🌹 本記事は、『この結婚はどうせうまくいかない』原作第7巻・終章をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分や必要な箇所では、原作の表現を引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
※地名・人名について:本作には現時点で原作小説の公式日本語翻訳版がないため、地名・人名などの固有名詞は原文をもとに当サイトで日本語表記しています。今後、公式日本語版で異なる表記が採用される可能性があります。
終章|風はかつて吹いていた場所へと帰っていく 16
イサベラはイネスとの会話を回想する。
なぜカイエターナの憎悪を、アリシアという一点へ集めなければならなかったのか。
その設計を語ったのは、腹に双子を抱えたイネスだった。
飢えた猟犬の頭上に、棒の先から生肉をぶら下げておくようなもの——そう彼女は言った。
一つのものだけに注ぎ込む、盲目的な執着
『皇后様が、すでに死んでしまった皇太子を恨み続けたところで、私どもにとっては何の意味もありません。それよりも、あの方の無情で卑怯な夫と敵対されることは、私どもにとって何の益にもなりません。あの方が理屈を突き詰めながら狂っていくことにも、意味はないのです、イサベラ様』
『ならば?』
『一つのものだけに注ぎ込む、盲目的な執着です。それ以外の世界がどう回ろうと知ったことではない。ただ一つだけを見つめて、ひたすら疾走するように仕向けるのです』
イネスは静かに続けた。
『たとえるなら、飢えた猟犬の頭上に、長い棒の先から生肉をぶら下げておくようなものです』
『つまり、いくら追って走っても……』
『はい。犬はそれだけを見て、死に物狂いで走り続けます。けれど、その口先が肉に届くことは決してありません』
腹が減るほど、さらに速く走る。 走れば走るほど、さらに飢える。苦痛に喘ぎ、息も絶え絶えになりながら、それでも頭にあるのはただ一つ。
——あの肉を喰らってやる。
『カイエターナ様も同じです。憎悪を解き放てば解き放つほど、さらに大きな憎悪に呑まれていく。やがて、周囲で何が起きていようと気にも留めなくなるでしょう』
『たとえ最後までその憎しみが晴れなくとも、
自分が憎み、苛み、壊すことのできる何かがあるのなら——』
イネスの声はどこまでも平穏だった。
『これからどんなことが起きようとも、耐えてくださるはずです』
例えば
「例えば——」
ずっと昔に始末したと思っていた、卑しい侍女の息子が現れたとしても。
そして、本来なら己の息子が享受するはずだった、あらゆる栄光を奪い去ったとしても。
イサベラは、あの日のイネスの静かな声を思い返しながら、今もなお憎悪を繰り返すカイエターナに、ただひたすら同調していた。
『あの私生児を、ご自身の手で息子として迎え入れる——そのような屈辱の中でも生きていけるように。そして結局は、それこそが自分にとって合理的な選択だったのだと、自らを慰めながら生きていけるように、どうか、カイエターナ様にご配慮なさってください』
(配慮、ね)
『私が直接あの方のお相手をするのは、胎内の子供たちに良くないから嫌だと申し上げましたから……どう考えても、初めからイサベラ様の方が適任です』
そしてイネスは、さりげなく付け加えた。
『少しくらいは、あの方にお返しして差し上げたい借りもおありでしょう?』
(そんなこと、今となってはどうでもいいわ。もう過ぎ去った歳月だもの。あの方がこれまで私にしてきたことなど、何の意味もない。ただ……)
イネスはさらに続けた。
『公爵閣下には、このまま姉妹君を見捨てていただくのが賢明でしょう。もちろん、フアン様の健康のためにもその方がいい』
そしてカイエターナに、こう思わせる。
唯一の兄弟であるフアンさえ、自分は不運にも失ってしまった。 自分にはもう、何ひとつ残っていないのだと。
『皇后様がそう思えば思うほど、あの方に対するイサベラ様の支配力は、さらに強くなるでしょう』
『そうして、生きることそのものがあまりにも屈辱的になった頃——』
かつて葬り去ったはずの者が皇太子となり、やがて皇帝となる。 その姿を目の当たりにしたなら。
『この人生は、一体どこから狂ってしまったのか。皇后様はもう一度、その始まりを辿ろうとなさるでしょう』
そして、再び辿り着く。
バルカの娘へ。
『どれほど時間が流れても消えることのない憎悪を抱いて。そうしてずっと、二人のうちどちらか一方が死ぬまで、それを繰り返すのです……』
