🌹 原作小説『この結婚はどうせうまくいかない』原作をもとに、物語の流れと人物心理を整理しています。会話部分は原作の表現を引用する場合があります。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
——冬。
カルステラに来て、もう三つ目の季節を迎えていた。
気をつけていなければ、自分がどれだけここで暮らしてきたのかさえ分からなくなる。
——「これは、本当に良くない兆候ね」
離婚するための結婚だったはずなのに。
あらすじ|火種はどこにでもある⑮
穏やかな午後、テラスに出たイネスは自分の計画を思い返していた。
子どもを産み、幼子が歩けるようになったら離婚する。
その未来を思い描くたび、以前の彼女は幸福だった。
けれど今は違う。
カッセルが誰かと夕食を囲む姿を想像するだけで、気分が悪くなる。
そこへラウルがショールを持って現れ、カッセルの美点を延々と語り始めた。
いつの間にか、自分の忠実な犬が、カッセル・エスカランテの手先になっていた。
季節の感覚さえ曖昧になる街
陽射しの下でも、空気は少しだけ冷たい。カルステラでは、それだけで真冬だった。
この冬が終われば、四つ目の季節になる。
四季の穏やかなオルテガの中でも、カルステラはとりわけ気候の変化が少ない。だから時折、時間まで止まってしまったような錯覚に陥る。
(もう、こんなにも……)
思いがけず辿り着いたこの街に、自分はあまりにも馴染みすぎていた。
まだ一年も経っていないというのに。
たった一年足らずでこれほど馴染んでしまったのなら、この先、自分はどれほど安逸な人間になってしまうのだろう。
計画は変わっていない……はずだった
もともと結婚生活は四、五年のつもりだった。
妊娠し、子どもを産み、幼い子が歩けるようになるまで。その後、離婚する。
ヴァレスティナではなく、エスカランテの名を残したまま。
離婚した貴族女性にとって、子どもは最後の砦だ。母親として生きるためだけではない。家を失い、夫も失えば、残るのは子どもだけ。それだけが、自分を社会につなぎ止める名札になる。
ハイエナに食われず生きるためには、最後までライオンでいなければならない。
けれど、そのライオンは、一度胸に深い傷を負った。
目を覚まして以来、イネスが望んだのはただ一つ——自由だった。
誰よりも気楽に生き、穏やかに年老い、自然にこの人生を終えること。
離婚後、子どもをエスポーサへ残し、自分だけが去る。
小さな荘園で暮らし、季節ごとに子どもと会いながら、ほどよい孤独を楽しむ。
あとは静かに死を待つだけ。
その未来を思い描くたび、以前の彼女は幸福だった。
それが、ついこの春までのことだったなんて。
「相変わらず、一寸先も分からないわね。イネス・ヴァレスティナ」
目標そのものは、今も変わっていない。
けれど以前のように、その先に何も残らないとは思えなくなっていた。
年月を重ねれば、未練も悲しみも残る。
そして何より——カッセル・エスカランテだけは、何もかも計算外だった。
良くない兆候
一番の誤算は、彼の惜しみない愛情だった。
それを向けられるたび、胸に湧き上がる罪悪感。
罪悪感など、自分には一番似合わない感情なのに。
イネスは頭を振る。
ヒルのように張り付いて離れない、あの弱った表情を追い払うように。
考えるべきは、そんな顔ではない。
あの大きな体。たくましい肩。軽々と自分を抱き上げる腕。競走馬のように鍛えられた太腿。
カッセル・エスカランテは強い。憐れむような男ではない。
莫大な財産があり、人が一つ持てば願いが叶うと思うものを、彼は百も千も生まれながらに持っている。この先どんな人生になろうと、きっと幸せに生きていける。
もっと彼を大切にしてくれる女性と出会って——
「……私にしてくれたように、その人にも」
手すりを握る手に、思わず力がこもった。
以前なら、カッセルが他の女と遊び歩く姿を想像するだけで胸がすっとした。
けれど今は違う。狭い官邸の食堂で、誰かと仲睦まじく夕食を囲む彼を思い浮かべるだけで、どうしようもなく気分が悪くなる。
「……これは、本当に良くない兆候ね」
全部、カッセル・エスカランテのせいだ。
あんなに優しい人は、同じように優しい人と生きるべきなのだから——イネスは頬を撫で、覚悟を決める。
あと何年もここで暮らせば、この生活そのものを手放せなくなるかもしれない。
「……いっそ、早く妊娠できればいいのに」
妊娠さえすれば、四六時中一緒にいる必要はなくなる。何か理由をつけて、ここを離れればいい。
そうすれば、全部楽になるはずなのに。
いくらもらったの?
