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🌹 本記事は『泣いてみろ、乞うてもいい』原作をもとに、物語の流れと人物心理を整理しています。会話部分は原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
彼の手に、小さな体を擦り寄せる病んだカナリア。
足首に色糸を結んで、川を渡ってきた渡り鳥。
——だからレイラ、お前も私の元へ戻ってくるべきだ。
春の雨の中、彼は走った。
雑草の生え始めた、あの小屋へ。
ヘルハルト家の傑作
主治医のエトマン博士が、マティアスの健康を診るために出入りしている。
その知らせに、エリーゼ・フォン・ヘルハルトは鋭い声で問い返した。
ちょっとした病気さえせずに育った子が、と焦る嫁に、老奥様は過労だろう、少し休めば良くなると、断固とした口調で懸念を断ち切った。
ビル・レマーとレイラの逃亡は、アルビスに大きな衝撃と混乱をもたらした。
けれど二人の奥様にとっては、むしろ大きな心配事が片付いたことだった。
方法は間違っていたにせよ、レイラがマティアスとの関係を清算してくれたのだから。
マティアスもその件に大きく執着しているようには見えなかった。
一時的な逸脱に過ぎなかったのだと、目前に迫った結婚式だけを考えていた。
少し痩せたのも、新婚旅行の前に片付ける業務が多いせいだろう、あの子のせいではないでしょうね、と問う嫁を、老奥様はまさかと退けた。
その言葉に縋るように、エリーゼは力を込めて頷いた。
よほど深い思いだったのだろうか。
若い頃の愚かな恋ほど、熱烈なものはない。
けれど、他の誰でもないマティアスだ。
その無関心で冷ややかな性質も、貴族的な一面として賞賛されてきた。
それでも時折、どこか少しおかしな所があるのではないかという不安がよぎることがあった。
先代の公爵たちも決して優しい男ではなかったが、マティアスの気質には、彼らとは少し異なるものが感じられた。
ただ、それを問題にするには、彼はあまりにも完璧な子供だった。
——ヘルハルト家の傑作
それ以上に、マティアスに相応しい称賛はなかった。だから彼女は、自分がこの家の生きる栄光と名誉を産んだのだと信じてきた。
そうすれば、腹を痛めて産んだ息子から感じる妙な距離感も、十分に納得できたから。
そんなマティアスが、たかがあの孤児一人のせいで崩れるだなんて。
自分の懸念が情けなくなって、彼女は自嘲した。
本当に、馬鹿げた話だ。
眠りという逃げ場
ゆっくりと目を覚ましたマティアスは、横たわったまま虚空を見つめた。
カーテンを閉めた部屋は薄暗い。夜明けに眠りに就いたのだから、朝はとうに過ぎているはずだった。睡眠薬を飲み始めてから、時間の区別が曖昧になった。
眠れない時は薬を飲み込む。
早い夕方、あるいは夜明け。時には真昼でも。
いつの間にか、眠りは逃げ場になっていた。薬に酔って眠っている間だけは、あの女の記憶に悩まされずに済むから。
もちろん、目を覚ました瞬間に、また元の場所へ戻るだけなのだが。
眠ること以外、何もしたくなかった。
呼んでもいない主治医が頻繁に寝室を出入りするのも、ただ煩わしい。
このままでは睡眠薬はもう処方できないと告げるエトマン博士に、マティアスは少し笑って答えに代えた。
その気になれば、彼は何でも手に入れられる。
睡眠薬くらい、他の医師に処方させれば済むことだ。
明らかに遅くなった動きで起き上がり、体を洗って時計を見ると、正午を過ぎていた。
今日は何か予定があったか。
思い出そうとしても、何も浮かばなかった。
食事を用意するというヘッセンを遮り、コーヒーで十分だと告げてカーテンを開ける。
濃い雲がかかり、世界は一面灰色の光だった。
窓を開けると、湿った風とともに甘い花の香りが押し寄せた。
「今日の午後は特に予定はございません。ごゆっくりお休みください」
そう告げたあとも、ヘッセンは普段と違って執拗だった。
——食事を取らなければ。それとも、エトマン博士を呼ぶか。
濡れた髪を撫で上げて振り返ると、めったに感情を見せない老執事が、心配でいっぱいの目で彼を見つめていた。
それほどひどい姿なのか。そうなのかもしれない。
しかし深く考えるには、ひどく疲れていた。
再び眠りたかった。
この雑念がすべて消え去る頃に、目を覚ませるように。
食事も医師も煩わしい今、望むのはそれだけだった。
あの遅い午後
コーヒーを一口飲み、マティアスはあまりにも静かな鳥籠の前へ近づいた。
部屋中をせわしなく歩き回っていたカナリアは、最近は体を小さく丸めて、巣の中にこもるだけだった。
手を伸ばして、力なく垂れた鳥を包み込み、鳥籠から出す。
