🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
鍵のかかった扉一枚を隔てて、
叩き続けるオデットと、どうしても開けられないバスティアン。
無残に壊れた自分を見せれば、彼女を再び縛りつけられる。
そう知りながら、バスティアンが最後に選んだのは、その最も優れた武器を自ら捨てることだった。
最も暗い夜が明けた朝——二人を待っていたのは、夏の風を切って走る、一台の自転車だった。
開けられない扉
オデットのノックは、もう数分も続いていた。
バスティアンは、体温で熱くなったノブを握りしめたまま、目を閉じた。
体が壊れるほど扉を叩き、切なげに名を呼ぶ声が聞こえるたび、
いっそ悪夢の中へ戻ってしまいたくなる。
このまま狂ってしまうのも悪くない気がした。
「あなたが開けないなら、私が開けます!」
「君には開けられない、オデット」
歪んだ笑みでノブから手を放す。
汗の粒が、床を踏む足の甲に落ちた。
崩れるように座り込み、鍵のかかった扉に背を預けると、自嘲のため息が漏れる。
——快方に向かっていた症状が、悪化していた。睡眠薬を減らしたせいだろう。
「かんぬきをかけたから、無駄な努力はやめろ」
「一体どうしたんですか、バスティアン?」
「頼むから、戻ってくれ!」
咆哮のような命令を吐き捨て、冷や汗に濡れた顔をぬぐう。
晴れた空の白い月が、乱れた部屋を静かに照らしていた。
窓辺まで引きずられたベッド。血のついた縄。
そして、オデットと一緒に選んだ布団は、ぐちゃぐちゃになって床に投げ出されていた。
最も優れた武器
「いいでしょう。開けられないなら、壊せばいいんですね」
「君にできるわけがない」
「あなたに教わった通りにします!」
固い口調とは裏腹に、声には水気が滲んでいた。
扉を叩く手からも、もはや力が抜けている。
「少しだけ顔を見せてください。大丈夫だと確認できたら、戻りますから」
——扉に鍵をかけ、背を向け、目を閉じても、オデットが見えた。
赤く縁取られた青緑色の瞳。
流せずに溜まった涙。
震える唇。
泣き方さえ知らずに生きてきた、だからこそ胸に迫るほど悲しく、美しい顔。
——オデット……愛しい僕のオデット。
バスティアンは、この女の新たな弱点を手に入れたことを悟った。
彼女を完全に支配できる、最も優れた武器——それは、他ならぬ自分自身だった。
哀れな者を見捨てられない女だった。
ならば、この扉を開けて、無残に壊れた姿を見せればいい。
渇望した女を、完全に手に入れる最後のチャンス。
飢えた獣のように、彼は必死に止め金を掴んだ。
希望が、止めた
ギラついた瞳に理性が戻ったのは——疲れた老婆のようだった、あの頃のオデットの眼差しが、ふと脳裏に浮かんだ瞬間だった。
彼女が家族を手放せなかったのは、ただ愛だけではなかった。
責任という名の鉄格子に閉じ込められた終身刑囚のように生きながら、クズのような父と世間知らずの妹に献身した女。
だからこそ、希望があった。
壊れた自分を見せれば、情の深いオデットはきっと見捨てられない。
——そして、その希望こそが、バスティアンを止めた。
月明かりの中で蘇るのは、
ようやく歳相応に、生き生きと愛らしく生きているオデットの姿。
自分だけのための人生を得た彼女は、自由で、眩しいほどに美しかった。
「それを奪う代償として、僕は君に何を与えることができるだろうか?」
かつては簡単だった計算は、もはや通用しない。
しがみついて懇願すれば、オデットは結局許してくれるだろう。
やがて愛を告げる資格も得られるはずだ。
——だが、たとえその奇跡が起きても、結局、彼は戦場へ発つ。