「大尉様から、何度も念を押されておりますので」
ショールを差し出したラウルは、頼んでもいないのに語り始めた。
イネス様が風邪を召されたら私を許さない、と言われている。
官邸を空ける間も目を離すなと念を押される。
朝は「イネス様は」で始まり「イネス様は」で終わる。
夕方戻れば、尋ねることも最初から最後までイネス様のことばかり——。
まるで商人が商品の売り込みでもしているような口ぶりだった。
イネスは、大通りでスリでも見つけたような目でラウルを見つめる。
「……いくらもらったの?」
「え?」
「エスカランテから、いくら積まれたの?」
滑るように続いていた言葉がぴたりと止まった。
「ひどいです、イネス様。私がそんな人間に見えますか」
「そう思っていなかったからこそ、あなたを信用して屋敷へ入れたのよ」
大尉様は人を金で買うような方では——と言いかけたラウルに、イネスは、私の夫は、この小さな官邸で馬丁から庭師まで味方につけた男よ、と返す。
ラウルは慌てて言い直す。
あの人たちは元々大尉様の部下です、給料を払っているんですから買収とは違います、と。
「大尉様がどれほど私を嫌っておられるか、ご存じでしょう」
(……それは確かに。)
ラウルがイネスの癖を気遣ったり、ドレスの裾を膝をついて直したりするたびに、カッセルは聞こえるように深いため息をつく。今思えば、あの頃から嫉妬は相当なものだった。
「カッセルがあれほどあなたを敵視しているのに。それでも給料のために?」
「そうです」
「マリカ……」
「今、マリカと」
ラウルの声が妙に低くなる。イネスは肩をすくめた。
「あなたまで、カッセルの顔に騙されたのかと思っただけ。だって、カッセルは綺麗だもの」
「それはあんまりじゃありませんか。一発殴られたら吹き飛ばされそうな男を、『綺麗』だなんて」
「綺麗じゃない?」
「イネス様にはそう見えるのでしょう」
エスカランテの犬
「あれだけあなたに冷たい男のために、どうして私にはあの人のいいところばかり話すの?」
ラウルは困ったように目を伏せた。
「私など、どうでもいいんです。イネス様のご主人様にとって大切なのは、イネス様をどう扱うかです。従僕をどう扱うかではありません」
「当然のことを、ずいぶん自己犠牲みたいに言うのね」
「私は犬扱いでも構いません。イネス様が女王様なら」
忠誠心に満ちたその目さえ、今のイネスには裏切りの証に見えた。
いつも自分だけを見ていたラウルが、いつの間にかカッセルの側にも立っている。
それが少し悔しくて、少し寂しくて、少しだけ驚いた。
「カッセル・エスカランテのくせに……ずいぶん人心掌握がうまいのね」
そういえば自分自身も、いつの間にかこの海辺の街へ馴染まされていた。
武装解除された兵士のように。
城壁の中で戦争の存在すら忘れてしまった、愚かな兵士のように。
📖原作3巻9章|火種はどこにでもある
◀ 第9章⑭|これは褒美だ、罰じゃない(前の記事へ)
▶ 第9章⑯|問題がないように見えることが、問題 (次の記事へ)
📖 今回のエピソード対象範囲
| プラットフォーム | 対象話数 |
| ピッコマ・LINE漫画・COMICO | 第47話相当 |
| めちゃコミ | 第48話相当(推定) |