泥の中の愛53|161話 昼と夜の境界線 ─ 平凡な挨拶と、空になった部屋

バスティアン|泥の中の愛53|161話 昼と夜の境界線 ─ 平凡な挨拶と、空になった部屋 原作本編

🌹 本記事は『バスティアン』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。

「行ってきます」

それは、出勤する夫が妻に告げる、
あまりにも平凡な挨拶だった。

けれど、その日の夕暮れ。

バスティアンが帰った屋敷に、オデットの姿はなかった。

「行ってきます」——平凡な日常のように

荒れ狂う波のように始まったキスは、穏やかな水面となって終わった。

かろうじて意識を取り戻したオデットは、
自分の顔を包む大きな手に、震える手を重ねた。

押し返そうとしても無駄だった。
彼は指先に力を込めるだけで、オデットを完全に制圧できる。

いつもこの男はそうだった。
その事実が改めて悲しくなった瞬間、唇が離れた。

頬を包む両手はそのままだったけれど、
もう彼女を縛りつけるような力は残っていなかった。

「行ってきます」

オデットをいっぱいに映す青い瞳は、今日の空のように澄んでいた。
深く見つめても、何も読み取れない。
分かるのは、その瞳に映る自分の途方に暮れた顔だけだった。

目をそらしたオデットの顔を、
バスティアンは手に力を込めて持ち上げ、再び視線を絡めた。

「行ってくるよ、オデット」

出勤する夫と見送る妻の、平凡な日常であるかのように。
ただそれだけであるかのように。

オデットは何も返せなかった。
徐々に赤くなる目で見つめるのが精一杯だった。

——セリフを忘れた俳優のようなその姿を見守っていたバスティアンは、
自ら下がることで相手役の失敗を収拾した。

何事もなかったかのように背を向け、戸惑う使用人たちに黙礼し、車に乗り込む。

クリーム色の自動車が海岸道路に差し掛かるまで、
バスティアンは一度も振り返らなかった。

ドーラの決断

「奥様が外出なさるのですか?」

驚く運転手に、ドーラは用意していた答えを落ち着いて返した。

外出禁止の命令は、とうに形骸化している。
マルグレーテの情報が入るたびオデットを乗せて走り回っても、バスティアンは一度も問題にしなかった。

運転手は、それで疑いを解いた。

トリエ伯爵夫人は、オデットを密かに連れ出すことを望んでいた。
だが、ドーラは別の方法を選んだ。

妻が再び夫から逃げたとなれば、バスティアンの評判をさらに傷つける。
それだけは避けたかった。

そこで考えたのが、自分を利用した筋書きだった。

メイド長と外出したオデットが、市街で「偶然」トリエ伯爵夫人と出会う。
そこで初めて皇帝が離婚を命じていることを知り、バスティアンへの不利益を避けるため、やむなく皇室の庇護下へ入る。

夫のもとを去る事実は変わらない。
それでも、逃亡ではなく「皇帝の介入」という形にはできる。

——今夜、ここを去ることになるかもしれない。

ドーラは、用意しておいた自分の荷物を見つめた。

バスティアンを欺き通せるとは思っていない。
主人を守るための選択であっても、裏切りは裏切りだ。

責任を問われるなら、甘んじて受け入れるつもりだった。

オデットの荷物は、洋服数着を詰めた小さなかばん一つ。
それを大きな買い物かごの中に隠した。

「これで準備は整いました。参りましょう」

寝室から現れたオデットの目元は、
夫を見送った朝からずっと赤く染まっていた。

それでも、その眼差しはいつにも増して毅然としていた。
買い物かごを一瞥すると、何も言わず先頭に立って歩き始める。

目的地は、アルデンヌ市街の繁華街。

——作為的な偶然が起こる、この演劇の最後の舞台だった。

空になった部屋

バスティアンは昨日と同じ時刻にアルデンヌに到着した。

昼と夜の境界。
金色に熟した日差しが沈み始める時間だった。

出迎えの列に、オデットの姿はなかった。

「誠に申し訳ございません、ご主人様」

沈痛な面持ちの執事に、バスティアンは感情のない目を向けた。

「晩餐の準備は整っていますか?」

「トリエ伯爵夫人が奥様をお連れになりました。当面の間は皇室が奥様を保護するとの通告を残されたとのことです」

トリエ家の紋章の封筒を受け取ったバスティアンは、何も言わずロビーに入った。
中央の階段を上がり、妻の部屋のドアを開ける瞬間まで、堅固な沈黙を守り通した。

状況を説明しようとする執事を遮る。

「下がってください」

主のいない部屋の静寂が、深まった。

視線の届くすべてが、きちんと整っていた。

度が過ぎて生活感がない——だが、オデットの部屋は元々こういう姿だった。
その事実にふと虚しさを感じ、バスティアンは少し笑った。

——いつもこうして生きてきた女だった。
いつでも去る準備をして。しばらく滞在していくだけの、客人のように。

——ただいま。

一日中、舌の先にあった挨拶を飲み込んだ。

バラ色に染まった部屋の窓を開け、海を渡ってきた風の中でトリエ伯爵夫人の手紙を読む。

長々とした経緯の果てに伝えたいのは一言だった。
皇帝の命令を履行したので、受け入れるように。

オデットもまたそれを望んでいると。

手の込んだ脚本。
思ったより周到な準備だった。

手紙を無造作に折りたたんでコンソールに放り、バスティアンは煙草を取り出した。

罪人と、最後の晩餐

「ドーラです。ご主人様にお話ししたいことがあります」

三本目の煙草を取り出しながら、バスティアンは入室を許した。

「すべて、私の過ちでございます。ご主人様の処分に従う所存です」

鉄の鎖をつけた罪人のような足取りで近づき、深く頭を下げるメイド長。バスティ
アンは窓枠に寄りかかって煙草を吸いながら、その姿を見守った。

裏切られたのに、怒りはなかった。

自分を守るためにこれほど尽力するドーラが気の毒でもあったが、
その憐憫すら長くは続かなかった。

——バスティアンは疲れていた。今はただ、休みたいだけだった。

「食事は30分後に、私の部屋でとりましょう」

「ご主人様……」

「それで十分だ。もう下がってくれ」

ドーラのすすり泣きを気にかける余裕は、もう残っていなかった。

自室で服を着替え、冷たい水で立て続けに顔を洗う。
黄昏の中、窓の前に立ったバスティアンは、明かりを灯した父の世界を眺めた。

——オデットの安全は保証された。

もう何の心配もなく、最後を準備すればいい。

明確な目標で雑念を払い、バスティアンは食卓に着いた。

晩餐のために用意された料理を、
最後の一口まで残さず食べた。

🌹 更新情報は @koyakoya0515 でもお知らせしています

📖 前の記事
泥の中の愛52|160話 フィナーレ

📖 次の記事 【泥の中の愛】
泥の中の愛54|162話 静かな日々 ─ 春のロスバインと、


🌹 原作『バスティアン』を読み進める
バスティアン|原作ガイド

登場人物一覧と相関図

🌹ロゼのひとこと

……バスティアンは

ただ言いたかった。
「行ってきます」と告げた妻に、帰宅して
「ただいま」と。

— ロゼ 🌹

【免責事項】

※翻訳方針については当サイトの翻訳・引用ポリシーをご確認ください。
※本記事は作品のテーマを考察するものであり実在の行為を推奨・肯定する意図はありません。
※作品の引用・翻訳は著作権法の範囲内で行い、引用元を明記しています。
※本記事は作品内容の分析・評論を目的としたものであり、原作の翻訳全文を掲載するものではありません。