🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、原作をもとに、物語の流れと人物心理を整理しています。会話部分は原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
呪われた宝石と呼ばれ、保管庫の奥に隠されていた母の王冠。
雫形のダイヤモンドは、不吉な涙に見立てられた。
——この道の先に立てば、その理由も分かるだろう。
同じ日、北海では最年少の提督が誕生した。
「一日の命の提督」と嘲る声を、本人だけが聞き流しながら。
そしてバルコニーでは、一人の男が静かに身を引く。
最後に名誉を守るため、彼が口にしたのは——
皇宮への道
戦時のため、儀礼は簡素化された。
決められた時間にタウンハウスの前へ到着した皇室の馬車を、
通りすがりの人々が好奇の目で取り囲む。
従者のエスコートで乗り込むと、二頭の白馬が皇宮へ向かって走り出した。
夢でも見ているかのような顔で、オデットは窓の外を眺めた。
見慣れた風景が、まるで別世界のように感じられる。この道の先に待つ母の王冠を思うと、なおさらそうだった。
——「ヘレネ皇女の復権が決定した」
勅書を持った使者の言葉は、両耳で確かに聞いたのに、なかなか理解できなかった。
感激の涙を流すメイドと、感極まって祝いを述べるジェンダース伯爵がいなければ、奇妙な悪夢を見ているのだと思っただろう。
「おめでとう、オデット。本当におめでとう。人生で最高の誕生日プレゼントになったわね」
しきりに涙を拭うトリエ伯爵夫人が、固まっているオデットの手を包み込んだ。
「まだ信じられません、伯爵夫人。陛下は一体なぜ、このようなご決断を?」
オデットは、怯えた子供のような目でトリエ伯爵夫人を見つめる。
——「いつか私たちの場所に戻る日のために」
母の信仰だったその願いが叶う日が来るとは、想像すらできなかった。
だからこそ、いっそ忘れて生きようと努めた。
永遠に届かない幻影を追いかけ、惨めに死んでいった母と、同じ道を歩みたくはなかった。
「世界が崩壊するような惨劇を目の当たりにして、皇帝の心境にも変化があったのよ」
皇帝がそのように感傷的な人物ではないことは分かっている。
だがオデットは反論しなかった。
——この道の先に立てば、その理由も分かるだろう。
馬車は、年末の賑わいが残る大通りへ入った。
休暇で帰郷した軍人たちの姿も見える。
オデットはカーテンを閉め、姿勢を正した。
母の宿願が叶う日だ。
今は、ただそれだけを考えることにした。
最年少提督
「おめでとう、クラウヴィッツ提督」
自ら階級章をつけた総司令官が手を差し出し、バスティアンは敬礼した手で握手に応じた。
練兵場の兵士たちの拍手が、祝砲のように鳴り響く。
「帝国の海を守る立派な提督になってくれたまえ」
ライエン提督はそう言って、バスティアンの肩を叩いた。
皇帝が北海の英雄に贈った年末の贈り物——武功勲章と特進。
少佐から少将への一気の昇進を懸念する声もあったが、大半はその資格があると納得した。
さらに今は戦時だ。慣例や名分よりも重要なのは、勝利だった。
ベルク海軍省創設以来、最年少の提督が誕生した栄光の瞬間。
だが、記念碑的な事実に興奮する将官たちとは異なり、今日の主役は何の感動も見せなかった。
まるで配給を受けに来たかのような顔で提督の座を受け取っていく態度に、ライエン提督は呆れながらも目を瞑った。
決戦は近い。士気の鼓舞が最も重要な時期に、最も重要な任務を任された指揮官の機嫌を損ねて良いことはない。
丁寧な礼儀を尽くして挨拶したバスティアンが練兵場へ振り返ると、烈火のような歓声が沸き起こった。
一日の命の提督
——「一日の命の提督」
