何がバスティアンを追い詰めたのか⑤|75話 夫を愛していますか? ─ 楽譜店の問いと、暖炉の口づけ

何がバスティアンを追い詰めたのか⑤|75話 夫を愛していますか? ─ 楽譜店の問いと、暖炉の口づけ 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作75話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

テオドラ・クラウヴィッツは、オデットが最も答えたくない問いを突きつけた。
断ったはずの相手が、今度は自らラッツへやってきた。

楽譜店。
人気のない棚の奥。
蓄音機のワルツ。

その夜、出征の申請書を受理させたバスティアンは、
酒を帯びたまま廊下に立っていた。

思い出してしまった名前

ラーナー通り12番地の楽譜店は、その日もがらんとしていた。
荒い息をついて駆け込んできたオデットの前で、
テオドラは散歩でもするかのような足取りで棚の奥へと進んでいった。

ピアノの前、仕切りで囲まれた静かな場所で、二人は向き合った。
乱れた様子だったが、オデットの眼差しは静かに相手を見据えていた。

「いったい、どうしてそんな馬鹿げた脅迫めいた手紙で私を呼び出されたのですか?」

テオドラは肩をすくめ、楽譜集を手に取った。
父であるディセン公爵が直接手紙を書いてきた、事故の記憶が完全に戻ってきたと書いてあった、と告げた。

「父は何か大きな勘違いをしてるようですね」

オデットは眉一つ動かさずに答えた。
あの日の事故はあまりにも衝撃的で、後遺症で記憶が歪められているのだろう。
心身ともに弱っている患者の言葉を無分別に信じてしまったとは残念だ、と。

二度とこのように自分やティラを侮辱しないでほしい。
行動を探るようなことも、このあたりでやめてほしい、と。

静かに、しかし真っ直ぐに叱責してみせた。

テオドラはその様子を観察しながら、内心で認めた。
愚かな子ではない、と。

「これ以上お話がないのでしたら、私はこれで失礼いたします」

周囲を慎重にうかがったオデットが、丁寧に一礼をした。

「パーマー夫人よ、覚えてる?」

「覚えてる?」

低く口ずさむようなテオドラの声が、音楽と溶け合った。

オデットの足が止まった。

階段の手すり越しに管理人の妻を見たと訴えていた、
あの日のティラの言葉が稲妻のように脳裏をかすめた。

恐怖に起因する妄想だと決めつけて片づけてしまった、あのときの自分の姿も。

さらにテオドラ・クラウヴィッツは続けた。

ディセン公爵は三者での対面を望んでいる。
ティラとパルマー夫人を病院に呼んでほしい。

このまま立ち去るというなら、
この件についてバスティアンとも相談しなければならないだろう。

——行かなければ。

自分にそう命じてみても、オデットは指先ひとつ動かすことができなかった。

父の記憶が戻ってきた。
その事実をもはや否定する余地はなかった。

そしてテオドラ・クラウヴィッツが、
その記憶のすべてを知ってしまったということも。

オデットは崩れ落ちそうになる両脚を支えるために書棚に手をついた。

——ティラ。

震える唇からその名をつぶやいた瞬間、もう隠しきれないほど荒い息がこぼれ出た。

「ようやく話が通じそうね」

テオドラの靴音がオデットの背後で止まった。

「父を殺そうとした私生児と、その異母妹の共犯である姉。そしてそんな二人の娘に半身不随にされてしまった父親。しかもその事件の中心人物が、ヘレネ皇女の娘であり、戦争の英雄・バスティアン・クラウヴィッツの妻だなんて。
これだけで帝国中を熱狂させるスキャンダルになるに十分でしょう」

