🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、原作をもとに、物語の流れと人物心理を整理しています。会話部分は原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
一夜にして、完璧な他人に戻った男。
適度な礼儀と、表向きの心——かつて彼女の武器だったものを、今度は彼が使う。
——ここまでだ。
それでも彼女は、再会の日と同じドレスを着て食卓に着いた。
彼は、覚えていることすら知らなかった記憶に心を切り裂かれながら、卵を割る。
穏やかな水面のように、平穏に。
空を飛ぶ鳥のように、自由に。
嘘の占いと、本心の占い。
契約は、今日をもって終了する。
残されたのは制服だけ
白い光の中で目を覚ますと、隣は空だった。
まだ六時。浴室から水の音が聞こえてくる。
襟元から覗く胸元とうなじは、彼の痕跡でいっぱいだった。乱れた髪を整え、着替えを済ませたオデットは、朝食の準備を始める前に客室を覗いた。
殺風景な部屋には、すでにトランクが出され、所持品も片付けられている。
残されているのは、クローゼットの扉にかかった制服だけだった。
きらびやかな記章や勲章を撫でる指先が、かすかに震えた。
——このまま海軍省へ帰るのだろう。
この田舎町で過ごした数日が、どれほど夢のような時間だったのか。
だが、もう目を覚ます時だった。
無謀で愚かなことをした。それでも後悔はない。生まれて初めて心からぶつかり、一片の未練も残さなかった。
——それで十分だった。
「まずは食事の準備を」
台所へ戻ってパン生地をこねている途中、ふと昨夜しわになったシャツを思い出す。
オデットは手を止め、再び二階へ向かった。
アイロンの温もり
シャツには、アイロンの温もりがかすかに残っていた。
バスティアンは着替える手を止める。
ズボンの折り目まで、きれいに整えられている。
——オデットが来たのだ。
温かなシャツに腕を通すと、この家で過ごした幸福な時間が、否応なく蘇った。
それでも制服を着終える頃には、揺れていた心を押し込める。
もう未練を断ち切る時だった。
将校帽とトランクを手に階段を下りかけたところで、足が止まった。
階段の下には、濡れた髪のままエプロンをつけたオデットが立っていた。
「もう、出発なさるのですか?
……時間が本当にないというのでなければ、朝食を食べていってください」
断るべきだった。時間を引き延ばすほど、傷が深まるだけだから。
だが愚かな心は、彼女の眼差し一つで、むなしく崩れ去ってしまう。
「ええ、そうしましょう」
——自らの意志に背く答え。
この先の人生も、ずっとこうなのだろう。
礼儀正しい他人
「お茶を淹れましょうか?」
「いえ、コーヒーをお願いします」
丁寧に返し、玄関にトランクを下ろす。その節度ある振る舞いのどこにも、熱烈に彼女を求めていた恋人の面影はなかった。
——ここまでだ。
彼が引いた線を、オデットは淡々と受け入れた。
すでに予定されていた結末だ。今さら驚くことはない。
微笑みを浮かべ、朝食の支度へ戻る。
バスティアンは約束を守ってくれた。おかげできちんと終わらせることができた。
今はその気持ちだけを考えよう。その裏に残った葛藤は、一人で引き受ければいい。
——「適度な礼儀と、表向きの心」
かつてオデットのものだったその武器は、今や彼のものとなっていた。
一夜にして完璧な他人となった男が去っていく。
再会の日のドレス
裏庭で、バスティアンは自分で直した椅子に座り、遠い空を眺めていた。
じっと見つめても、こちらには視線を向けない。
髪一本乱れていないその姿を見ているうちに、オデットの胸に感情が込み上げた。
——こんな終わり方は嫌だ。
けれど、彼が冷たく振る舞う理由も分かる気がした。
ティラを送り出した時、自分も同じだった。
幸せを願うからこそ、無責任な優しさを捨て、悪役になることを選んだ。
——バスティアンも、きっとそうなのだ。
ならば、その配慮を無駄にしたくない。
オデットは二階へ駆け上がり、新しく仕立てたモスリンのドレスと水色のウエストバンドを身につけた。
バスティアンと再会した日に着ていた服だった。
最後まで自分の感情だけに囚われた姿で、彼の記憶に残りたくはない。
その決意を支えに、黄金の櫛を握った。
ベールのような光
時計の針がちょうど八時を指した頃だった。
八時。
焼きたてのパンを運んだオデットが、向かいの席についた。
木漏れ日が、整えられた彼女の姿に降り注ぐ。
——まるで、あの日のベールのようだ。
夏の日、彼のもとへやってきた花嫁。
耳元で小さく光る真珠。
視線を外したバスティアンは、薄いコーヒーを口にした。
レースの敷物。
咲いたばかりのバラ。
ティースプーンに、角砂糖のトング。
どれも見覚えがある。
一緒に買いに行った市場のものだった。
——覚えていることすら知らなかった記憶が、心を切り裂く。
——覚えていることすら知らなかった記憶が、心を切り裂く。
それでも顔を上げると、オデットは柔らかく微笑んでいた。
その変わらぬ品位が、最後まで残っていた心配を静かに消していった。
平穏と自由
「今日の占いはどうでしたか?」
差し出された卵を受け取ったオデットの目が、赤くなる。
良い別れをしたかった。
心からそう願っていた。
——しばらくここにいてください。
そう願った。
——もう来ないでください。
そうも願った。
そして今、その願いが叶おうとしている。涙で滲む卵を見つめながら、オデットはいつものように嘘をついた。
「穏やかな水面ですね。この水面のように、すべての日が平安に過ごせる運勢ですよ」
「そうですか」
バスティアンは、それが本当に叶う未来であるかのように頷いた。
そして今度は、オデットの卵を指す。
「では、私があなたの占いをしましょう」
割れた殻を眺めた彼が告げたのは、鳥の翼。
「空を飛ぶ鳥のように、自由になるでしょう」
今度の占いには、嘘がなかった。
契約の終了
「私たちの契約は、本日をもって終了しました」
穏やかな朝の食卓で、バスティアンは終わりを告げた。
離婚は速やかに進める。理由は夫の心変わりとし、約束していた報酬に加えて、この一年と契約外の負担に対する補償も支払う。
「離婚の手続きは、できるだけ早急に完了させます。公式的な離婚理由は、夫の心変わりということにしましょう。……この三年間の妻としての役割に対する報酬は、最初の約束通りに支払う予定です。一年増えた期間と、契約になかった業務、それによる被害に対する補償額を反映して再計算し、弁護士を通じて通知します」
しかしオデットは拒んだ。先に契約を破り、彼に損害を与えたのは自分なのだから、報酬など望んでいない、と。
「これはあなたのためではなく、俺自身のために下した決断です」
——間もなく軍用車が到着する。
傷も苦痛も、金で償えるものではない。
それでも責任を果たすことで、少しでも心を軽くしたかった。
バスティアンは、押し寄せる感情を抑え込みながら微笑んだ。
「僕は、これから穏やかな水面のように平穏に流れていきます」
グラスの中で、丸くなった氷が崩れた。
「だから、あなたは自由な鳥のように飛び立つことを願っています」
——平穏と、自由。
二人が互いに贈った、最後の占い。
バスティアンは、あの日ベールを払った瞬間から自分を支配し、これからもそうであり続けるだろう美しい女の顔を見つめた。
「この度は、大変お疲れ様でした。どうか幸せに、レディ・オデット」