間近で見たカナリアには、はっきりと病の色があった。
いつも艶やかだった美しい羽が、目に見えて汚れ、パサパサになっている。
一日に何度も水浴びをして身綺麗にしていた姿が浮かぶと、喉が少し熱くなった。
その時、カナリアが彼の手に、小さく柔らかな体と嘴を擦りつけてきた。
まるで、彼の体温に頼るかのように。
鳥を包み込んだまま、マティアスは長いことその場に佇んでいた。
数え切れないほど繰り返し思い出してきた、あの日の記憶が蘇る。
——『愛してください』
呪いをかける魔女のように、あの女が微笑んだ日。
——『あなたが私を愛してくれたら嬉しいです』
その甘い一言一言が、実は彼の胸に突き刺さる短刀だった、あの遅い午後。
——『とても深く、長く長く』
恐ろしいほど美しかったレイラ。いまいましい私のレイラ。
「飼育係に見せてください」
鳥を慎重に巣に戻しながら、命じる声は熱がこもって掠れていた。
散歩に行くから供は要らないと言い置いて、マティアスは寝室を出た。
だから、もうすべて終わったのか
庭園に差しかかる頃には、雨雲に覆われた空はいっそう暗くなっていた。
それでも気に留めず、足を踏み出す。どこへ向かっているのかは、自分でも分からなかった。
どうせ、それほど重要なことではない。
随分と生意気な真似をしたレイラに呆れて笑いが込み上げた日々が過ぎると、狂おしいほどの怒りが押し寄せた。
今となっては、あのめちゃくちゃな演技に騙された自分の方が驚きだった。
欲望に狂い、目が眩んだのだ。自嘲交じりの怒りは、油を注がれた炎となって彼を呑み込んだ。
けれど今は、それすらも消えた。
むしろ怒りたいのに、胸は驚くほど冷たく静かなままだった。
——だから、もうすべて終わったのか?
自問する間に、川岸に辿り着いた。空が暗いせいで、川の水も濁っている。
立ち止まりたくなくて、流れに沿って歩き続けた。
すべてが終わったのなら、わざわざあの女を探し出す理由もないのではないか?
もしかしたら、良かったのかもしれない。
——分からない。
彼の美しい不幸は消え去り、その余波のわずかな混乱ももう治まった。
あとは再び、揺るぎないヘルハルト公爵の人生に戻ればいい。
そうだ。簡単だった。
すべては結局、これほど簡単でしかなかったのだ。
鳥が戻ってきた
それがおかしくて、フッと笑った瞬間、対岸から鳥が飛んできた。
何気なく目を向けて、マティアスはすぐに悟った。
その鳥の足首に、色糸が結ばれていることに。
レイラ・ルウェリンが、このアルビスで生まれ育った渡り鳥たちに残していた、あの印だった。
鳥が戻ってきた。
レイラが待っていた鳥が、戻ってきたのだ。
それが何だというのか。
ドクンドクンと体を揺さぶるように、胸が激しく高鳴った。
——だから、お前も私の元へ戻ってくるべきだ。
それがあまりにも当然のことに思えた。
すでに現実になっているのではないかとさえ思えた。
作り笑いを辛うじて湛えていた唇が、自然と弧を描く。
正当な判断のできない頭が作り出した妄想だと分かっているのに、止められなかった。
我に返った時、マティアスはすでに走っていた。
柔らかな春の雨が降り始めた森を抜けて、庭師の小屋へ。
物干し綱に干された白いシーツがなびく。
窓からは、暖かな灯りが漏れている。
開いた扉の向こうから、エプロンを着けたレイラがちょこちょこと駆け出してくる。
急いで洗濯物を取り込むその小さな背中で、編み下ろした髪が揺れていた。
——ほらね。戻ってきたじゃないか。
狂ったように笑いたかった。結局、こうなるのだ。
過ぎ去った数週間が、あまりにもくだらなく思えた。
そのすべてが消えた場所
すべての幻影が一瞬で跡形もなく消えたのは、その時だった。
荒い息と混ざり合った笑いが、今にも溢れ出そうとした瞬間。
雑草が生え始めた捨てられた小屋の庭に、独り立っている自分に気づいた、まさにその瞬間。
マティアスは立ち止まり、雨に濡れながら、ゆっくりと周りを見渡した。
レイラが逃げてから、一度もここを訪れていなかった。
確かめたくなかったのだろう。
否定すれば、なかったことになると信じていたのかもしれない。
引き返す代わりに、マティアスは小屋へと向かった。
理由は分からなかった。
もう諦めたいのか、それとも未練を抱きしめたいのか。
どちらにせよ、どうせ無意味なことだった。
軋む低い木の階段を上がり、雨に濡れた手で玄関のドアノブを回す。
鍵のかかっていないドアは、何の抵抗もなく開き、道を空けた。
一瞬閉じていた目を開けて、マティアスは大きく戸口を跨いだ。
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