🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、原作をもとに、物語の流れと人物心理を整理しています。会話部分は原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
海の狐を誘い出す餌は、その天敵だった。
死ねという命令と大差ないと、老提督が声を荒らげた。
——僕のプリンセスのために。
喜んで服従する理由は、それ一つで十分だった。
同じ頃、尖塔を見上げて祈る女がいる。
忘れてくれてもいい。ただ無事に帰ってきてほしい、と。
その夜、彼女のもとに思いがけない告白が届く。
そして、その返事をする間もなく、皇宮から使者が訪れた。
尖塔への祈り
近いうちに、北海で大規模な総攻撃作戦が行われる。
翻訳しながら集めた断片的な情報を統合して、オデットはそう結論づけた。
北部連合が動員可能なすべての艦隊をトロサに結集させる。ロビタ大洋艦隊に総攻撃を仕掛け、北海の覇権を掌握する決意を固めたのだ。
——頭の中が真っ白になり、息が詰まるようだった。
業務に集中しようと努めても無駄だった。
残業を諦め、割り当て分を上司に伝え、残った文書をキャビネットに収める。
身分が知られてから、衛兵は所持品検査を省略するようになった。
だがオデットは自らコートを脱ぎ、ポケットの中身を確認させる。他のボランティアは皆、通る手続きだからだ。
特権を受けるのは気が引けた。かつてバスティアン・クラウヴィッツの妻だったことは、誰もが知っている。もし噂が広まれば、英雄の名声に泥を塗ることになる。
正当な手続きを経て別館を出ると、さほど遠くない場所に海軍本部が見えた。
空高くそびえる尖塔の先で燦然と輝く三叉の槍の装飾を、オデットは長い間じっと見つめた。
バスティアンは、常に死地の最前線に立ってきた。
今回の作戦とて違うはずがない。
不吉なことなど考えたくないのに、どうしようもなく不安と焦りが募る。
定刻を告げる時計台の鐘が鳴り始めた。固く両手を握りしめて、オデットは祈った。
——海の神が彼を守ってくれるように。
穏やかな水面のように安らかに生きていくという約束を、守れるように。
切実に、心から。
その願いが叶うのであれば、もう一度会いたいという最後の未練さえ、喜んで捨てられた。
自分のことをきれいに忘れてくれてもよかった。ただ、無事に帰ってきてくれさえすれば。
過去の傷を癒してくれる良い家庭を築き、可愛い子供も産み、幸せに末永く生きていけるように。
いつかそんな知らせを聞くことができたら、彼の新たな出発を心から祝福できる気がした。
今なら、本当にそうする自信があった。
——だから、どうか。
全知全能のすべての神の名を探すうちに、鐘の音が止んだ。
「レディ・オデット!」
停留所へ向かおうとした瞬間、聞き覚えのある声。
大通りに停まった車から、満面の笑みのジェンダース伯爵が降りてきた。
海の狐狩り
「とんでもないことを言うな!」
デメル提督の声が、会議室に響いた。
「一介の少佐に主力艦の指揮を任せたとして皆あれほど非難しておきながら、その一介の少佐に作戦権を与えようというのは滑稽ではないか?」
机を叩いて立ち上がった老提督の一喝に、総司令官に同調していた将官たちは口を閉ざして視線を避けた。
——「海の狐狩り」と名付けられた総攻撃作戦。
守勢に転じて体勢を立て直すロビタを、この隙に壊滅させる計画だった。
だが、シェアー提督は侮れる相手ではない。巣穴の奥深くに隠れた狐を誘い出す、妙手が必要だった。
総司令官が選んだ戦略は——海の狐の“天敵”を、餌に使うことだった。
偵察艦隊を別途編成し、総指揮権をバスティアン・クラウヴィッツに。
敵陣に侵入した偵察艦隊がシェアー提督を防御線の外へおびき出せば、待機していたベルク艦隊の本隊が奇襲を仕掛ける。それが最善策であることは、否定できなかった。
シェアーは冷静な計算のもと、打っては引くを繰り返して戦力消耗を最小限に抑えている。その老獪な狐が、ただバスティアンを相手にする時だけ理性を失い、無謀な激戦を繰り広げた。
だから罠にかかる確率が高いことは、デメル提督にもよく分かっていた。
——だが、その次は?
