🌹 本記事は、『この結婚はどうせうまくいかない』原作第7巻・終章をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分や必要な箇所では、原作の表現を引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
※地名・人名について:本作には現時点で原作小説の公式日本語翻訳版がないため、地名・人名などの固有名詞は原文をもとに当サイトで日本語表記しています。今後、公式日本語版で異なる表記が採用される可能性があります。
終章|風はかつて吹いていた場所へと帰っていく 05
ガンベラの主導権が完全に入れ替わる。
銃を海へ捨てさせ、火を大きく焚かせ、川で身体を洗った。
従者のように働き始めた海賊たちの傍らで、カッセルの頭はただ一点へ向かっていた。
——三十日以上も。
その日数が何を意味するのかを、彼だけが正確に理解していた。
バスケスの「英明な計画」
バスケスには、最初から一つの算段があった。
オルテガ海軍へカッセルを引き渡す——それが、彼のいう「英明な計画」だった。
交渉とは、どの立場で席に着くかですべてが決まる。
捜索中の帝国海軍にそのまま見つかれば、自分たちはその場で射殺される。
だからこそ、一度カッセルを人目につかない場所へ隠す。
その後、安全なラ・マンチャ人の船に移ってから海軍と接触し、
命の保証を取り付けたうえで、生きたままのエスカランテ大佐を引き渡して、莫大な報酬を要求する。
それが、バスケスの描いていた筋書きだった。
「もう殴るのは……どうか、おやめください……」
「今、また俺に指図したのか?」
殴られながら、バスケスはふと思った。
——いっそもっと早く帝国軍に見つかり、その場で撃ち殺されていたほうが、よほど楽に死ねたのではないか。
駄目だ。こんなところで死ぬわけにはいかない。せっかく生き延びたのだから。
だが、数発殴れば力尽きると思っていた病人は、信じられないほど元気だった。
やがてバスケスが本当に死にかけた人間のようにぐったりと崩れ落ちると、皮肉にも、そのときになってようやく暴力は止んだ。
——見せしめとしては、このくらいで十分だ。そう判断したかのように。
「目が回る。何か食わせろ」
「この役立たずども! 何をぼさっと突っ立ってやがる!」
さっきまで死にそうだったバスケスが、今度は部下へ怒鳴り散らす。
旦那様が目が回るとおっしゃってるだろう。
食い物を持ってこいと言われてるんだ——その怒号は、島中へ響き渡るほどだった。
カッセルはそんな様子にも、まるで興味を示さない。
暗礁の向こうまで投げろ
バスケスが再び頭領ぶろうがどうでもいいという顔で、
カッセルは近くの海賊を顎で呼び寄せると、散らばった武器をすべて拾わせた。
もちろん、海賊たちが胸にぶら下げている残りの銃も例外ではない。
「そ、それはゲレが命より大事にしてる銃でして……。どうせ今は壊れてますし……」
「あいつが何で殴られて気絶したのか、見ていなかったのか?」
一言で理解した海賊は、慌てて銃を拾い集め始めた。
奇妙なほど物分かりのいい連中だった。
波打ち際まで歩かせると、カッセルは沖を顎で示す。
「ひとつずつ、あそこへ投げろ。あの暗礁の向こうまで投げろ」
「……こ、この重い銃をですか……?」
「重いほど遠くまで飛ぶ。風の影響も受けにくい」
カッセル本人はまったく気づいていなかった。
それが、自分の腕力を基準にした理屈だということに。
「暗礁の手前へ一丁でも落としたら、お前の頭をあの岩に叩きつけて殺す」
荷物持ちの顔から、一瞬で血の気が引いた。
カッセルは「頭」という単語をラ・マンチャ語で知らず、
代わりにもっと物騒な言い回しを使ってしまったらしい。
その脅しが必要以上に凶悪に聞こえていることなど、
本人は露ほども気づいていない。
励ますつもりで背中を軽く叩くと、そのまま焚き火のほうへ戻り、
