泥の中の愛⑯|124話 逆さに持った刃 ─ 傷つけるほど、傷つくのは

バスティアン|泥の中の愛⑯|124話 逆さに持った刃 ─ 傷つけるほど、傷つくのは 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作124話をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。
会話部分は原作の表現を引用しています。

——あの日
昼が最も長かった六月の日。

ベールの影の下で、オデットは決めていた。
決して傷つかない、と。

——だが、痛かった
息が詰まるほどに。

夏至の太陽に似た男

オデットは、慣れ親しんだ夢の残像の中で目を覚ました。

ベールをかぶり、六月の陽光の中を歩く夢。
道の先に、夏至の太陽に似た男が現れると、彼女はいつも決心する。

決して傷つかないと。

繊細なレースの影の下で、首をまっすぐ立て、息を整えながら。


ため息とともに身を起こすと、
隣には酒に酔って眠るバスティアンがいた。

夢の最後に見た男と、同じ顔がそこにあった。
暗闇の中でも、その存在は胸を鋭く刺した。

ソファへ移ろうと立ち上がったオデットは、ふいに足を止める。

窓の向こうでは、遊園地の観覧車が、冷たい夜を静かに照らしていた。

もし、あの光が味方だったなら

夢のような光を見つめながら、
オデットの胸に、一日中押し殺してきた思いがよみがえった。

もし、あの日ティラの頼みを断っていたら。
父と妹の対立はあれほど深まらず、二年間の契約結婚もなかったはずだ。

そうすれば、バスティアン・クラウヴィッツの名は、
かつて縁談のあった素敵な男性として記憶に残っていただけだろう。

本に挟んだ押し花のように、
みすぼらしい人生を彩る、小さな思い出として。

だが、その願いは叶わなかった。

優しかったあの日のバスティアンになら、出征の知らせを正直に尋ねられたかもしれない。

「君は私の人生と無関係な、二年間の雇用人にすぎない」

——そう突き放されることを恐れさえしなければ。

本心を語り合い、彼を信じられていたのかもしれない。

だが、それもまた許されなかった。

結局、心がたどり着くのは、
この二年間、棘のように刺さり続けた問いだった。

滲む視線をバスティアンへ向けると、
いつの間にか目を覚ました彼が、静かにこちらを見つめていた。

月明かりの中で、二人の視線が静かに重なった。

水のグラスと、札束

「一人になった気分はどうですか、レディ・オデット?」

先に沈黙を破ったバスティアンが、緩慢な動作で身を起こした。
ひどく酔っているらしい。

オデットは答えの代わりに、水を一杯差し出した。

「何の目的だ」

「ひどく酔っていますね」

バスティアンは「わかっている」とあっさり認めた。
その素直さに、かえってオデットは当惑した。

「ああ、そうか。僕の高貴な奥様がお好きな金を差し上げないとね」

グラスを飲み干し、鼻で笑ってベッドを出たバスティアンは、コートから財布を取り出した。

頬が熱くなった。
だが、差し出される金を断る理由はない。

旅費の足しになるのだから、むしろありがたい——そう考えることにした。

だが彼は、片手いっぱいの札束を握ったまま、
ただ見下ろして立っているだけだった。

時が止まったような静寂は、時を告げる鐘の音が遠く響くまで続いた。
月明かりが、金を握る手を冷たく照らしていた。

オデットは落ち着いた足取りで歩み寄り、丁寧に手を差し出した。

「ください。ありがたくいただきます」

刺激すべきでないとわかっていた。
だが、もう無視できないほど膨れ上がった胸の痛みが、彼女を無謀にさせていた。

本心さえ見せなければ、
この男は決して自分を傷つけられない。

ずっと、そう信じてきた。

——なのに、痛かった。

息が詰まるほど苦しくて、耐えられなかった。

逆さに持った刃

「あなたはいつもこうだな」

歪んだ笑みで、バスティアンは立ち上がった。

呆れ果てて、怒りさえ湧かない。
泣き出しそうな顔で稚拙な挑発をするオデットが、ただ滑稽だった。

わかっていながら、決まって巻き込まれる自分も。

よりによって、この女を妻に選んだ自分を彼は呪った。

英雄への下賜品と称して厄介な荷を押し付けた皇帝の偽善を軽蔑し、
賭博場で望まぬ勝利をもたらしたディセン公爵を憎んだ。

だが、すべて無駄なあがきだった。

気づけば、また同じ場所をぐるぐると回っている。

欺かれた愛の残骸の中で。
まるで、首輪につながれて主人を待つ犬のように。