主に保守派から出る、特進への嘲笑だった。
しかし、ほとんどの兵士、特に平民にとって、バスティアン・クラウヴィッツは神も同然の存在だった。大多数を占める平民兵士の士気を高める起爆剤となったのだから、むしろ得をしたのは皇帝の方であるようにも思えた。
「総司令官より高い人気を誇る提督が誕生したとはな。最近は新しいあだ名までできたとか。
『トロサの公爵』だと?」
地団駄を踏むような溜息をつく保守派の将官に、黙って聞いていたデメル提督が声を上げて笑い始めた。
「そこまで不満なら、代わりに囮にでもなってみてはどうだ。ロビタの防御線を突破してシェアーの本隊を叩き、罠を仕掛けた海域まで敵の艦隊をおびき寄せるだけの、とても簡単なことではないか」
「今、私を嘲笑しているのか?」
「まさか。私はただ、心からの助言をしているだけだ。英雄の出世がそれほど気に食わないのなら、彼よりさらに優れた英雄になるしかない。そうではないか?」
唸り合う将官たちを制したライエン提督は、振り返って、遠ざかっていくバスティアンの後ろ姿を見つめた。
「どうか、神の加護が帝国の新しい提督とともにありますように」
——これまでになく敬虔な気持ちで、彼は祈った。
ヘレネの涙
ヘレネ皇女の王冠が、再び世に姿を現した。
礼服の元老が王冠を手に赤い絨毯を歩いていくと、ひそひそ話していた客たちの視線が一斉にそこへ向けられた。
「ついに“ヘレネの涙”が止むことになりましたわね」
皇帝のそばに立つオデットを見守りながら、皇室の老婦人が声をひそめた。
皇室に帰属する宝石は、通常、他の皇族に代々受け継がれる。
だがヘレネ皇女の王冠は、長い歳月を経ても新しい持ち主を見つけられなかった。呪われた宝石という汚名を着せられたためだ。
娘への愛情が格別だった先代皇帝が、最高級の宝石を厳選して特別に製作させた王冠。
それは“ヘレネの涙“という屈辱的なレッテルを貼られたまま、宝石保管庫の奥深くに隠匿されてきた。
王冠を飾る雫の形のダイヤモンドが、まるで涙のようで不吉だという理由で。
皇帝は、妹の王冠を、直接、妹の娘に被せてやった。
その重さを感じて初めて、オデットは現実を自覚した。
水中に深く沈んだようにぼんやりしていた意識が徐々に澄んでいき、周囲の音が聞こえ始める。
「先代皇帝の娘であり、私の妹であるヘレネを、再び帝国の皇女として認める。これにより、皇女の娘であるオデット・テレーゼ・マリー=ロール・シャーロット・フォン・ディセンは皇室の一員となり、没収されていたヘレネ皇女の地位と財産の正当な相続人となったことを宣言する」
満場の客へ向き直った皇帝が、復権を公表する。
事前に熟知しておいた作法に従って挨拶するオデットに、雷のような拍手喝采が降り注ぎ、帝国の国歌が演奏され始めた。
「乞食プリンセス」と呼ばれ、見捨てられた皇女の娘が、ついに自分の場所を取り戻した瞬間だった。
バルコニーの答え
年末のパーティーは、とても質素だった。
ダンスは禁止され、食事も酒も皇宮の宴会には似合わないほど簡素で、豪華な飾りを控えるよう特命を受けた貴族たちは、喪服のような服で出席していた。
装飾をすべて排した燕尾服のマクシミリアンは、遠くから王冠をかぶったオデットを見守る。
今日の主役もまた、質素な身なりだった。
シンプルな黒いベルベットのドレスに、皇室を象徴する青い帯。身に着けている宝石は母の王冠だけ
それでも、一目で視線を奪われる女性だった。
静かに身を引くことを決心し、彼はバルコニーへ出た。
冬の庭園が、バラ色の夕焼けに染まり始めている。
皮肉にも、交際を申し込んだ日に復権の知らせが伝えられた。
おかげで返事を聞けなかったが、あえて再び尋ねたいとは思わなかった。
軽率なことをしたという後悔が、日ごとに大きくなっていくだけだった。