今度は別の海賊を監視役に指名する。
一丁でも暗礁の手前へ落ちていたら、
今度はお前の頭も一緒に叩きつける——その一言も忘れない。
いつの間にか海賊たちは肉を焼き、森で採った果物まで差し出していた。
その姿は、もはや海賊というより主人に仕える従者だった。
カッセルが差し出された真水で喉を潤し、ようやく夢中になって食事を始めるその背後では、
暗礁まで銃を投げ切れなかった荷物持ちと監視役が、何度も地団駄を踏んだ末、ついには海へ飛び込むという珍妙な光景が繰り広げられていた。
膝をついてその様子を眺める海賊たちは、誰も理由を聞こうとはしなかった。
きっと、気でも狂うしかない事情があったんだろう——と。
火を大きく焚かなければならない
「違う。きれいな水はどこだと聞いている」
「も、もっと必要でしょうか。すぐ汲んでまいります!」
「洗わなければ」
「あ……しかし、それでは傷口が……」
「俺からクソみたいに汚い臭いがする。耐えられん」
『これだから坊ちゃんは困る』——そう言いたげな視線が向けられたが、その目は一瞬で押し潰されるように伏せられた。
ナイフはどこだと問われ、先ほどすべて差し出したと答えかけた海賊は、
身体検査で出てきたら、今度は銃身ではなくナイフで頭を殴ると告げられ、即座にポケットナイフを差し出した。額の血を袖で拭ったせいで、顔半分を真っ赤に染めた男だった。
カッセルはそれを受け取ると、案内しろと言わんばかりに男の背中を押す。
そしてふと思い出したように首だけを巡らせ、残った海賊たちへ命じた。
「薪をもっと伐ってこい。火を大きく焚かなければならない」
「ですが、それでは煙が上がって目立ってしま……あ、目立たなければならないのでしたね……」
救いようのない愚か者を見るような目で一瞥すると、
カッセルはそのまま森へ足を踏み入れた。
木々の下へ入った途端、空気が一変する。
ひんやりと澄んだ空気が満ち、先ほどまで遠くで聞こえていた鳥の声が、
今は頭上から降ってくるように鮮明だった。
薬を焚く臭いに満たされ、霧でもかかったようだった肺へ新鮮な空気が流れ込み、
頭も少しずつ冴え始める。
問題は――イネスだ
「……三十日だと?」
しばらく歩いたあと、カッセルはふと呆れたように呟いた。
実際は三十日よりも、さらに数日ほど経っているかもしれない——自分たちより、ずっと前にガンベラへ流れ着いていたようだったので、と海賊は答える。
三十日。さらに、そこへ数日。
おそらく今頃、自分は戦死者として処理されている。
自ら立てた作戦どおりに事が運んでいるなら、半年に及ぶ遠征はすでに成功を収めたも同然だった。
残るのは行政上の従属手続きだけ。
帰還を待つだけの段階なら、軍の士気低下を気にする必要もない。
自分の生死を公表していないとしても、それは万一にもラ・マンチャ人へ無用な希望を抱かせないため。
その程度の理由に過ぎない。
ラ・マンチャ諸領主の脆い同盟関係も、すでに完全に崩壊しているはずだ。
だが——
カルステラとメンドーサは別だった。
皇帝は、戦時物資を口実に私腹を肥やすことしか考えない男だ。
海軍が帰還する前から、帝国の象徴でもある自分の戦死を世間へ公表することはあるまい。
帰還直前まで搾り取れるものを搾り尽くし、
最後になってようやく、あの男の死をどう利用してやろうか——その程度のことを考えるに違いない。
が、そんなことは、どうでもよかった。
問題は——イネスだ。 イネスが。
冴え渡った頭脳が、かえって軋みを上げる。
まだ戦死通知が届いてさえいないなら……。
それだけが救いだ。
だが現実には、自分が生きていることを彼女へ先に知らせる術はない。
訂正の知らせより、戦死通知の方が先に届くだろう。
それだけは避けられない。
「必ず生きて帰る」
そう約束したのに。
結局、自分はその約束を破ったことになる。
妊娠中の身体は、強い衝撃に耐えられない。
