🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
戦争の影が物語を侵食し始める。
準戦時体制への移行、トロサ諸島への出撃命令。
そして、走って戻った男が塀の外から見た「夢のような光景」。
時計の秒針が、二人に残された時間を刻み始める。
準戦時体制
『準戦時体制へ移行。速やかな復帰と緊急会議への参加を要請する』
急報に記されていたのは、それだけだった。
軍用車、特急列車を乗り継ぎ、そのまま海軍省へ。
早朝の作戦司令部は真昼のように慌ただしく、数日前とはまるで別の場所だった。
「南部連合国の海軍艦隊が主要戦線に集結しているという諜報が、昨日の午後に手に入った」
式次第を省略した作戦司令官は、すぐさま本題に入った。
海軍艦隊も陸軍部隊も前線へ移動中。
北部と南部は長年対立してきたが、これほどの規模の兵力が一斉に動くのは異例だった。
指揮棒の先が示したのは——トロサ諸島。
敵艦隊は、概算でも北海駐留のベルク軍の三倍。
最新式の戦艦多数と水上機母艦を含み、トロサ諸島を封鎖して北海艦隊を無力化する作戦と推論された。
そして総指揮官の名が明かされる。
シェア提督。——かつてロビタ海軍の誇りと呼ばれ、敵軍の若い大尉に惨敗して以降、その威光を失いつつあった百戦錬磨の老将。
バスティアンは、自分がこの場に呼ばれた理由を、完全に理解した。
「あと数日だけ、猶予を」
「シェアめ、あの忌々しい老いぼれ!あの時溺死させておくべきだったな」
葉巻の煙でむせ返る執務室。
海軍省は今月末までに全艦隊を前線配置し、戦時態勢に備えると決定した。
名目は特別海上訓練——事実上、全面戦争を念頭に置いた決定だった。
バスティアンにはトロサ諸島行きと北海艦隊の戦艦の指揮が命じられた。
「戦争が勃発すると思いますか?」
「ロビタの連中が馬鹿だとしても、たかが海上訓練のために百隻を超える戦艦を動かすはずがない」
戦線の予測を尋ねるバスティアンの質問は、やがて核心へ向かった。
「東部は? ロースバインは安全でしょうか?」
「なぜだ?素晴らしいウィスキーの味に感心して、いつの間にか醸造所でも買い取ったのか?」
細めた眼の先には、真剣というより切迫した、これまでにない部下の姿があった。
提督は冗談抜きで答えた——東部は陸路での占領が困難な地形。
北海戦線が、帝国の北部と東部を守る関門になるだろうと。
出兵は今週末——あと三日。
会社と身辺を整理するにも、あまりに短い。
残された時間を数えたバスティアンの眼差しに、微かな亀裂が入った。
「あと数日だけ、猶予をください。不忠の代償は勝利で払います。
ですので、どうか私にもう少しだけ時間をください。お願いします」
呆然とするデメル提督に、深々と頭を下げる。
止まらない時計の秒針の音がチクタクと、重い静寂をかきむしった。
二つのシャンパングラス
焼きたてのジャガイモの匂いが台所に広がる。
スズキの下処理、トマトとナスのソース。
窓にかけた懐中時計を確認するたび、手つきは速くなった。
——来ないことを願う男のために、心を込めて料理を作る女だなんて。
滑稽さを噛みしめながら、オデットは黙々と食卓を整えた。
糊の効いたレースのテーブルクロス、そして買い物で買ってきた——二つのシャンパングラス。
一つは片付けようか迷って、結局そのままにした。
どうせ料理だけで十分みじめに見える。
酒杯一つを隠したところで、プライドが保てるはずがない。
着替えて、髪をとかして、ゆるく結んで。
リボンを整えていると鐘の音が——反射的に体を起こし、それが自転車のチャイムだと気づいて自嘲的に笑った。
それでも視線は、窓の外の道に留まり続けた。
午後6時。家路につく村人たちで道が慌ただしくなった。
午後7時。人気のない川を泳ぐ白鳥が、バラ色に染まり始めた。
午後8時。澄んだ闇が降りた村は、しんと静まり返った。
オデットはついに窓辺から立ち上がった。
ランタンだけが、がらんとした食卓を照らしていた。
シャンパングラスを手に台所へ戻ると、
オーブンの熱はとうに冷めているのに、不意に顔が熱くなった。
——チャイムが鳴ったのは、その時だった。
慌てて開けたドアの向こうに立っていたのは、予想とは違う客だった。
「こんにちは、レディ・オデット」
ジェンダース伯爵と、アルマだった。
床板交換の工事日程の相談だという。
「……はい。どうぞ、ジェンダース卿」
——いずれにせよ客が来た。
それで十分なことだと、考えることにした。
シャンパンの瓶を握りしめて
終電から降りた客は、バスティアンだけだった。
ホテルで制服を脱ぎ、広場へ駆け出すと、午後9時の鐘が鳴り始めた。
川沿いの道を、全速力で走る。街灯はなくとも月と星の明るい夜だった。
心臓が破裂しそうでも、休まなかった。
片手には、ラッツで買ってきたシャンパンの瓶を力いっぱい握りしめたまま。
——海軍省は要請を受け入れ、一週間の猶予をくれた。
出征の二日前には復帰しなければならない。
実質、残されたのは五日。
それでも、再びオデットに会えるだけで十分だった。
家の明かりが見えると、さらに力強く走った。
ポーチの前に立った時には全身が汗に濡れていた。
乱れた身なりを整えようとハンカチを取り出した、その時。
——子供がキャッキャと笑った。
柔らかい音色の男の声と、静かな女の笑い声が続いた。
ポーチを降りると、家の前に停まった高級車が目に入った。
こんな片田舎で見かけるはずのない車。
くしゃくしゃに握りしめたハンカチを捻りながら、バスティアンは家の裏手へ回った。
低い塀の向こうに、裏庭が見えた。
愛嬌を振りまく可愛らしい子ども。
満足げに娘を見守るマクシミリアン・フォン・ジェンダース。
穏やかに微笑むオデット。
温かい明かりに照らされた大樹の下、仲睦まじい家族のように見える三人——あまりにも美しく、安らかな、まるで夢のような光景だった。
オデットはよく笑い、話も弾んでいた。
深い悲しみに沈んでいた昨日とは、全くの別人に見えた。
——いったい誰が、招かれざる客なのだろうか?
自嘲的な笑みを浮かべて、バスティアンは背を向けた。
うごめいていた喉元は静かになり、炎のようだった眼差しは冷ややかに沈んだ。
三人の幸せそうな笑い声が、甘い風に乗って流れてきた。
招かれざる客は、暗闇の中へ静かに身を引いた。