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🌹 本記事は『泣いてみろ、乞うてもいい』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。本文中の会話・心理描写・印象的な表現については、原作の表現を適宜引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
女中ですか
マティアスは、最初にレイラを見た。
次にクロディーヌを、続いてエトマン父子を、ゆっくりと見ていく。
状況を把握するには、それで十分だった。
「お早いお帰りですね、ヘルハルト公。」
すぐに微笑みを取り戻したクロディーヌが、
氷の上のような沈黙を破った。
「ええ、令嬢。仕事が予定より早く片付きましたので。」
マティアスはゆったりと応接室を横切り、クロディーヌと向き合って立った。
その傍にいたレイラは、怯むように後ずさり、窓際まで退いた。
「令嬢のお客様のようですね。」
窓の影に閉じ込められたように立つレイラを見つめ、
マティアスはのんびりと尋ねた。
「……いいえ。」
少し考え、クロディーヌは暴かれる嘘の代わりに、真実を選ぶことにした。
「私付きの女中が手をひどく怪我してしまって。
レイラが数日、その役を代わってくれていたのです。本当にありがたいことですわ。」
一言ひと言続けるうち、クロディーヌの頭は落ち着いていった。
——むしろ、良かったのかもしれない。
婚約者の前で、公爵が愛人にどう接するのかを試せる機会なのだから。
「ああ。女中ですか……。」
レイラをゆっくり見渡し、
マティアスは何の感情もない顔で婚約者の傍らに立った。
クロディーヌは自然に彼の腕へ腕を絡め、威厳を保つ。
「では、令嬢のお客様はエトマン父子ですか。」
途方もない混乱に陥っている博士とカイルを、マティアスは目線で示した。
「ええ。私のお客様はこの方々です。」
躊躇なく答えるクロディーヌの声は、ただ明るく陽気なだけだった。
「久しぶりに皆でお茶をと思っていたのです。あ!そういえば……」
今になってレイラとカイルの気まずい関係を思い出したように、クロディーヌは困り顔を作った。
「ごめんなさい。うっかりして、大きな失礼をしてしまいましたわね。」
「……いいえ、ブラント令嬢。」
努めて柔らかく答えたが、エトマン博士の顔は既にこわばっていた。
「それではお客様と、お茶をということですね。」
この滑稽な取り合わせがまるで異常でないかのように、マティアスは平然としていた。
予想外の反応に、クロディーヌの瞳も小さく揺れた。
レイラ、君も行こう
「我々はもう、帰らせていただきます。」
深く息を吸っては吐いていたカイルが、冷ややかに言った。
「次に往診すべき患者がいることを、うっかり忘れていました。そうですよね、父さん?」
「ああ。そうだ、カイル。そうだったな。」
エトマン博士は急いで息子に調子を合わせた。
深く頭を垂れるレイラを見る眼差しには、隠しきれない憐憫が滲んでいた。
「残念ですね。では次回、改めて正式にご招待します。」
「はい、公爵様。では、我々はこれで。」
あの哀れな子のためにも、一刻も早くこの場を離れた方がいい。
博士は急いで挨拶を済ませ、踵を返した。
しかしカイルは、その場に立ち止まったまま、レイラを見つめていた。
「レイラ、君も行こう!」
力を込めて吐き出した言葉が、応接室に鳴り響いた。
「君は女中じゃないだろう。なぜここで、女中の真似事をしているんだ!」
怒りを隠さない息子の見慣れぬ姿に戸惑い、博士は口を閉ざして嘆息するだけだった。
皆の注目がカイルに集まるその瞬間も、マティアスの両目はひたすらレイラだけを見ていた。
状況がとっさに飲み込めない顔でまばたきしていたレイラは、
やがて切羽詰まった眼差しでカイルを見つめた。
すがりつくように、哀願するように。
この世にただ一人、カイル・エトマンしかいないかのように。
「エトマン家の方は、行ってエトマン家の仕事をなさってください。
アルビスのことは、主人である私が引き受けますので。」
淡々とした命令が、カイルの一喝を打ち消した。
レイラを連れて行くまでは動かないという勢いで踏みとどまっていたカイルも、
結局は我を通せなかった。
困惑する父と、「お願い」と震える唇で哀願するレイラを、どうしても見捨てられなかったせいだ。
抑えきれぬ怒りに乱暴に顔を拭い、カイルは振り返った。
荒々しい足音を残す息子を、博士も慌てて追っていく。
あの子は来ないよ、レイラ
ドアの前でまごつく従者たちも、マティアスは目配せで下がらせた。
いま応接室に残ったのは、レイラとクロディーヌ、そして彼だけだった。
「それでは、お茶は二人で飲まねばなりませんね。」
何ごともないようにクロディーヌをエスコートし、
マティアスはティーテーブルへ近づく。
引かれた椅子に座るクロディーヌの顔は、今や目立つほど青白かった。
自分の席に着く前、マティアスは窓辺に突っ立ったままのレイラを見た。
カイルが去った場所を見つめる大きな瞳に、悲しみが溢れている。
——『あの子は来ないよ、レイラ』
囁きたくなるその言葉の代わりに、マティアスは微笑んだ。
ちょうど視線を向けたレイラは、そんな彼を睨みつけて唇を噛んだ。
美しい瞳が、今や鋭い怒りできらめいていた。
マティアスの気分は、一段と良くなった。
むしろ、荒れ狂った方が良かった
「まもなく、お出かけの奥様たちがお戻りになるでしょう。」
先に自尊心を折ったのは、結局クロディーヌだった。
