📖 作品の読み方はこちら→ 泣いてみろ、乞うてもいい ガイド
🌹 本記事は『泣いてみろ、乞うてもいい』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。本文中の会話・心理描写・印象的な表現については、原作の表現を適宜引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
決定は、マティアスに
大奥様は、ビル・レマーを不憫に思っていた。
事故とはいえ、自分は大怪我をしたわけではない。
温室が壊れたことは残念だが、長年アルビスに仕えてきた庭師を刑務所へ送ったところで、失われたものが戻るわけでもない。
だが、エリーゼの考えは違った。
発電機の爆発で温室は壊れ、大奥様は負傷した。
何より、クロディーヌが結婚式を挙げたいと望むほど愛していた場所でもある。
「このような先例を残しては、アルビスの秩序がきちんと保たれないでしょう」
その言葉には、大奥様も反論しきれなかった。
やがて深いため息をつき、ひとつの結論を出す。
「マティアスの結論に従う方が最も良いのではないかと思っているのだが。
このアルビスの主人は他でもないマティアスではないか」
エリーゼも、最後には頷いた。
ビル・レマーを許すのか、罰するのか。
その決定は、アルビスの主人——マティアスに委ねられた。
「レマーさんのおかげで」
離れ家の応接室に入った時、マティアスは電話をしていた。
随行人がレイラの到着を知らせると、彼はちらりと彼女を見て、下がるよう目配せする。
通話は壊れた発電機の修理についてだった。
やがて受話器を置き、マティアスがレイラへ体を向ける。
「忙しくなったな」
そして何の感情も見せず、付け加えた。
「レマーさんのおかげで」
「座れ」
レイラは震えながら首を横に振った。
——少なくとも、話を聞くつもりはある。
その希望だけに縋って、彼女は一歩近づいた。
「申し訳ありません。本当に……本当に申し訳ございません、公爵様」
深く腰を折る。
だがマティアスは、わけが分からないという顔で彼女を見た。
「なぜ君が謝罪する?」
「ビルおじさんを……どうか一度だけお許しください」
レイラは冷や汗に濡れた両手を握りしめた。
ビルは決して故意に事故を起こしたのではない。
電気も発電機もよく理解せず、ただあの騒音を嫌って薪を積んだだけなのだと、必死に説明する。
何度も声を詰まらせながら、それでも言葉を繋いだ。
「ビルおじさんが……どうして大奥様に、そしてあの温室に害を与えることを考えることができるでしょうか?」
マティアスは遮らなかった。
ただ静かに、最後まで聞いていた。
「たったこれだけの言葉で償うことのできない過ちだとは分かっていますが、どうか一度だけ……どうかビルおじさんをお許しください」
握りしめた両手は、血の気を失って青白い。
「レイラ」
名を呼ぶ声は、低く優しかった。
「つまり君の言うことは、ビル・レマーを善処してくれということか?」
自分では到底口にできなかった願いを、公爵が代わりに言ってくれた。
レイラは涙を飲み込み、頷いた。
「お前は何だ?」
「善処か」
マティアスの視線が、ゆっくりとレイラを辿った。
警察署まで走ったせいで土埃に汚れた古い靴。
黒いストッキング。濃い灰色のスカート。チェック柄のコート。
そして、その下から覗く赤いセーターとブラウス。
——見覚えがある。
秋のピクニックの日。
車に轢かれたあの夜、自分の手で脱がせたブラウス。
校長から紹介された雑貨店の息子と並んでいた時も、同じ服だった。
「私が、なぜ?」
レイラは、何を言われたのか理解できなかった。
「一体なぜ、ビル・レマーを善処しなければならない?」
マティアスが立ち上がる。
「発電機は爆発した。もう少しで祖母は命を落とすところだった。温室は無残に壊れた」
一つ事実を告げるたびに、一歩ずつ距離が縮まっていく。
「この甚大な損害が全てビル・レマーのせいだというのに、善処? なぜだ?」
「公爵様、どうかお願いします」