一刻も早く訂正しなければ。
——帰らなければ……。
三十日以上、眠らされていた
モリナだか何だか知らないが、その船がいつガンベラへ着くかも分からないというのに、
メンドーサなど——。
カッセルは無表情のまま、小さく鼻で笑った。
「……だが、なぜ死にもせず、それほど長く眠り続けていた?」
「……あ。もしかすると、ピビザルのせいかもしれません……」
焚き火のところに漂っていた、あのひどい臭い。あれがピビザルだと海賊は言う。
神聖な草とされ、身を清める意味もあり、鎮痛効果も非常に強い。
肩へ塗った薬はシラガラという薬草をすり潰したもので、刃物による傷には必ずこれを使うのだと。
「それで、ピビザルがどうした」
「あ……ですから、おそらく、そのせいでずっと眠り続けておられたのではないかと……。
少々、眠りを誘う効能もございますので——何しろ、刀傷は、動かずよく眠るのが一番治りが早いものですから……」
そこまで話したところで、自分の言葉の矛盾に気づいたのか、海賊の声は次第にしぼんでいった。
生かしてはおきたい。だが、目覚めてほしくはない。
そう望んでいたのだから、当然の処置だった。
カッセルの目つきが変わった。
海賊は全身を震わせ、慌てて川の方角を指さす。
「つまり、モリナの船が来るまで私を眠らせ続けるために——」
「は、はい……その……」
「それで三十日以上も無駄に浪費させたのか? お前が? この私に?」
「め、滅相もございません! バスケスです! すべてバスケス様のご命令でございます!」
「私は身体を洗う。お前は戻って、バスケスを殺してこい」
一緒に死にたいのかと問われた海賊は、必死に弁明を並べ立てる。
バスケスもこれほど長引くとは思っていなかったこと。
こちらにも負傷者がいたこと。
バスケス自身が痛みにとても弱く、片時もあの火を消そうとしなかったこと。
そのせいで皆そろって、うとうとと眠気に襲われていたこと——。
「その程度のザマだから、一ヶ月ぶりに目を覚ました病人一人に、死ぬまで叩きのめされるんだ」
耳が痛いが、もっともな話だった。
瀕死の重傷にもかかわらず常軌を逸した動きを見せたカッセルの一方で、
海賊たちは薬草の煙を吸い続けたせいで、揃いも揃って鈍りきっていたのだから。
「それでも、あの重傷で感染しなかったのは、間違いなくピビザルのおかげでございます。」
その言葉を半ば聞き流しながら、カッセルは衣服を一枚ずつ脱ぎ捨てると、川へ足を踏み入れた。
まるで自分の屋敷の浴場にでも入るような、威風堂々とした後ろ姿だった。
洗濯いたしましょうか、と叫ぶ海賊へ、答えるのも面倒だと言わんばかりに手をひらりと振る。
どうやら「やれ」という意味らしい。
軍服を一枚ずつ拾い集めた海賊は、
自分の不運を呪うようにぼやきながら、とぼとぼと下流へ歩いていった。
水平線に現れた船
しかし、その日の夜。
皮肉にも、バスケスの「利口な計画」は、思いもよらぬ形で一部だけ実現する。
しかも、明白な裏切りの証拠とともに。
水平線に姿を現したのは、モリナの船だけではなかった。
その船を先頭に、五隻のオルテガ海軍の軍艦が後方から続き、
今にもガンベラを薙ぎ払わんばかりの勢いで迫ってきたのである。
本来なら、ムリーリョがモリナの船を率いて迎えに来て、
一行を乗せたうえでオルテガ海軍と交渉するはずだった。
だが、その計画は少しばかり変更されたらしい。
エスカランテ大佐を確保していると偽って、先に海軍と接触したのだ。
自分たちは、この忌々しい島へ長いこと閉じ込められたまま——。
裏切られた怒りに震え、海賊たちは口々に罵声を浴びせ始める。
ガンベラの浜辺は、たちまち怒号に包まれた。
もっとも、彼らがどうなろうと知ったことではない。
カッセルは軍服を整然と身につけ直すと、
静かに乗船の準備を始めた
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