いつまでも終わらないのではと思えるほど続く、
この平然としたティータイムに、もう耐えられなかった。
「私も晩餐の支度をしなければ。公もそうなさるのでは?」
「私は残りを飲み終えますので、令嬢は先に立たれて構いませんよ。」
「ええ。それでは、お先に失礼いたします。」
降伏するように、クロディーヌは席を立った。
ゆったりと脚を組み、茶を飲むマティアスは、今やゾッとするほどに見えた。
「晩餐に出る支度には、女中が要りますね、令嬢。」
冷めた茶を一口含み、マティアスは首を巡らせてレイラを見た。
二人の時間が続く間じゅう、罰を受けるように窓際に立ち尽くしていた、その女を。
「あえて、そこまでは要らないかと存じますが。」
レイラとマティアスを順に見て、
クロディーヌは彼女らしくないぎこちない笑みを浮かべた。
ヘルハルト公爵は、明らかに最善の振る舞いをした。
衆目の中で婚約者の体面を保ち、愛人は影のように扱って品位を守った。
これ以上なく理想的な姿。
クロディーヌが望んだまさにその姿なのに、息が詰まり、鳥肌が立った。
——むしろ、マティアスが怒って荒れ狂った方が、はるかに良かったかもしれない。
「お疲れ様、レイラ。」
去り際、クロディーヌはレイラを労うことで、最後の自尊心を保った。
目配せひとつで、待機していた女中が近づき、レイラの手に金を握らせる。
マティアスは、その光景すら眉一つ動かさず見守っていた。
別邸で待て
クロディーヌと女中が去ると、応接室の静寂は一層深まった。
レイラは、すべての感情を消し去った人のように、静かにその場に留まった。
金を握った手が細かく震えていなければ、人形と言っても良いほどだった。
血の気が失せたせいか、目元と唇だけが一層赤く見えた。
いまにも砕けそうなほど握り締めていた茶碗をソーサーへ置き、マティアスは席を立った。
「別邸で待て。」
レイラの前に立ち、彼は命じた。
「来ないのなら私が行く。どちらか、好きな方を選べ。」
答えも、気配もないレイラへ、一層低い声で囁く。
レイラは、依然として彼を見なかった。
ただ、金を握った手の震えが、少し大きくなっただけだった。
レイラを残し、マティアスもゆったりと応接室を去った。
寝室ではなく書斎へ向かった彼は、鈴を鳴らしてヘッセンを呼び入れた。
「エトマン博士を、もう一度呼んでください。」
予期せぬ命令に、ヘッセンの目が見開かれた。
「しかし旦那様、エトマン博士は確かに今日の午後、往診に……」
「アルビスに重大な患者がいるので、面倒でももう一度足を運んでほしいと伝えてくれ。」
言葉を遮り、マティアスは抑揚のない声でそっけなく命じた。
「はい、旦那様。」
これから起きる事態が案じられたが、
ヘッセンにできる答えはそれだけだった。
その女中を呼んでください
ドレスを着替えたクロディーヌが応接室へ戻ると、
外出から帰った貴婦人と紳士たちが、マティアスとレイラの去った場所を埋めていた。
お喋りに夢中だった彼女たちは、
軽やかに近づくクロディーヌを見て、大げさな感嘆を次々と上げる。
「本当に綺麗だわ、クロディーヌ。」
「背が高くて体形も美しいから、どんな服でも似合うのよね。」
意地悪く笑う視線が、ソファの端に座るリエットへ向かう。
恥ずかしげに謙遜していたクロディーヌの眼差しも、そこで止まった。
社交クラブへ出ていたリエットが、戻ってきていた。
その事実だけで、クロディーヌの気分はずいぶん軽くなった。
——そうね。そんなに悪いことばかりでもないのかもしれない。
レイラは分際をわきまえて従順に振る舞い、
マティアスも愛人を愛人として扱う姿を見せてくれたのだから。
晩餐前の歓談で活気づいていた応接室の空気が一変したのは、
マティアスが入ってきた瞬間だった。
呆れたことに、彼は数時間前に訪れたばかりの主治医を伴っていた。
「エトマン博士!私たち、確かに今日の午後に会ったではありませんか?」
カタリーナ・フォン・ヘルハルトが、驚きを隠せず尋ねる。
「アルビスに重大な患者がいるとの報せを聞き、再度伺いました、奥方様。」
「重大な患者?いったい、誰が病気だというのです?」
顔を見合わせる貴婦人や紳士たちは、皆が戸惑っていた。
ただ一人、クロディーヌだけが真っ青な顔でマティアスを見つめる。
——まさか。
ドレスの裾を強く握り、捩じりながら、クロディーヌは祈るように繰り返した。
——まさか、この男が、そんなことをするはずが。
しかしマティアスは何ごともないように微笑み、その願いを打ち砕いた。
「その女中を呼んでください、令嬢。」
「女中……とは?」
「ひどく怪我をした、令嬢のあの女中のことですよ。」
その言葉に、人々の目が一斉に見開かれた。
「まあ、マティアス!今、ただの……」
「女中の傷を診るために、エトマン博士を再び呼んだというの?」
「ブラント令嬢が、ずいぶん大切にしている女中だと承知しております、母上。」
顔を顰める母の前でも、マティアスは冷静だった。
「その女中が大きな怪我で手も使えないのですから、
令嬢の心も穏やかではないでしょう。そうですよね、令嬢?」
「そうですけれど……ここまで気に懸けていただく必要は、ございませんわ、ヘルハルト公。」
「いいえ。令嬢にとって格別な女中ですから、丁重に治療すべきです。」
クロディーヌが何か答える前に、
マティアスはドアの前に控える従僕たちへ命じた。
「ブラント令嬢の女中を連れてきなさい。今すぐ、ここへ。」
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