「計算はきっちりとしてください」

オデットは手を伸ばし、彼の手の中の札の端を掴んだ。
まるで、金欲しさに施した親切にすぎないと宣言するように。

バスティアンは乾いた失笑を漏らし、手のひらで顔を覆った。

この女を傷つけようとする努力は、まるで逆さに持った刃だった。
力いっぱい振り回すほど、かえって自分が斬られる。

——どれだけぶつかれば、君は壊れるのか。
——壊れた君の中から、僕が探したいのものは何なのか。

握りつぶす手の甲に、青い血管が浮く。

涙をあふれんばかりに湛えながら、
それでも泣かないオデット。

その姿に、彼の激情がついに歪んだ。

白鳥のように

ズタズタに破いた金を暖炉の炎へ投げ捨て、バスティアンは窓辺で乱れた息を整えた。
闇の向こうでは、この忌々しい女が愛する観覧車の光が、瞬いている。

息が詰まって振り返った彼は、ついに声を立てて笑った。
身をかがめたオデットが、暖炉の前に落ちた札の破片を拾っていたのだ。

一羽の白鳥のように気高いその姿に、舞踏会の夜が重なる。

舞踏会で、砕け散った宝石を拾い集めていたオデット。
あの姿を見て皇女が狂乱した理由を、今になってようやく理解した。

レディ・オデットは、相手を限りなく卑しく見せる才能を持つ女だった。
あの日、皇女を嘲笑った自分の姿が浮かび、自嘲が濃くなる。

もう使えない金だということなど、どうでもよかった。
なぜ自分がそこまで意地になるのか、オデット自身にもわからない。

そのことが、たまらなく悲しくなった瞬間——

体が、ふわりと持ち上げられた。

いっそ泣け

気づけば、オデットはバスティアンと向き合っていた。
肩を掴む大きな手から、暖炉の温もりを忘れさせるほどの熱が伝わる。

「いっそ泣け、オデット。僕の前にひざまずいて、すがりつけ」

噛み吐き出すような命令が、強い酒気をまとった息に乗ってくる。

「それは、難しいかと」

顔を背け、飢えた獣のようにぎらつく青い瞳を避ける。

「すでに、あなたが望む方法で借りを忠実に返しているでしょう」

借り、と問い返す声が低く沈む。

うなじまで広がった熱を見られたくなくて、オデットは彼を突き放し、背を向けた。

だがバスティアンは強引に引き寄せ、その顔を掴んで視線をぶつけてきた。

津波のような怒りが、オデットを呑む。

握っていた札の切れ端を彼の顔に投げつけ、
ありったけの力で暴れた。

振り回した手が頬を打っても、彼は退かない。

一方的な喧嘩は、気力を使い果たしたオデットが倒れ込んで終わった。
傾いた体を、がっしりとした腕が抱きとめる。

我に返ると、彼女は床に倒れたバスティアンの上で、荒い息を喘いでいた。

声にならない悲鳴を飲み込み、オデットは彼を睨んだ。

「あなたも私と同じくらい苦しめばいいのに」

この男への最初で最後の欲望を認めた、その瞬間、
世界は再び、ひっくり返った。

顎を掴まれる。
こじ開けられた唇へ、猛烈な口づけが落ちた。

喉元までこみ上げた泣き声ごと、貪るように奪われていく。

彼を引っ掻き、叩いていた手は、
いつの間にか永遠に届かない光に似た髪を掴んでいた。

熱い息遣いが、冷たい虚無を侵食していく。

なす術もなく巻き込まれ、逃れる道は、見えなかった。

ひどい呪いのような女

先に目を覚ましたのは、バスティアンだった。

床で眠っていたと気づくと同時に、ひんやり柔らかな体温が触れる。

彼に身を寄せて眠るオデットだった。
ゆらめく暖炉の火が、絡み合うように横たわる二人の裸体を染めている。

起こさないよう細心の注意で身を起こし、ガウンを羽織って、眠る彼女を抱き上げた。

もともと丈夫ではない体は、日を追うごとに痩せ細っていた。

ベッドに寝かせ、浴室で湯にひたしたタオルで体を拭き、
布団で包む頃には、夜が明けかけていた。

青い夜明けに染まるオデットを見つめるバスティアンの眼差しに、深い虚無が宿る。

愛が憎しみに変わっても、この女はなお美しかった。

まるでひどい呪いのようだった。

鏡に映る、生傷

淡々と身支度を始めたバスティアンは、
シャワーを終えて鏡の前に立ち、頬の生傷に気づいた。

シェービングクリームを置いた手で、オデットが残した傷をなぞる。

オデットの記憶が少しずつひび割れ始めたことを思うと、
甘美な幻滅がこみ上げた。

落ち着いて髭を剃り、狩猟服を身につけて、
バスティアンはロビーへ降りていった。

電話を使いたいという彼を、
支配人はラウンジ奥の貴賓用休憩室へ案内した。

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