は、死後一年間に限りその権利を直接代行できる」という条項を見つけ、ノリエガ大佐へ送りつけたのである。
さらには、亡き夫を偲びながらカルステラで子供たちを育て、残りの人生を過ごしたいと訴えた。
「……イネス。兄さんが死んだなんて、一度も思っていなかっただろう」
「私はそうだけれど、他の人たちは違ったでしょう」
イネスにとっては、未亡人という立場さえ利用できる機会だった。
その手紙を受け取ったノリエガ大佐は、隣家に住んでいたザモラ大尉を退去させ、彼女の望みをかなえたという。
ミゲルは改めて塀の向こうを見た。
どう見ても、別館になるはずの家の方が本館より大きい。しかも二つの敷地には一階分ほどの高低差がある。
それでもイネスは、すでに二軒を一つの家として使うつもりでいた。
完全に、私たちだけの空間
イネスは、生まれてくる子供たちの部屋が狭いことも気にしていなかった。
「閉じ込めて育てたって、死にはしないわ」
そして、何より大切そうに言った。
「それに、ここは完全に私たちだけの空間にしておくのよ」
——完全に、私たちだけの。
もしかすると、それこそが最初からの目的だったのかもしれない。
ミゲルは、ルシアーノがイネスを「あれは重病だ」と評していたことを思い出した。
「ロゴーニョの丘では、前例のない大邸宅になるわ」
小さな家を二つつなげたところで、ミゲルにはそれほど大きくなるとは思えなかった。
それでも、未来の家を思い描くイネスは幸せそうだった。
やがて彼女の視線は、カッセルが帰ってくるはずの海へと向けられた。
ミゲルはその背中を、祝福するように軽く叩いた。
どうしてあれほどピアノの音色のように……
それから十日。
官邸では、昼夜を問わず工事が続いていた。
隣家の内部を作り替え、二つの建物をつなぐ回廊と階段を設ける。
当初は屋根だけの予定だった回廊には、イネスの希望で壁まで造られた。
さらに建物の統一感がないと言い出したため、屋根まで赤く塗り直すことになった。
金槌の音に土埃、塗料の匂い。
近隣の官舎に暮らす人々にとっては、迷惑極まりない工事だった。
そこでラウルは、イネスの指示で一軒一軒を訪ね、困っていることはないかと尋ねて回った。
だが相手は、死線を越えて帰還する戦争の英雄、カッセル・エスカランテの妻である。
不満など口にできるはずもない。
「丘を上ってくる資材車の音も、金槌の音も、どうしてあれほどピアノの音色のように美しく、多彩に聞こえるのでしょうな」
「その言葉はつまり、何にせよ騒音は聞こえているということですね」
ラウルに問い返され、住人たちは恐縮するばかりだった。
それでもイネスは調査をやめさせず、必要な補償を続けさせた。
カッセルが帰還する前に、エスカランテの名で、どんな些細な恨みも買いたくなかったのである。
「……まさか、また迷信ですか?」
刺繍に没頭するイネスに尋ねても、返事はない。
ラウルは潤沢な予算を預かり、近隣の官舎へ贈り物を届け始める。
高級酒に肉、旬の果物や香辛料。
祝日には黄金のカフスボタンや宝石をあしらったブローチまで贈られた。
夫人のいる家には毎朝、新鮮な花束と幸せを願うカードが届く。
そこにはイネス自身の署名が添えられていた。
初めは騒音に悩まされていた住人たちも、やがて考えを変えていった。
「エスカランテ大佐の官邸工事が、一年くらい続いてくれても悪くない」
そう願う者まで現れたのである。
密やかに、武装解除していった空気
けれど、そんな工事もやがて終わりを迎えた。
イネスがカルステラへ到着する六日前から始まり、完成までにおよそ二十日を費やした大工事だった。
別館の内装はフアナが、外部工事はアロンドラが取り仕切った。
騒音や土埃を避けるため、周囲はイネスに丘の下の別邸で過ごすよう勧めたが、彼女は工事の様子を自分の目で確かめ、必要な指示を出したかった。
その甲斐あって、完成した別館にはイネスの好みが色濃く反映されていた。
半分は洗練されたメンドーサ風。
もう半分は、裕福な港町らしい異国情緒を帯びたエル・タベオ風。
美しく、趣味よく整えられた空間だった。
それでもイネスがより好ましく思ったのは、以前からある小さな官邸の方だった。
歴代の住人たちの趣味と、そこに積み重なった歳月とが、自然に溶け合った場所。
初めてここへ来た彼女を、密やかに、そしてごく自然に武装解除していった、あの空気。
それだけは、どれほど金をかけても、人の手で作り出せるものではなかったのだろう。
もっとも——。
まだここに、カッセル・エスカランテがいないせいでもあるのだろうが。
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