🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、原作をもとに、物語の流れと人物心理を整理しています。会話部分は原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
自分たちはまもなく離婚するから、
もはや彼女に対する権利は残っていない、と彼は言った。
恋敵の書斎を自転車で訪ね、妻を託していった男。
——卿の命が尽きる日まで、秘密にしていただけますか。
名誉にかけて誓った男は、その誓いの裏に
自分の影が隠れていることを、謙虚に直視する。
そして遠い海で、血を洗い流した指先が触れたのは、
認識票にかかったまま陽に光る、結婚指輪だった。
「まさか」
「暑さのせいだと思います。少し休めば大丈夫になりますから、心配しないでください」
意識を取り戻したオデットの顔色は、まだ青白かった。
背にクッションを当て、窓を開け、水を取りに台所へ向かうマクシミリアン。
来客に歯をむいていたマルグレーテも、ようやくおとなしくなった。
ソファに深くもたれて、静かにため息をついた。
寝不足の日々が続き、猛暑が始まってからは食欲もなく、まともに食事を摂れていなかった。
——生理がないのも、だからだろうか?
ふと、心臓が足元に落ちていくような気がした。
——まさか。
そんなはずはないと分かっているのに、心が落ち着かない。だからこそ、戻ってきたマクシミリアンの質問は、一層の当惑を与えた。
「もし家に常備薬があるなら、教えてください、オデット」
「……いいえ、薬はありません」
無意識の答えが、思わず口から飛び出した。
遅れてその事実に気づいて、頬がかすかに赤くなる。戸棚の常備薬を思い出し、ひどく恥ずかしくなりながらも、オデットは結局、嘘をついた。
近況を尋ねる声に、唇は律儀に答えている。だが頭の中は、まったく別のことを考えていた。
——そういえば、胸が痛いような気がした。下腹部がシクシクするような感じもした。
見慣れない症状ではなかった。
「私と一緒に行きましょう」
はっと我に返ったのは、マクシミリアンが話題を変えた時だった。
長期戦が確実視され、帝国のすべての大学と研究施設に閉鎖令が下った。学生も研究員も徴兵され、運営が成り立たなくなったからだ。
喘息で総動員令を免れた彼は代替服務に志願し、王立植物園の資料を整理した後、陸軍省の軍事科学研究所へ合流する。
「私と一緒に行きましょう、オデット。
トリエ伯爵夫人が、ひどく不安がっておられます。私まで去ってしまえば、力ずくでもあなたを連れて行こうとなさるでしょう」
「でも、私は……」
「今は戦時下です。女性一人で他郷に残るのは良い選択ではありません。どうせ、ここでの日常は崩れてしまったのではありませんか?」
——家庭教師の仕事は、戦争とともに終わった。この場所に留まる理由も、もうない。
「ラッツに、あなたの住まいを別に用意しておきました」
「いいえ、ジェンダース卿。そんなことはできません」
「タダであげるわけではありません。あなたが私からその家を買い取るようにしましょう。今なら、十分にそれが可能な状況になるでしょうから」
——それは、バスティアン・クラウヴィッツが教えていった方法だった。
託された妻
——ロスバインを去る二日前。
自転車に乗ってひょっこり現れたバスティアンは、まるで約束でもしたかのように堂々と別荘のドアを叩いた。
この上なく無礼な態度だったが、マクシミリアンは素直に招かれざる客を受け入れた。無益な真似をする人間ではないと分かっていたからだ。その信念が間違っていなかったことは、交わした会話で証明された。
驚いたことに、彼は妻を託した——自分たちはまもなく離婚するから、もはやオデットに対する権利は残っていないと。
——『レディ・オデットの意思を尊重するつもりです』
信じられないといった様子のマクシミリアンを見つめながら、バスティアンは淡々と告げた。
窓から差し込む夕日が書斎を赤く染める、うららかな夏の日の夕方だった。