……死ぬまで。
『ただ、ときどき人間が撫でてやれば、その手を喜ぶでしょう』
イネスは平然と言った。
『犬には、自分を飢えさせたのが誰なのかまでは分かりませんから』
(……イネス、本当にあなたって子は)
『子供を二人も身ごもった女が考えるようなことではないでしょうか?』
まるで自分でも分かっているというように、イネスは続けた。
私たちは、無垢なるエスカランテです
『ですが、私たちは”何も”しないではありませんか、イサベラ様』
『私たちは、無垢なるエスカランテです』
ただ、彼女たちが自らを壊していく様を見守っていればいい。
『生涯かけても成し遂げられないものに縋って生きることほど、虚しいこともないではありませんか。まして、それが自分の人生において何の価値もないものであれば、なおさらです』
『いまや皇后様に残されたお仕事は、それだけですわ』
イネスは淡々と続けた。
『そうしてエスカランテの皇后として、あの場所を守ってくださればよいのです』
私なら、首を吊られて死ぬ方を選びますわ
——『だが、アリシア・バルカはどうするのだ』
イサベラには、それだけが腑に落ちなかった。
『あの悪辣な女があなたにしてきたことは、すべてどうする? カイエターナのことも、それ以外のことも、今となってはどうでもいいわ。だが、あのバルカの娘だけは……』
皇太子さえ、あれほど凄惨な死を遂げた。 それなのにアリシア・バルカが、いまだ無事に生きている。 それが、イサベラにはどうしても許せなかった。
『あの女を今すぐ絞首台に吊るさなければ、到底気が済まない……』
『さあ、どうでしょう』
イネスは静かに問い返した。
『今ごろ彼女が、本当に”無事”でいるとお思いですか?』
『私の考えは少し違いますけれど、イサベラ様』
あの日のイネスの微笑みには、揺るぎない確信だけがあった。
『私なら、首を吊られて死ぬ方を選びますわ』
『棒の先に吊るされた肉塊として一生を生きることが、絞首刑よりましだとは思えませんもの』
そして、わずかに言葉を継いだ。
『もちろん——それも、自分で選べるのなら、のお話ですけれど』
『肉塊には普通、選択権などありませんものね』
(……貴方は。まさか、カイエターナが……)
イサベラがようやくその意味に思い至ったとき、イネスはすでにその先まで見ていた。
『あのようなお方は、いつだってイサベラ様が想像なさる以上のことをやってのけますわ』
『私にできる復讐などより、はるかに酷いことをなさるでしょう』
カイエターナが、生涯決して飲み込むことのできない肉塊だけを追い続けるのなら。 アリシア・バルカもまた飢えた猟犬に、生涯追われ続ける。
一歩たりとも逃げ出すこともできず。 死にたくとも、死ぬことさえできないまま。
『私がすることといえば、その棒を——あの方の目にいつまでも見えるよう、より強固に取り付けて差し上げることだけでしょう』
イネスは平然と言った。
『アリシアは、狩猟犬が噛みちぎる玩具として置いておく方がましですわ。その方がより苦痛で、より役にも立つのですから』
私はただ、エスカランテと幸せでいたいのです
『彼女たちがそうして生涯を無駄にしている間、私はただ、エスカランテと幸せでいたいのです』
そして静かに付け加えた。
『イサベラ様が、フアン様が、幸せであることを願っています』
なんと言おうと、カイエターナはフアンのたった一人の姉妹だった。 だからこそ、フアンの前では直接交わすことのできなかった言葉でもある。
けれど、そのフアン自身も以前、アリシアはカイエターナの手に委ねておく方が適切だろうと口にしたことがあった。 まるでイネスと、よく似た考え方をするかのように。
イサベラは、膨らんだ腹を抱えながら相変わらず義父と賭け事に興じるイネスと、二人もの孫を身ごもった嫁を何としてでも打ち負かそうとする夫の姿を思い浮かべた。
今のイサベラを、なお笑わせることのできる数少ない光景だった。
奇妙なことに、イネスが知恵を巡らせるとき、その思考の筋道はフアンとよく似ている。
ときには本当の父と娘なのではないかと思えるほどだった。
——『似たような考え方をするからこそ、より年を重ね、年季の入ったわしには勝てんのだ』
フアンはそんなことを言いながら、内心では随分と満足そうにしていた。
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