彼女が待っていてくれさえすれば、どんな手を使っても無事に帰る自信はあった。
全生涯を賭けてもいい真実の誓いだった。
しかし、彼は戦場を知っていた。
生と死が一人の意思で決まるものではないことも。
前例のない規模の大戦が予告された、最前線だったのだから。
冷静な嘘
——また傷ついたら、もう耐えられない。
かつてのオデットの言葉が、最後の未練を断ち切った。
冷酷に見えて非情にはなれず、孤独な分だけ情が深い女。
だからこそ逃げなければならなかったのだ。
哀れになった彼を見れば心が弱くなり、
再び苦痛の鉄格子に閉じ込められると、彼女は知っていたのだろう。
「君に犯した過ちが、悪夢となって現れる。それが僕を苦しめる」
バスティアンは静かに目を閉じたまま、冷静な嘘をついた。
荒い息を消した声は、深まる夜明けのようにひんやりと落ち着いていた。
「僕が君に与えられるのは、結局、傷だけだ」
熾烈な計算の末に見つけ出した答えを、バスティアンは淡々と見据えた。
すると、ようやく分かった気がした。
この哀れな女のために、何をどうすべきかが。
「ドアを開けてください、バスティアン。私を見て話してください」
「いや。君を見たら、また悪夢を見るような気がする」
バスティアンは床についていた手を上げて、歪んだ顔を覆った。
「君の言うとおりだ、オデット。同情心や罪悪感を取り去った僕の本当の気持ちが、今、分かった気がする。僕たちは互いの腐った傷なのだから、切り取らなければならないのだろう」
バスティアンは静かに目を閉じたまま、冷静な嘘を重ねた。
「だから、もうやめよう」
「バスティアン……」
「約束は守る。もう僕の気持ちも、ほとんど整理がついたから」
最後の武器さえ捨てた男は、よろめきながら立ち上がり、悪夢の残骸と向き合った。
「この地獄に、君を再び閉じ込めることはない」
袖を下ろして傷を隠し、乱れた部屋を片付ける。
「僕もこんな風に生きたくない。……だからもう行ってくれ、オデット」
淡々と告げ、手ぶらで踵を返す。
証跡をトランクの奥に隠し、ベッドを戻した。
布団を整え、最後に睡眠薬を飲んで床についた。
薬が効く頃、扉の前を立ち去るオデットの足音が聞こえた。
バスティアンは、甘美な絶望の中で意識を手放した。
二人乗りの自転車
「バスティアン!」
授業に遅れると知りながら、姿を消した客の名を呼んで家中をうろつく。
苛立ったその時——澄んだ鐘の音。
「おいでよ、マリー・ベラーさん!」
いたずらっぽい低音とチリンチリンという鐘の音。玄関に飛び出したオデットは、呆れ果てた。
自転車に乗ったバスティアンが、平然と笑って手を振っていた。
「今すぐ出発しないと、遅刻ですよ、従妹さん」
「何のつもりですか?」
「まだ足首が治ってないでしょう。ピクニックに行こうと無理を言ったのは僕でしたから、その結果も責任を負うべきかと思いまして」
「もうやめよう、と言ったのはあなたです」
「まだ二日残っているだろう」
「あなたが過ちを犯したことが悪夢として残るのが嫌で施す親切なんですか?」
「おそらくは……」
「どうして私がこんな一方的な施しを受けなければならないんですか?」
「頭を下げるべき時は下げなさい、レディ・オデット」
積乱雲を見上げていた視線が、再びオデットに向く。
「それが本当のプライドです」
心を打ち砕いた、以前と同じ言葉。
なのに、あの時のような侮辱感はなかった。
おそらく、この男に慣れてしまったせいだろう。
集まる視線に負けて、オデットは仕方なく後部座席に跨がった。
バスティアンがペダルを漕ぎ出す。
甲高い悲鳴を上げて彼の腰にしがみつくと、自転車は速度を上げ、夏の風景の中を走り始めた。