水蛇のように冷たい手が、オデットの肩をつかんだ。

しばらく空回りしていた蓄音機から、再び音楽が流れ始めた。

ぎゅっと閉じていた目を開いたオデットは、
まず肩をつかんでいた不快な手を振り払った。

身を翻してテオドラと向き合うと、かえって頭の中は澄み渡っていった。

「もしバスティアンの名誉を汚すためのスキャンダルが必要だったのなら、こんなやり方で私を呼び出して脅したりはなさらなかったでしょう」

まだ完全には拭いきれない恐怖がにじんだ声とは裏腹に、
テオドラを見据える眼差しは冷たく静かだった。

「目的が何なのかおっしゃってください。聞きます」

「その前にひとつだけ尋ねましょう」

テオドラがゆるやかに腕を組んだ。窓を通り抜けた日差しが、凛とした姿勢で震えるオデットを照らしていた。

「夫を、愛していますか?」

冷ややかな問いが、蓄音機の旋律に乗って流れてきた。

オデットはすぐには答えられなかった。
何度も唇を動かしてみても同じことだった。

義務と真心のあいだに横たわる遥かな距離は、容易には埋まらなかった。

テオドラは満足のいく答えを得たとでもいうように、
軽くうなずいた。

「では、そろそろ本題に入りましょうか」

志願書の代償

出征の志願書は、無事に受理された。

デメル提督はあからさまに名残惜しさを見せたが、それ以上の強情は張らなかった。
ただしその代償として、夜が更けるまで酒の相手を務める羽目になった。

酔いを帯びたままバスティアンが廊下の扉を開けると、
柔らかな声が闇を越えて響いてきた。

「……バスティアン」

当然眠っていると思っていたオデットが、暖炉の前に立っていた。
すでに真夜中。
いつもの習慣なら、とっくに深い眠りについているはずの時間だった。

しばらく待ってみても、オデットは何も答えなかった。
暖炉の炎に染まった澄んだ顔で、ただひたすらにバスティアンを見つめていた。

椅子の肘掛けに掛けられていたレースのショールが床へと滑り落ちたが、
オデットは気づいていない様子だった。

バスティアンは寝台へ向かおうとしていた足を止め、暖炉の前へと歩み寄った。

落ちたショールを拾って差し出すと、
そのときになってオデットは「あ……」と小さく吐息のような声を洩らした。

慌てて寝間着をかき合わせるオデットを見守りながら、バスティアンはふと考えた。

予定通り契約を終えるなら、
オデットは純潔のまま離婚した女となるだろう。
次の夫こそが、あの女の最初の男になる。

そこまで思い至った瞬間、ふっと笑いが洩れた。
このままでは、自分は離婚と同時に「不能の間抜け」と評されかねない。

まったくもって、とんでもなく愚かな真似をしているのだった。

「だいぶ酔っているみたいですね、バスティアン」

ショールを胸元で握りしめたオデットが顔を上げた。
そろそろお休みになった方がいい、と。寝台までお連れしましょうか、と。

「せっかくだから子守歌でも歌ってくれますか?」

からかうように返すと、オデットの瞳がまん丸に見開かれた。

暖炉の前で

やわらかな吐息を漏らしたバスティアンが、最後の一歩の距離を詰めた。
驚いたオデットが身を引いたが、肩をつかむ彼の動きのほうがわずかに早かった。

「……オデット」

低く名を呼ぶ声には、はっきりとした熱がにじんでいた。

おののいたオデットは息を殺したまま立ち尽くした。

肩から離れた大きな手が、今度は彼女の顔を包み込んだ。
小さく首を振ってみせたが、バスティアンの力に抗うにはあまりにも無力だった。

「こんなことはやめてください、バスティアン。私は……」

必死の懇願が最後まで紡がれる前に、バスティアンの唇が重なった。

以前のように荒々しく押しつけてくる口づけではなかった。
ゆるやかにオデットの唇を吸い取り、舌を絡めてくる。

果てしなく優しいけれど、そのぶん執拗だった。
頬を慰めるように撫でる手つきもまた同じだった。

オデットはただ呆然と、その見知らぬ感覚に耐えた。
まるでバスティアンが飲んだ酒に自分まで酔わされたようだった。

いくら抑え込もうとしても抑えきれない、
熱に浮かされたような吐息が、
重なった唇のあいだからこぼれ落ちていく。

そしてその口づけがようやく終わったのは、
むしろあの悪夢のような夜が恋しく思えるほど長い時間が過ぎてからだった。

茫然とバスティアンを見つめていたオデットは、
言葉にしがたい感情に囚われて視線を逸らした。

だがそこに宿っていた見知らぬ渇望の光景は、
どうしても心から消えなかった。

──なぜ?

その疑問を反芻しているあいだに、バスティアンが再び近づいてきた。

避けようとしたときには、すでに額に唇が触れていた。
押しのけようと必死に力を込めていたオデットの手からすうっと力が抜け落ちていく。

涙ぐむ目尻から頬へ、
さらに鼻筋をなぞるように続いた口づけは、最後に唇の上で終わった。

バスティアンは低く息を吐きながら唇を離した。
後頭部を包んでいた大きな手はなおも、乱れたオデットの髪を撫でていた。

まるでマルグレーテを抱きしめていたあの瞬間のように──つまり、まるで本心であるかのように。

「……バスティアン」

濡れた唇から、希望と信じたくなるその名が零れ落ちた。
静かに見つめ返してくる彼のまなざしには、暖炉の炎のようなぬくもりが宿っていた。

震える手を伸ばしたオデットは、バスティアンの袖口をつかんだ。

「私に言うべきことは……ないですか?」


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