デメル提督は、赤く充血した目でバスティアンを見つめた。
自分の命が議論されている最中にもかかわらず、彼は依然として超然としていた。
命じられた通りに従うのみ。
それ以外は知ったことではないというように。
「部下を大切に思う気持ちは理解するが、これは帝国の命運がかかったことではないか?個人的な感情が大義に優先することはあり得ん!」
「それにしてもだ。これは死ねという命令と大差ないではないか?」
「飛躍しすぎだ。……もちろん危険な作戦であることは認める。だからこそ、より有能な指揮官が必要なのだ。北海の英雄と呼ばれるクラウヴィッツ少佐よりも優れた人物はいないと思うがね」
「死地に追いやる時だけ英雄扱いをするとはな」
「総司令官に反逆するつもりか、デメル提督?」
ライエン提督が声を荒らげると、それまで静観していた将官たちも派閥に分かれて言い争い始めた。
僕のプリンセスのために
修羅場の中でも、バスティアンは動揺を見せなかった。
作戦図を見つめる眼差しは、風が止んだ海のように静かだった。
ライエン提督は海軍最高の知略家だ。数で劣りながらロビタと互角に戦えたのは、彼の優れた戦術のおかげだった。
血も涙もない冷血漢だという批判もあるが、バスティアンは総司令官としての彼を信頼し、尊敬していた。それは個人的な感情とは別の領域での判断だ。
今回の作戦もそうだった。いくら熟慮しても、これ以上の戦略はない。
戦争を終結させるには、必ず北海を掌握しなければならない。
誰かがやらなければならないことならば、最も勝率の高い指揮官を重用するのが正しい。
シェアー提督を北海から追い出すことに成功すれば、本土は安全になる。
そして、そこには遠からず眩しい王冠をかぶることになるオデットがいる。
——たとえ結婚は終わっても、オデットは依然として、この人生に残された唯一の美しいものだった。
大切だった。
守りたかった。
勝てない戦いだと分かっていながら、デメル提督は頑なに抵抗していた。
一歩間違えれば懲戒を受けかねない事案だった。
決意を固めたバスティアンは、冷たい光を宿した目を上げ、会議室の様子を見渡した。
「私が偵察艦隊の指揮を執ります」
軍令などどうでもよかった。
——僕のプリンセスのために。
喜んで服従する理由は、それ一つで十分だった。
「やはりな。君ならそう言うと思った」
怒りを消したライエン提督が豪快に笑う。
一方、デメル提督は一瞬にして戦意を喪失した顔で、ぼう然とバスティアンを見つめていた。
優れた商売人
「ですが、条件があります」
頭を下げて感謝を伝えた視線が、再び総司令官へ向けられた。
——どうせ結論は決まっている。ならば最大限の利益を得る商売をするつもりだった。
それは、自分を守るために総司令官に抗ってくれたデメル提督の名誉を守る道でもあった。
「言ってみたまえ」
「命じられた任務にふさわしい待遇を望みます。軍律通りに執行してください」
極めて丁寧な態度で、生意気な要求。
——独立編成された艦隊を指揮する資格は、提督のみが持つ。
軍律通りに履行しろとは、すなわち提督の座を明け渡せというのと同然だった。
身の丈に合わない特権を享受してきた者の口から出るべき言葉ではない。
だがライエン提督は、とても反論できなかった。
バスティアン・クラウヴィッツは、とっくに特進して提督の座に就いていてもおかしくないほどの戦功を立てていた。それでも少佐の階級章を付けさせていたのは、手綱を放された悪魔の猟犬を制御する勇気がなかったからだ。
——ちょうど今のように。
「皇帝陛下の寵愛を信じて、これほどまでに傲慢に振る舞うのか?」
「私はただ、自分自身を信じているだけです。総司令官様も、そのような理由で私に重責を任せてくださったのだと思います。違いますか?」
淡々と叱責の視線を受け止める男に、眉間のしわを深くしていたライエン提督は、やがて諦めにも似た失笑を漏らした。
「君が優れた商売人でもあることを、うっかり忘れていたようだ」
告白
温かい光に染まったオデットの応接室は、ひときわ寒く感じられる戦時の冬をしばし忘れさせるほど居心地が良かった。
むやみに訪ねるつもりはなかった。ただ平凡に帰宅しようとした道だった。
夕焼けに輝く海軍省の尖塔を見つけると、当然のようにオデットが思い浮かび、それでふと窓の外を眺めた。
そこに、彼女がいた。
まるで運命のように現れた彼女を見つけて、マクシミリアンは衝動的に車を停めた。
ロスバインから戻って以来、ずっと心を悩ませていた苦悩の正体を、不意に悟った瞬間だった。
勇気を出して夕食に誘うと、オデットは受け入れてくれた。
行きつけのレストランが休業していて計画は狂ったが、困惑する彼に、オデットは家での夕食を提案してくれた。とても思慮深い配慮だった。
香ばしい湯気の立つティーカップをそっと置く仕草さえ、ダンスの動きのように優雅に見える。
ラッツに戻ってから、オデットは徐々に本来の自分を取り戻していった。
その孤高な淑女に対する心は、もはや友情の範疇を超えていた。
大切な友人を失いたくなくて知らないふりをしていたが、いつまでもこの曖昧な関係を続けるわけにはいかない。
「実は、あなたにお話ししたいことがあります」
「どのようなお話ですか?」
「レディ・オデットに、正式にお付き合いを申し出たいのです」
ティーカップを置いたマクシミリアンは、まっすぐな眼差しの中に彼女を映した。
「私が至らない人間であることは分かっています。健康な体でもない上に、子供まで抱えていますから。ですが、オデット、それでもあえて、あなたの隣に立ちたいという欲を抱くようになりました」
「ジェンダース卿……」
戸惑ったオデットが震える唇を開いたのと同時に——慌ただしいノックの音。
「皇宮から人がいらっしゃいました、奥様!すぐに出てきていただいたほうがよろしいかと!」