「君が懇願すれば、あの全ての過ちを私は善処しなければならないのか?」
長い人差し指が、ブラウスの襟をゆっくりと撫でた。
——そして
「お前は何だ?」
レイラの顔から、すべての色が消えた。
力を込めたわけでもない。
冷淡に吐き捨てたわけでもない。
それなのに、その声はひどく残酷だった。
「言ってみろ、レイラ」
顎に触れた一本の指が、容易に顔を持ち上げる。
溜まっていた涙がはらはらと零れ、彼の指を濡らした。
「一体、お前は何だ?」
消された秋
過ぎた季節は、一人だけの夢だったのだろうか。
レイラは、一生懸命マティアスを見つめた。
フィービーを生かしてくれたこと。
怪我を手当てしてくれたこと。
軽い冗談を交わしたこと。
あの夜、自分が泣き止むまで抱いていたこと。
これまで知らなかった彼の姿を見るたび、レイラは戸惑った。
恐ろしいだけだった男を、時折じっと見つめるようにもなっていた。
レイラは、その秋を確かに覚えている。
けれど目の前の男の瞳は、
そんな時間など最初から存在しなかったかのように無関心だった。
「ペン一本さえ、ただでは受け取らなかったあの高潔なお前が、このような一方的な要求をするのはあまりにも厚かましいのではないか?」
もう、すすり泣きを止められなかった。
それでもマティアスは、何も聞こえていないかのように静かだった。
取引
「私は割に合わない商売はしない」
「公爵様、どうか……」
「残念ながら、お前の哀願や涙など、ビル・レマーが犯した罪と交換するに足る価値はない」
レイラの顔が青ざめる。
「公爵様、私たちは、到底それを弁償することが……」
「弁償とは違うだろう、レイラ」
マティアスは静かに訂正した。
「取引は、相手が欲しがるものを与えて、お前が欲しいものを手に入れることだからな」
顎を掴み、値踏みするようにレイラを見つめた。
「そういう取引なら応じてやるつもりもある」
「……取引ですか?」
「そうだ。取引だ」
その視線の意味を悟った瞬間、レイラは弾かれたように後ずさった。
素直に彼女を解放したマティアスは、何事もなかったようにソファへ戻った。
「そんなことはできません!」
レイラは、怒りで震えていた。
「公爵様はクロディーヌお嬢様とご婚約されています。
お二人はすぐに結、結婚なさるのでしょう!」
「だから何だ?」
レイラの涙で濡れた手をハンカチで拭いながら、
マティアスは退屈そうにさえ見える顔で答えた。
その眼差しには、何の呵責も遠慮も見当たらなかった。
果てしない暗闇
電話が鳴った。
マティアスは先ほどと変わらない仕草で立ち上がり、受話器へ手を伸ばす。
「どちらでも、好きにしろ。決定はお前がするのだから」
そして最後に告げた。
「心が決まったら言え。お前の意向を喜んで尊重してやるから」
「行け」
それで終わりだった。
マティアスはレイラに背を向け、何事もなかったように祖母の容体について話し始めた。
まっすぐで優雅な姿勢。
穏やかな声。
完璧な立ち居振る舞い。
そこにいるのは、ただのヘルハルト公爵だった。
——レイラ・ルェリンなど、敢えて何かであることもできない人間。
別邸には明るい光が灯っている。
それなのに、レイラの目の前には果てしない暗闇しかなかった。
二階から船着場へ続く屋外階段の途中で、ついに力が抜けた。
凍った川から反射する冷たい月光の中、レイラは小さく身を丸める。
一人で見ていた夢から、
ようやく目が覚めた。
美しくも、残虐な悪夢だった。
◀66話 |壊れた天国|その光に向かって、走り始めた (前の記事へ)
▶68話| やらなきゃな、何でも|逃げる鳥の、翼を引きちぎる (次の記事へ)
【免責事項】
※翻訳方針については当サイトの「翻訳・引用ポリシー」をご確認ください。
※本記事は作品のテーマを考察するものであり実在の行為を推奨・肯定する意図はありません。
※作品の引用・翻訳は著作権法の範囲内で行い、引用元を明記しています。
※本記事は作品内容の分析・評論を目的としたものであり、原作の翻訳全文を掲載するものではありません。