泥の中の愛㉝|141話 皇帝の命令 ─ 光と闇の境界線と、初めての不服従

バスティアン|泥の中の愛㉝|141話 皇帝の命令 ─ 光と闇の境界線と、初めての不服従 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。

オデットは、深い眠りの中にいた。

その枕元で、傷を隠したまま夜を過ごす男のもとへ、
皇帝の使者が、離婚の勅命を携えてやってくる。

暗黙の交代式

オデットは今日も深い眠りに落ちていた。

気配を殺して寝室に入るバスティアンに、看護師がそっと席を譲る。
何日も繰り返されてきた、暗黙の交代式だった。

気丈に耐えていたオデットは、邸宅に着くなり意識を失った。
幸い外傷は軽かったが、問題は弱り切った体と、お腹の子どもだった。

大きな山は越えたが、今のオデットはひびの入ったガラス人形――わずかな衝撃でも砕けかねないと、クラーマー博士は言った。

ランプを落とし、顔にかかる髪を払ってやると、細い首の傷跡があらわになった。
フランツのナイフの痕。

幸い、深い傷ではなかった。

跡は残らないようで、安堵した。

その時だった。

役に立たない、の訂正

キャンキャンと吠えながら、マルグレーテが足元まで来ていた。

前足には包帯。
主を守って戦った、名誉の負傷だった。

撫でようとすると身を引き、牙をむいた。
それでもこっそり尻尾を振って近づいてくる。

首筋と腰にも絆創膏。
「何の役にも立たない」という評価は、どうやら訂正した方がよさそうだった。

抱き上げてベッドの端に下ろしてやると、犬は迷わず眠る主人の懐へ潜り込んだ。
その気配に、オデットが目を開ける。

「……メグ?」

犬を撫でる手つき、鼻筋への口づけ、温かな眼差し。
比べるもののない愛情があふれるその光景。

光の届く寝台と、闇に沈む自分。
その境界に立ったまま、バスティアンは二人を見つめていた。

この女一人のために

サンドリンとの関係は、完全に清算された。

協業維持を望むラヴィエール公爵の意向は退け、合弁撤回の損失はイリス側が負担する。
理事会に反する独断であり、損失は私財で補てんした。

頭がおかしくなったのかという師匠の叱責にも、意地を曲げなかった。

サンドリンとのつながりを、一切残さないためだった。
その代償は、これまで積み上げてきた責任も使命も投げ捨てることに等しかった。

――たった一人の女のために。

「バスティアン」

名を呼ばれ、光の領域へ足を踏み入れる。

オデットは礼儀正しい他人のように微笑み、マルグレーテを返してくれた礼を述べた。
犬を懐の奥に隠したまま。
まるで、また奪われることを恐れるように。

怪我の具合を問われても、彼は顎を動かすだけで答えた。

オデットは、フランツの名はあえて口にしなかった。

やがてクラーマー博士の到着が告げられ、バスティアンは振り返らずに去っていく。
その後ろ姿は、これまでの冷酷な支配者と、少しも変わらなかった。

裂けた縫合部

包帯を解いたクラーマー博士は、眉をひそめた。

フランツのナイフは、よりによって砲弾の破片除去手術を受けた左肩を刺していた。
縫合部は裂け、炎症まで起こしていた。

無理をするなとあれほど言ったのに――。
再縫合の激痛にも、バスティアンはうめき一つ漏らさなかった。

休めない理由は、博士にもわかっていた。

クラウヴィッツ一家の評判は最悪へ突き進んでいた。
誘拐を企てたフランツへの非難が最も大きいが、少佐夫妻の中傷に血眼の者も少なくない。

新興資本の代表格を目の敵にする旧勢力にとって、このスキャンダルは格好の餌食だった。
保守的な社交クラブは、会員資格の剥奪まで決めた。

かといって、無実の妻子を捨てるわけにもいかない。
袋小路だった。

そこへ、招かれざる大物の来訪が告げられた。

トリエ伯爵夫人だった。
――皇帝陛下の命令を、携えて。

服従はできません

伯爵夫人は、帽子と手袋を着けたまま、鋭いキリのような姿勢でバスティアンを迎えた。

敵意を隠さない眼差し。
夫に捕らえられたオデットが監禁されていると聞いた時、まさかと思った。

あの日オデットに何かあれば、判断を誤った自分を許せなかっただろう。
誘拐事件の翌日、彼女は皇宮へ向かった。
オデットを泥沼から連れ出す口実を得るために。

皇帝は予想外に協力的だった。
姪の安否より英雄の名誉を案じる態度は気に入らなかったが、目指すところは同じだった。

英雄の没落を望まない皇帝にとっても、断る理由のない取引だった。

「長話はしたくないので、本題からお伝えしましょう。皇帝陛下の命令です」

差し出された勅書を、バスティアンは謁見と同じ礼儀で受け取り、机に置いた。
離婚を命じられても淡々としたその顔に、伯爵夫人の軽蔑は深まるばかりだった。

「オデットは私が連れて行くようにしましょう」

用件を終えて立ち上がった彼女の行く手を、巨大な壁のような男が遮った。

「申し訳ありませんが、それは困ります」

「今、あえて皇帝陛下の命令に背くというのですか?」

厳しい一喝にも、バスティアンは平静を失わない。
口元の丁寧な微笑みが、彼をいっそう不遜に見せていた。

「さようでございます、伯爵夫人」

深い夜のような静かな眼差しが、伯爵夫人をまっすぐ見据えた。

「服従はできません」

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