泥の中の愛㉗|135話 ただ、オデット ─ 計算の外にある名前

バスティアン|泥の中の愛㉗|135話 ただ、オデット ─ 計算の外にある名前 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。

私を売って、この泥沼から抜け出してください。

オデットが差し出した取引は、確かにバスティアンに有利だった。
——ただ一つ、計算の外にあるものを除いて。

有利な取引

不倫の噂を認めれば、私を捨てる名分ができる。
あなたは無実の被害者になり、フランツは罠に落ち、私は汚名をかぶる。

だから離婚を受け入れて、この子と去ることを許してほしい――。

オデットの長広舌が結論に達しても、バスティアンは黙々と食事を続けていた。

数日、仮眠だけで持ちこたえてきた果てに聞かされるのが、このでたらめな話とは。
ずいぶん、やりがいのある成果だった。

「確かに、僕に有利な取引ではあるだろうな」

父の没落とオデットの破滅。
二つの復讐を一度に終わらせる絶好の機会だった。

父の没落とオデットの破滅。二つの復讐を一度に終わらせる絶好の機会。

皇帝がその子を認めることはない。
オデットは子を抱えたまま破滅する。

それは子どもを奪うよりはるかに大きな刑罰になるだろう。

明確な数字と計算は、揃っていた。

——ただ、オデット。

喉に刺さった小骨のようなその名前が、また理性を曇らせた。

実利と無関係な渇望

「何も変わらない、オデット」

考えてみれば、この女に関わるすべてがそうだった。

皇帝の命令でも、器用に避けられた縁談だった。
だが、あえて避けなかった。

二年間の偽りの妻が必要になった時、当然のように彼女を思い浮かべた。
皇帝の姪ほど利用しにくい相手はいないと知りながら。

ただ、オデット、君を求めた。

初めて会った瞬間から、今に至るまで。

愚かな愛が猛毒のような憎悪に変わっても。

責任も使命も。
出世も復讐も。

人生を支えてきた他の何とも繋がらない、だからこそ計り知れない渇望だった。

理性的に判断してほしいと、必死に懇願するオデットに、
バスティアンは視線を上げた。

「去ったら、その次は?」

夜の一部のように静かな瞳が、
オデットをまっすぐ見つめていた。

互いを切り裂く刃

一体、なぜ。

万全の準備をしてきたオデットに、この展開は予想外だった。

まだ子どもが役に立つと考えているのか。
裏切りの代償が足りないと思っているのか。

答えが見つからないまま、平静の仮面が剥がれていく。

「あなたは、それを誰より望んでいたはずでしょう」

まっすぐ見つめると、堅固だった男の顔に微かな亀裂が走った。
望んだ通りになったのに、なぜ今さら――。

「もうやめろ、オデット。僕がどこまで君に我慢できると思っているんだ?」

――捨ててください、今すぐ出ていきますから。

バスティアンの声が歪む。

聖女のように振る舞うが、君は骨の髄まで自己中心的だ。
くだらないプライドのために子どもの人生を台無しにする母性愛とは、
ずいぶん涙ぐましいものだ。

「我が子に貧乏くじを引くような生活は絶対にさせない、オデット」

吐き捨てる声の荒い息遣いに、胸が高鳴る。

罪を犯したのはフランツなのに、この男が憎かった。
恨めしくて、傷つけたかった。

自分でも理解しがたい、不条理な感情だった。

「愛はなくても、財布だけは開いてくれた父親のもとで、あなたは幸せでしたか?」

「持っているものは愛だけだった母親を持った君は、ずいぶん幸せだったみたいだな?」

刃のような激情で互いを切り裂いた、その最中に――丁寧なノックの音が響いた。

温め直された食事

デザートを運んできたメイドに、バスティアンはまだ熱の残る声で、淡々と命じた。

「妻の分の食事を、もう一度用意してくれ」

温かいパンとスープくらいでいい。手早く。

ガラス窓に映る彼を見ていたオデットの目が、丸く見開かれた。

――なぜ。一体、あなたが、なぜ。

悲鳴を上げたい衝動に駆られた一瞬、バスティアンが顔を向けた。
凍りついた窓ガラスの上で、二人の視線がぶつかる。

その静かな見つめ合いは、メイドが食事を持って戻るまで続いた。

灰皿の音

フランツが買い入れた債券が、紙くずになった。

資金繰りは崩れ、鉄道買収の残金は払えず、頼みのフェリア財務大臣は手のひらを返した。
フランツの婚約破棄が招いた惨事だった。

たかが絵一枚と笑い飛ばした スキャンダルは、天国から地獄への墜落に変わり、底を打ったと思えば、さらに深い底が待っていた。

——バスティアンは、債券の買い付けに失敗したのではなかった。
競争に参入して値を吊り上げ、意図的に爆弾を押し付けたのだ。

現金化できる株をすべて処分しろと命じるジェフに、追い打ちの知らせが届く。

イリスが、鉄鋼会社の株式公開を始めた。
買収合併で帝国最大規模の鉄鋼会社を設立し、市場の反応は爆発的。
買収価格の二倍以上の利益という観測――。

投げつけられた灰皿が、床に叩きつけられた。
自分が捨てた息子に首筋を噛みつかれた父親の、苦痛に満ちた悲鳴が続く。

——結局、天罰が下るのだ。

秘書は何も言えず、静かに目を伏せた。
どうやら、転職を検討した方が良さそうだった。

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