泥の中の愛㉚|138話 道に迷った心 ─ 森に消えた悲鳴と、すれ違った黒い車

バスティアン|泥の中の愛㉚|138話 道に迷った心 ─ 森に消えた悲鳴と、すれ違った黒い車 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。

散歩の途中、マルグレーテが森へ駆け込んだ。

その小さな追いかけっこが、
最悪の再会への扉を開くことになる。

翼を失った鳥

野良猫に興奮するマルグレーテをなだめながら、オデットは庭園を歩いていた。

ドーラが急用で呼ばれた時、彼女は落ち着いてベンチを指した。
この姿で逃げられるはずがないだろう、と。

奥様はマルグレーテさえいればどこへでも羽ばたく方ではないか、と疑うメイド長に、
オデットは微笑んでみせる。

「あの時は、十分な資金があったわ。ご覧の通り、今は翼を失ってしまったのよ」

実際、逃走は不可能だった。
ジェンダース伯爵の来訪以来、警備は一段と厳しくなり、この領地を抜け出す術はなかった。

だからこそ、願っていた。

――どうか伯爵が、伝えきれなかった言葉を汲んでくれたことを。
頼れるのは、トリエ伯爵夫人だけだった。

深まる思索を破ったのは、再び現れた野良猫だった。

膝から飛び降りたマルグレーテは、猫とともに森へ消えた。

小道から現れた男

「メグ!」

幸い、鳴き声はすぐに聞こえた。
松ぼっくりをくわえて跳ねてくる姿に安堵し、抱き上げて踵を返した、その時。

落ち葉を踏む足音とともに、名を呼ぶ声がした。

「……オデット?」

狭い小道――モリーが実家との内通に使っていたあの道から、
男がひょっこりと現れた。

「フランツ!」

汚れた服、傷だらけの顔、濃くなる酒の匂い。

外見に気を遣う普段とはまるで違う姿に、血の気が引く。
脈絡のない言葉を呟く陰鬱な目が、ギラギラと光り始めた。

あんな真似をしておきながら、
自らここへ足を踏み入れる男が、正気であるはずがない。

選べる道は一つだけだ。

オデットは全力で逃げ、助けを求めて叫んだ。
だが身重の体で若い男は振り切れない。

冷や汗に濡れた手が、首筋を掴んだ。

僕があなたを救い出してあげる

フランツは悲鳴を塞ぎ、オデットを小道へ引き込んだ。

吠え立てるマルグレーテは腕から引きはがされ、放り投げられた。
それでも勇敢な犬は食い下がって、蹴られ、ようやく静かになった。

オデットを探す声が次第に近づき始めると、フランツはさらに険しい道へと向きを変えた。

抵抗をやめないオデットの首元に、焦った彼はポケットナイフを当てた。
加減を誤り、白い肌に血が滲む。

その血を見て、フランツの顔が無残に歪んだ。

「あなたを傷つけたくないんだ。僕の気持ち、分かってくれるだろ?」

ようやくおとなしくなったオデットは、美しかった。

青白い顔も、みすぼらしい身なりも、その腹の子さえ。

「愛してるよ、オデット。もう何もかも終わったんだ。僕があなたを救い出してあげる」

うっとりと笑い、フランツは足を速めた。

鏡の中の怪物

その頃、バスティアンはアルデンヌへの道を走っていた。

父の自滅は時間の問題だった。
春までに片をつけ、夏には子どもが生まれる。
あとはオデットを整理すればいい。

――そうすれば、すべて終わる。

開けた窓から吹き込む夕暮れの風が、煙草の煙をさらっていく。
海の向こうでは、夕焼けがゆっくりと夜へ溶け始めていた。

それでも、胸の奥の冷えだけは消えなかった。

指先に残る、サンドリンの細い首と脈拍の記憶。

発情した獣のように襲いかかってきた女を、彼は静かに見つめていた。

怒りと欲望に目がくらんだサンドリンの中に見えたのは、自分の姿だった。
まるで鏡の前に立っているようだった。

オデットの目に映る自分も、こうだったのか――そう思った次の瞬間の記憶は、曖昧だった。

正気に戻った時、彼はサンドリンの首を絞めていた。
制圧のための護身術、危害を加えるほどの力ではない。

だが、わかっていた。
いくらでも絞められたということを。

いかなる戦場でも感じたことのない、冷たく静かな殺意。

生まれて初めて人を殺したいと思った瞬間に見たのは、サンドリンではなく――オデットの目に映っていたであろう、怪物だった。

―― あの女への復讐は、成功したのだろうか。

幾度自問しても、答えは見つからなかった。

すれ違った黒い車

道に迷った心を自嘲した、その時。
海岸道路の向こうから、黒い車が現れた。

カーブですれ違う、ほんの一瞬。
無関心に通り過ぎ、見覚えのある車だと思い出したのは、道路の終点が見え始めた頃だった。

——フランツ。

父の車を運転していた、間違いなくフランツ。
そして後部座席には、もう一人。

あの女の顔が脳裏をよぎった、その瞬間。

急ブレーキの音が鋭く響き渡った。

「……オデット!」

異常な速度で走り去ったフランツと、切なげに窓を叩いていたオデット。
ありえないはずの光景を、バスティアンは疑わなかった。

ためらいなくハンドルを切る。
方向を変えて疾走する車の音が、夕方の平穏を引き裂き始めた。

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