手放す愛04|189話 刹那の光 ─ 消えた奇跡と、飲み込まれた本心

バスティアン|手放す愛04|189話 刹那の光 ─ 消えた奇跡と、飲み込まれた本心 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、原作をもとに、物語の流れと人物心理を整理しています。会話部分は原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。

闇が闇であると知らずに生きてきた日々に、光が差した。
そして、その光は暮れていった。

——刹那の光が、人生を揺さぶった。

犬にだけ打ち明ける「お母さんになれるみたい」という小さな声。
星空の下で心に決めた、一人で産み育てる決意。

けれど、その夜にはもう一つの染みが待っていた。

一方、夏の終わりの北海では、デメル提督がバスティアンの胸の内を見抜いていた。

——なぜ人生に何の未練もない人間のように戦っているのだ?

インクの染み

便箋の上を動いていたペン先の音が、止まった。

盛りを過ぎた夏の夜は、草むらの虫の声で満ちている。
変わりゆく季節の音に耳を傾けているうちに、ペン先のインクがぽたりと落ちた。

——よりによって、赤ん坊の知らせを伝える文章の上に。

慌てて手で拭ったが、努力するほど、染みはどんどん広がっていく。
遅れて吸い取り紙を持ってきても、無駄だった。手紙はすでに、取り返しがつかないほど汚れてしまっていた。

深いため息をついて席を立ち、インクのついた手を丁寧に洗う。
ざわつく心を落ち着かせるために階下へ降りると、眠りから覚めたマルグレーテが影のようについてきた。

その愛らしい足音が、オデットを笑顔にする。

「ありがとう、メグ」

静かに挨拶をすると、マルグレーテは答えるように吠えた。
それが嬉しくて、とりとめのない話をぽつぽつと続ける。

猛暑が終わって訪れた涼しい気候。
最近の戦況と、バスティアンの安否。
そして——もう一つの奇跡まで。

「私も、お母さんになれるみたい」

聞いているのは一匹の犬だけなのに、声は自然と小さくなった。
照れくさそうに微笑み、台所で湯を沸かす。

——いくら考えても、かつて子供を身ごもっていた時と同じ症状だった。
数日間悩み続けた末に、ようやく受け入れた可能性だった。

ちょうどその時、お湯が沸いた。

たった一夜の奇跡

砂糖漬けのリンゴを入れたお茶を一杯。
マルグレーテのためには、細かく切ったリンゴを。

お盆を持って裏庭に出ると、柔らかな風が体を包んだ。
星がいっぱいの夜空の下、マルグレーテがシャリシャリとリンゴを食べる音が、虫の歌と調和して響く。

——やはり、バスティアンには知らせない方がいいだろうか?

台無しにしてしまった手紙を思い出すと、再び心が揺れた。
彼は、このような不測の事態が起こらないことをはっきりと望んでいた。

自分から求めた以上、予期せぬ結果の責任は自分にある。
今になって心の重荷を背負わせるのは不当だし、こういう結果を望んでいたのだと誤解されるかもしれない——あえて想像さえしなかったのに。

途方に暮れた眼差しで、お腹を見下ろす。

——再び子供を授かるのは難しいかもしれない。

そう診断された日に、すべての希望を捨てた。無駄な期待を抱けば、挫折することになる。
その苦痛と傷にまで耐える自信がなかった。

ところが、たった一夜で、このような奇跡が起こり得るのだろうか?

信じられなかったけれど、嬉しかった。その一方で心配でもあった。
今なら遠くへ離れて一人で育てる余裕はある。

だがそれが正しい選択なのか、確信は持てなかった。

視線が届くあらゆる場所に

暗闇をさまよっていた視線が、バスティアンの直したポンプの上で止まった。

おかげで水を汲むのがずいぶん楽になった。
汲むたびにあの男を思い出して困惑することもあったけれど。

直してくれたテーブルと椅子も同じだ。
毎日ここに座るたび、必然的に彼のことを考えてしまう。

——いや、それだけだったか……?