「ジェンダース卿」
帰ろうと決めた矢先、柔らかな声。
振り返ると、いつの間にかオデットがバルコニーに出てきていた。
「ご復権おめでとうございます、レディ・オデット」
「ありがとうございます。それから、あの日は気が動転していて、大変な失礼をいたしました」
「いいえ。私が失礼をしました。あの言葉はなかったことにしていただいて構いません」
「私はお答えしたいのです。
ジェンダース卿のためにも、そうするのが正しいように思います。そうしてもよろしいでしょうか?」
穏やかに尋ねる彼女の頭上に、夕暮れの陽射しが降り注ぐ。
眩しい王冠を通り過ぎたマクシミンの視線は、宝石のように燦然と輝く瞳の上で止まった。
「レディ・オデットのお気持ちがそうであるのなら、従いましょう」
彼にできる返事は、その一言だけだった。
不貞な女のように
「ジェンダース卿は、素敵な方です。これまで私に施してくださったご厚意に、心から感謝しております。ですが、友情以上の感情はございませんでしたし、その事実はこれからも変わらないと思います」
用意していた返事を、オデットは淡々と伝えた。
告白が与えた戸惑いが消えると、これまでの時間を客観的に振り返ることができた。
ただ友情という名だけでは説明しきれない、数多くの好意と配慮があったことを、彼女はそこで初めてはっきりと認識した。
「良い人だから」
「アルマのお父さんだから」
「私たちは友達だから」
もしや、という疑問が浮かぶたびに前に出した言い訳を、すべて取り払うと、この関係の本質が見えた。品位のある友情を保ち、親交を深めてきたが、その根底には明らかに恋慕が宿っていた。
今までそれに気づかなかった自分を、オデットはどうしても理解できなかった。
バスティアンがとっくにその事実を見抜いていたことを悟ると、たまらなく恥ずかしく屈辱的になった。まるで、浮気をした不貞な女になったかのようだった。
バスティアンとマクシミリアンの両方に酷いことをしたことになる。
無知だったという言い訳で覆い隠せる過ちではなかった。
「私は愛でなくても構いません。今のような感情で、良い友人となるようなパートナーになることもできると思います」
深く考え込んでいたマクシミリアンの言葉に、オデットは理解したというように頷いた。
「卿のおっしゃる通りです。もし私が再び結婚するつもりがあるのなら、今とは違うお答えを差し上げることもできたでしょう。ですが、私は今の、このままが良いのです」
マクシミリアン・フォン・ジェンダースは、オデットが夢見ていた理想的な結婚相手だった。
たとえ愛ではなくとも、穏やかな水面のような親交と友愛の情を分かち合い、一生を安らかに生きていけるだろう。
お互いの安息所となる堅実な家庭の中で、温かい幸せを享受しながら。
しかし、永遠に彼を忘れることはできないだろう。
オデットは、そんな罪を犯したくはなかった。
「もしかして、クラウヴィッツ少佐のためですか?」
答えられず、うつむく。
その沈黙が、最も確実な答えとなった。
「そうでしたか。オデット、あなたの決断を尊重します」
「申し訳ございません、ジェンダース卿」
「クラウヴィッツ少佐についての話です」
丁重に挨拶をして踵を返したオデットの後ろ姿を見つめるマクシミリアンの顔に、苦笑いが浮かんだ。
「少し、お待ちください」
固く閉じていた目を開き、彼女を引き留めた。
もう以前のような友情さえ許されないだろうという予感がした。
もしそうなら、名誉を守りたかった。
これほど惨めで卑怯な終わりを迎えたら、自分を許せないだろうから。
息を整え、まっすぐな姿勢で向き合う。
——あなたに話しておかなければならないことがあります。
クラウヴィッツ少佐についての話です。