🌹 本記事は『バスティアン』原作120話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。
逃げる準備は整っていた。
あとは、夫が狩猟会で一日いなくなる、その隙を待つだけ。
だが、その計画は、
たった一枚の招待状で崩れ始める。
二年前と、同じ部屋
よりによって、あの時のあの部屋だった。
オデットは困惑した顔で、ホテルの客室を見回した。
家具も装飾も、窓の外に広がるシュルター川とカルスバール市街の景色まで、
すべてが二年前と同じだった。
先を歩くバスティアンの後ろ姿さえも。
まるで、あの年の秋に戻ってきたような気分にさせる光景だった。
支配人や従業員、随行員たちが下がり、突然の静寂が訪れる。
それでもバスティアンは、その場に留まっていた。
逆光の影で表情は読めなかったが、執拗な眼差しだけは鮮明に伝わってくる。
唇を震わせたオデットは、結局何も言えないまま背を向けた。
マルグレーテを床に降ろし、帽子と外套を脱ぐ。
彼女が荷物を解き始めたちょうどその時、バスティアンが沈黙を破った。
「公爵家の奥様が、君を招待している。土曜日の午餐を一緒にしようと」
崩れていく計画
バスティアンは、結局ティラの結婚式に出席する約束を果たした。
だがそれは、些細な予定にすぎず、
今回の主目的は北部の有力実業家を訪ね歩くことにあった。
三日間休みなく続く日程で、とりわけ土曜は、
ヘルハルト公爵の狩猟会で終日席を空ける予定だった。
それを知った瞬間、オデットは決めていた。
—— 絶対に、この機会を逃してはならないと。
「狩猟会が開かれる日だと思っていましたが。
もしかして午餐の会合に変更されたのでしょうか?」
かろうじて顔色を取り繕って聞き返す。
「変わったことはない。ただ、女主人が主催する集まりが一つ追加されただけです」
「ですが、バスティアン、その日は先約があります」
「まさか、君の異母妹を見送るつもりじゃないと信じたいが」
バスティアンは、内ポケットから取り出した封筒を差し出すことで、命令に代えた。
オデット宛のヘルハルト公爵夫人の招待状だった。
一瞬、目の前が真っ暗になったが、
オデットは、諦めるようにそれを受け取った。
まだ二日ある。
別の方法を探せるはずだ。
今は、不要な疑念を抱かせないことが何より重要だった。
出発を告げる随行員の声に、彼女はかろうじて一息つき、目を伏せた。
静かにオデットを凝視していたバスティアンは、
それ以上言葉を足すことなく、客室を後にした。
消えていく冷たさ
ドアが閉まる音が響いてから、
椅子の後ろに隠れていたマルグレーテが、ようやく駆け寄ってきた。
「大丈夫よ、メグ」
クンクンと鳴く小さな体を抱き上げ、オデットは窓辺へ寄る。
その温もりが、胸の底に溜まった冷たさを少しずつ溶かしていった。
そうしている間に、バスティアンを乗せた車がホテルの前を離れていく。
川沿いの道を進み、街の向こうへ消えていくのを、オデットは窓枠にもたれて見送った。
待ちに待った知らせが届いたのは、その車が見えなくなった後だった。
「クラウヴィッツ夫人、ベッカー夫妻が到着されました」
ティラの涙、姉の祈り
ティラは、姉に申し訳ないと思う分だけ泣き、
感謝する分だけ笑った。
ニック・ベッカーがそっと席を外し、別れを控えた姉妹を気遣った。
泣いて、笑って、
また笑ってを繰り返し、
客室が午後の日差しに染まる頃、ティラはようやく激情を落ち着かせた。
「こんなに素敵な場所で、お姉ちゃんの祝福を受けながら結婚できるなんて、まだ信じられないわ」
カルスバールで最高のホテルに一泊した後、結婚式を挙げる予定だった。
バスティアンの配慮がなければ、想像もできなかったことだ。
「実は、しばらくの間、クラウヴィッツ少佐のことを憎んでいたの。」
赴任先に女ができて姉をないがしろにしているのだと思っていた、こんなに姉を愛している人を疑うなんて馬鹿みたいでしょう、と涙で顔を輝かせてティラは笑った。
オデットはかすかに微笑むだけで、テーブルの下の箱を手に、妹の隣へ座った。
箱を受け取ったティラは、すぐにまた泣き出した。
手作りの赤ちゃんの服だった。
産着、ベスト、靴下、帽子まで。
どんな気持ちで用意したのか、一目でわかる贈り物だった。
「お姉ちゃん、本当に馬鹿みたい。私みたいな妹の、一体何が良くてこんな苦労を……」