目を上げて、月明かりの中に立つ家を見つめる。

——視線が届くあらゆる場所に、バスティアンがいる。

一週間にも満たない時間が残した記憶が、いまだ鮮明に残っていた。
この村を離れられずにいる理由は、もしかしたら、そのせいかもしれない。

そう気づくと、必死に目を背けてきたもう一つの事実が見えた。

オデットは、寂しかった。

バスティアンと別れた日から、ずっとそうだった。ただ元の生活に戻っただけなのに、ありふれた日常が限りなく虚しくなった。

実は、生きている間ずっと寂しかったのだと、今ならわかる気がした。
常にそうだったから、それに気づかなかったのだと。

闇が闇であると知らずに生きてきた日々に、光が差した。
そして、その光は暮れていった。

今や、闇を知らなかった頃には戻れないオデットを、闇の中に残したまま。

——刹那の光が、人生を揺さぶった。

赤い染み

それでも、絶望の中で見つけた希望があった。

妊娠が確実なら、一人で静かに産み、育てるつもりだ。
子供を口実にバスティアンを困らせはしない。だが、せめて存在だけは知らせたかった。

捨てられたリボンを拾って大切にしてくれた頃の気持ちは、時間とともに流れていってしまったとしても、互いに許し合い、良い別れをしたという事実は変わらないのだから。

その答えを探していたオデットの心に、ふと別の疑念がよぎった。

「まさか」

すでにうっすらと察していた事実を、必死で否定する。
だが、否定すればするほど、心は一層惨めになっていった。

震える唇にぐっと力を込め、ゆっくりと顔を向ける。
白い座布団に残った赤い染みが、刺さるように目に飛び込んできた。

パジャマの裾にも、同じ染みがついていた。

——それは、生理の始まりを知らせる血痕だった。

「なぜ、未練のない人間のように戦うのだ」

北海の短い夏が終わりを告げる夜。

暗号解読表を手に入れた功績で、将兵たちには一日の特別休暇が与えられた。

折しも手紙を運ぶ輸送船が到着し、基地は祝いの空気に包まれていた。
だが、その賑わいはバスティアンには無縁だった。

久しぶりに戻った陸地で休みたいだけだったが、総司令官は功績を上げた英雄を称える場を設けた。

式典は簡素に済んだものの、デメル提督と二人きりの時間が予想以上に長引いていた。

「降伏して退却していた艦艇が拿捕される屈辱を味わったのだ。シェアーは歯ぎしりしているだろうな。燃え盛っている君への復讐心に油を注いだようなものだ」

「覚悟しています」

「もちろん、君はうまくやってのけるだろう。私が心配しているのは、まさにその点だ」

重いため息とともに、提督は椅子の背もたれに体を預けた。

「クラウヴィッツ少佐。生きて帰らなければならないのではないか」

「必ずそうします」

ためらいのない返答。いつものように超然とした顔だった。

「本心からか?」

「もちろん」

「だが、なぜ人生に何の未練もない人間のように戦っているのだ?」

バスティアンを見つめる眼差しが、闇に沈んだ海のように深くなる。

「そんなことはありません。私は……」

「士官候補生の制服を着たばかりの青二才の頃から、君を見てきた。いつの間にかその歳月も、すでに10年をはるかに超えている」

豪快な笑いが反論を遮った。
だが、注視する眼差しは猛禽類のように鋭いままだった。

「私を騙そうなどと思うな。いくら人の心は分からないとはいえ、まさか私が君の戦術を読み取れないとでも思っているのか?」

「申し訳ありません」

「私が今聞きたいのは、そんな分かりきった謝罪ではないことは、君もよく分かっているはずだ」

——バスティアン・クラウヴィッツは、この戦場から生きて帰る気がない。

一ヶ月間見守って下した結論だった。全てを捧げて壮絶に散華する勢い。
祖国の安泰を思えば喜ぶべきことだったが、デメル提督は結局、個人的な感情の前に屈服した。

命が行き交う場所で悟った愛

「息子のように思っていると言ったら嘘になる。この世に、死地の最前線に息子の背中を押す父親がどこにいようか?だがな、クラウヴィッツ少佐。いや、バスティアン」

空のグラスを置き、厳かでありながら慈愛に満ちた眼差しの中に彼を映す。

「それでも、私は君をとても大切に思っている。私の命を預けられる副官であり、素晴らしい飲み友達だ。私ももう歳をとった。この人生が尽きるまでに、君のような人間にはもう二度と会えないだろう。——だからバスティアン、どうか自分を大切にし、いたわるように。それが私に対する忠誠であり、祖国に対する献身なのだから」

包み隠さず本心を打ち明けた老提督は、死地から無事に帰還したバスティアンを見るたびに感じていた喜びと悲しみの正体が、今ようやく分かった気がした。

——命が行き交う場所で悟った愛か……。

人間とは、本当に愚かな存在だった。

深い沈黙の中で、バスティアンは相変わらず何を考えているか分からない顔をしていたが、少なくとも形式的な返答を繰り返していた時よりは、人間らしく見えた。

「離婚を一度したからといって、人生が台無しになるわけじゃない。気にするな。ライエン提督など、二度も妻を替えて総司令官にまでなったではないか」

たわいもない冗談で場を和ませると、提督は再びグラスに酒を注いだ。

「さあ、毒気が回ったシェアーを相手にする前に、最後の祝杯を上げようじゃないか」

「レイヴァエル号の無事なる帰還のために!」

力強い音頭が、温かい光に染み渡る。
バスティアンは、かすかな微笑みを浮かべたまま、祝福のグラスを飲み干した。

——酒とともに飲み込んだはずの本心が、思わずこぼれたのは、席を立とうとした時だった。

「ありがとうございます」

深く頭を下げる。

「私にくださったお気持ち、忘れません」

「死期が迫った老人みたいなことばかり言うなら、早く帰ってしまえ」

ひらひらと手を振って笑う提督に、もう一度挨拶をして部屋を出る。
遠ざかっていく規則正しい足音が、暮れゆく夏の風に乗って響き始めた。

ロスバインを去る日

最後のトランクを積み込むと、出発の準備が整った。

マルグレーテと子犬たちを後部座席に乗せたオデットは、踵を返して、二つの季節を共にした大切な家を見つめた。

ラッツに戻ると伝えてから、わずか一日で、トリエ伯爵夫人の車が到着した。
追われるように去ることになったが、これ以上の未練はなかった。

あの恥ずべき妄想から覚めた夜に、心はすべて整理した。
悲惨な記憶と一日でも早く決別できることを、むしろ幸いだと思った。

「先生!」

背後から子供の声が聞こえた。

オデットは家から視線を外し、車に乗り込んだ。
子犬たちと遊んでいたアルマが、明るい笑顔で迎えてくれる。

二台の車は列をなして、小川沿いの石造りの家を離れていった。

村を抜けるまで、オデットは帽子を脱がなかった。

——ベールの影の下に隠された目は、あの夜のように赤く濡れていた。

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