その穏やかでありながら空虚に見えた眼差しの理由が分かったのは、戦争が勃発した後だった。
もし国際情勢が悪化したら、オデットの安全を守ってほしい。
首都に適切な住まいを用意しておくから、そこへ連れて行ってほしい。
謎めいていた依頼を、マクシミリアンはその時になってようやく完全に理解した。
今になって振り返ると、バスティアン・クラウヴィッツは、すでに戦争が勃発することを知っていたのだろう。
突然現れて、オデットのそばに滞在した理由も、もしかしたら、そのためだったのかもしれない。
命尽きる日まで
——『今日のことは、卿の命が尽きる日まで秘密にしていただけますか? 約束できますか?』
バスティアンは緘口令を敷くことで、その日の話を締めくくった。
そしてマクシミリアンは答えた。『名誉にかけて誓います』と。
しかし、単にその約束だけのためではないだろう。
マクシミリアンは、自身の心に影がさしているのを謙虚に直視した——もしかしたら、その約束の裏に隠れているのかもしれない。
だが、これが最善だという考えには変わりがなかった。
必ずその誓いを守ると、
オデットの美しい青緑色の瞳を見つめながら、マクシミリアンはもう一度誓った。
「お待ちしております、レディ・オデット」
たとえ卑怯な言い訳だとしても構わなかった。
マクシミリアンは、永遠の秘密を望んだ。
道理に合わない数字
拿捕(だほ)した敵艦から、艦長が白旗を掲げて下船した。
すれ違いざまの罵り言葉を、バスティアンは聞き流した——彼にとっては、相当に屈辱的な敗北だろうから。
「死亡者32名を除き、生け捕りにした捕虜は総勢155名です」
数字を照らし合わせる眼差しが細くなった。戦時なら搭乗人員を増やすのが常なのに、この数字は平時の定員にも満たない。交戦中に海で失踪した人員を見込んでも、なお足りない。——道理に合わない数字だった。
兵力の不足した艦で戦闘に出るはずがない以上、残された可能性は一つ。
——待ち伏せの敵、およそ20名あまり。捜索隊とほぼ同数だった。
四班に分かれた捜索隊が艦内を進む。
休憩室、洗濯室、食料品倉庫、礼拝室——異常なし。
通信室のドアの前で、椅子が揺れた。間違いなく、人の気配だった。
手信号で停止を命じ、出口をすべて封鎖して、突入。
銃声と悲鳴、両国の言語の怒号が船室を満たした。バスティアンは落ち着いて引き金を引き続けた。主に腕や脚を狙い、避けられない場合のみ急所を、一瞬で。
「少佐!」
制圧直後、天井の配管の上から銃口が向けられた。
かすめた弾丸が窓を破る。死角へ身を投げ、反射的に撃った拳銃。
血まみれの敵兵が、床に落ちてきた。
最後まで艦を守った敵へ
血生臭い匂いの充満する通信室は、水を打ったように静まり返っていた。
目標物があるべき場所は、空だった。
尋問の考えを変えたバスティアンは、最も激しく抵抗した最後の敵——若い一等兵の遺体に近づき、軍服のズボンのポケットから、それを見つけ出した。
——血まみれの、暗号解読表。
「目標物、獲得成功」
淡々と作戦完了を告げたバスティアンは、自らの手で、息絶えた一等兵の目を閉じてやった。艦長さえも見捨てていった艦を、最後まで守った敵への、敬意の表れだった。
認識票の指輪
「大丈夫でいらっしゃいますか、少佐?」
ケイレン少尉の問いで、自分が負傷していたことに気づく。弾丸のかすめた左腕が、血で赤く染まっていた。
艦長室で救急箱を見つけ、手際よく包帯を巻く。
血のついた手を洗い、顔を上げると——くすりと笑いがこぼれた。
認識票にかかった指輪が、暮れゆく夏の陽射しの中で、きらびやかに輝いていた。
——指から外した結婚指輪は、認識票とともに、今も彼の胸元にあった。
鏡から視線をそらし、乱暴に顔を洗った。
血と汗と雑念を、すべて洗い流すように。
濡れた顔を拭き、軍服をきちんと着ると、再び元の顔つきに戻ることができた。
引き出しから見つけた葉巻を一本くわえ、艦長室を出る。
船尾の銃声も止み、完璧な静寂が訪れていた。
銃器を携え、規則正しい足取りで敵艦の廊下を横切っていく。
窓の向こうに見える海は、美しい青緑色にきらめいていた。