「そんな言葉は聞きたくないわ」
きっぱりと首を振り、オデットは妹の涙を拭い、乱れた髪と襟を整えてやった。
「泣かないで。あなたはもう母親なんだから、ティラ。強くなるのよ」
叱るような口調とは裏腹に、その眼差しは温かかった。
ティラは姉に抱きつくことで答えに代えた。
「私にとってはお姉ちゃんがお母さんだったわ。本当にありがとう。
私もお姉ちゃんみたいに、良い母親になれるように頑張るから」
光の消えた瞳
胸に顔をうずめてすすり泣く妹の背を、オデットはじっとさすっていた。
その瞳から、光が消えていく。
「母親」という言葉。
ふっくらと膨らんだティラの腹。
心を込めて甥か姪の服を縫っていた時間。
それらが、言葉にできないほどの悲しみと苦痛を生み出した。
裏通りの薄暗い病院。
診察台。
不気味な光を放っていた手術道具。
その記憶までもが、後に続いた。
何も知らないティラは、
女の子が生まれたら姉の名前をつけさせてほしいと無邪気にはしゃぐ。
答えを見つけられないオデットは、
ただ膨らんだティラの腹を見つめるしかなかった。
「一度触ってみる?最近、赤ちゃんがよく動くの。どれだけ不思議か、わからないわ」
避ける間もなかった。
ティラがオデットの手を掴み、自分の腹の上へ引き寄せた。
「ああ!動いたわ!叔母さんに会えて嬉しいみたい」
きゃっきゃと笑う声に応えるように、胎動はさらに鮮明になった。
オデットは無意識に息を潜め、その動きに集中する。
まるで母親の胎内で踊っているかのようで──不思議で、そして、愛らしかった。
「この子をシャーロットと呼んでもいいかしら?」
ティラが無邪気な質問を投げかけた。
いっそ気が狂ってしまいたい。
そう思った頃に、訪ねてきた客のノックがオデットを窮地から救った。
ティラの女学校時代の同窓生たちだった。
一緒にいようという誘いを断り、オデットは逃げるようにベッカー夫妻の客室を後にした。
廊下から階段、そしてロビーへ。
ただ前へ前へと歩くうち、いつの間にかホテルの外に出ていた。
冷たい風の中に立って、ようやくまともに息ができた。
遠い空をぼんやり見つめたオデットは、
再び川沿いの道を、当てもない足取りで歩き始めた。
靴先に座る、小さな番犬
「申し訳ございません、旦那様。本当に申し訳ございません」
どうしていいかわからないメイドが、頭を下げて謝った。
モリーといったか ── オデットが今回の旅行の随行に指名して連れてきた女だった。
自分が探しに出ると申し出る従僕に、
バスティアンは何でもないことのように応じた。
「放っておきましょう」
コートを脱ぐ彼に、驚いたハンスが素早く服を受け取る。
「すぐに戻って来ますよ」
暖炉の前で唸る犬をちらりと見て、バスティアンは確信に満ちた口調で言い切った。
—— オデットが消えた。
ティラの客室で談笑したのを最後に、誰もその姿を見ていない。
報告を聞くなりティラの居場所を確認させたが、
当のベッカー夫妻はレストランで楽しげに夕食を摂っていた。
姉の失踪など、まるで知らない様子で。
戻るまで夕食を遅らせてきましょうか、というハンスの提案に、バスティアンは軽く顎を引いて応じた。
使用人を下がらせたバスティアンは、
窓辺の椅子に座って、火のついていないタバコをくわえた。
靴先に座る、小さな番犬
オデットの犬が再び存在感を示したのは、その時だった。
おずおずと近づいたマルグレーテが、
椅子から少し離れた場所でクンクンと鳴いている。
目が合うと威嚇するように歯を剥くが、
尻尾は両足の間に巻き込まれていた。
成長しても小さな犬だった。
一握りにも満たなかった最初に比べればましだが、何の役にも立たない点では大差ない。
吠え続けた犬は、やがて自分から疲れて静かになり、
いつの間にかバスティアンの足元まで来て、靴の先にそっと尻をつけて座った。
首のレースのカラーとリボンは、その名前と同じく仰々しい。
失笑すると、マルグレーテはまた歯を剥く。
ガルルルと唸りながらも、微動だにせずその場を守り続けていた。
内心の読めない犬を放って、バスティアンは窓の外へ目をやった。
夜の訪れる空を、ゆっくりと横切っていく光が見えた。
あの女が、夢を見るようにうっとりと見つめていた、遊園地の乗り物だった。
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