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🌹 本記事は『泣いてみろ、乞うてもいい』原作をもとに、高解像度あらすじ形式で構成しています。会話部分は原作の表現を引用しています。
※ネタバレ注意:ここから先は、重大なネタバレを含みます。
アルビスの子
少なくとも四日はかかると見ていた日程が、一日早く終わった。
マーク・エバースは疲れた溜め息をつき、ホテルロビーの椅子に深くもたれた。
一日を縮めるため、公爵は過去三日、休む間もなく動き続けた。
今日の昼食会が、公式日程の最後だった。
この都市の名士や貴族からの招待は殺到したが、公爵は残りの一日をきれいに空けておいた。
その空白を何で埋めるつもりか、悟るのに時間はかからなかった。
——レイラ。
またしても、その名前。
今朝、公爵は彼を呼び、簡潔な命令を下した。
アルビスへ車を送り、レイラをここへ連れてくること。
それだけだったが、マーク・エバースは主人があえて表に出さぬ意図まで理解していた。
——この件を、いつまで隠し通せるだろうか。
ビル・レマーがどれほど鈍くても、
大切な養女の秘密をいつまでも知らずにいるはずがない。
二人の奥様方とブラント令嬢も、同じだった。
だが最近の公爵を見ると、その不安すら少しおかしく思えた。
いつからか公爵は、レイラをあえて隠す気のない人のように振る舞っていた。
この種の事が珍しくないとしても、醜聞の主が他ならぬヘルハルト公爵なら話は違う。
完全無欠な生き方にあえて傷をつけるような態度など、
彼の知るマティアス・フォン・ヘルハルトではあり得なかった。
——まあいい。公爵を心配するのもおかしい。
この件で最も大きな傷を負うのは、まさにレイラだというのに。
——本当に隠す気がないのなら、あの子を一体どうするつもりなのか。
華やかな金箔の柱を過ぎた視線が、真冬でも瑞々しい観葉植物の鉢で止まった。
ヘルハルト家の使用人にとって、レイラはすなわちアルビスの子だった。
ただの庭師が引き取った孤児に付けるには大げさな言葉なのに、
なぜか当然のように受け入れられていた。
——恐らく、レイラほどアルビスを愛した子がいなかったからだろう。
庭園と森、川辺と野原を駆け回って育った子。花の庭や森の小道を素早く走る彼女に出くわすと、
妖精に出会ったような気分になることもあった。
——カイルのような良い夫を得て幸せになるかと思えば、
あの子の人生は、相変わらず本当につらい。
その一因に自分が大きく加担しておきながら、こんな憐憫を抱くのは、おかしなことだが。
「よく覚えておけ、エバース。判断は我々の役目ではない。」
従僕に抜擢された日、執事室でヘッセンが短く重く念を押した。
その意味を、マーク・エバースは良く分かっていた。
昼食会を終えた一団がロビーへ歩いてくると、
彼はすっと立ち上がり、公爵の傍らへ寄った。
小ぎれいな装いとは裏腹に、近くで見た顔には微かな疲労が滲んでいた。
「車は昼食会の前に出発いたしました。ティータイムの頃には戻るかと。」
声を潜めて報告すると、公爵は軽く頷いた。
睡眠不足のせいか、目元の赤みが濃い。
「車が戻りましたら客室へご案内いたしますので、それまでお休みになっては。」
丁重な勧めに、公爵は素直に応じた。
数日の強行軍にも、その真っすぐな姿勢は少しも乱れない。
レイラについて巡らせた様々な思考が、マーク・エバースはどこか面目なく思えた。
——ヘルハルト公爵は、ただヘルハルト公爵だった。
既に生き方のすべてに、骨の髄まであの名が刻まれているであろう男。
彼にとってレイラがどんな意味を持つのかを考えるのは、
少し悲しく、憂鬱でさえあった。
「ああ。エバース。」
客室の戸の前で、公爵が再び口を開いた。
「一つ、頼みがあります。」
極めてヘルハルト公爵らしい優雅な仕草で、彼は振り返った。
急いで連れてこい、と
窓の外を見つめるレイラの顔は、冷たく固まっていた。
予想外ではないが、いざ自分の目で確かめると、更に呆れ果てた。
「あの……レイラさん?」
時間を確かめた運転手が催促した。
「最大限に早く」という命令を、マーク・エバースは特に強調していた。
だが、変数はレイラだった。
小屋の庭先で一歩も動く気のない子と揉めるうち、時間はかなり遅れた。
公爵の渡した手紙がなければ、任務を果たせなかったかもしれない。
——あれほど頑なだった子が心を変えるほど、あの手紙に何が書いてあったのか。
湧いた好奇心も、長くは続かなかった。
「最大限に早く」という命令に、ひたすら焦るばかりだった。
「レイラさん?」
もう必死の思いでその名を呼ぶ。
「ごめんなさい、おじさん。」
小さく詫びたレイラが、ガタンと助手席のドアを開けた。
このまま逃げるのではと、彼は大慌てで車を降りた。
幸い、レイラはその場に立ち、ホテルを見上げているだけだった。
「クルークさん!なんでこんなに遅……」
駆け寄ったマーク・エバースは、言葉を途中で失い、口をぽかんと開けた。
この寒い冬に、レイラはコートもなく、ショールを一枚羽織っただけの姿だった。
しかし、煤の付いたエプロンに比べれば、それすら何でもなく思えた。
「まさか。」
驚愕する彼から、運転手はそっと視線を逸らした。
「ルウェリンさん、とりあえずはお着替えを……」
「ここなのですか?」
ホテルを見るレイラの目は細められていた。
「ここに行けば良いのですか?」
再び問うその眼差しは、頑固だった。
「そうですけど。」
「では、行きます。」
レイラは毅然として歩み出した。
「まさか、その格好で?」
呆然とする間に、レイラはずんずんと入口へ向かう。
急いで追った彼は、自分のコートを脱いでレイラを包み、応急処置をした。
様子を伺っていたドアマンは、マーク・エバースと目が合うと、
どうしようもないという態度で扉を開けた。
きらびやかなロビーで、レイラの姿は一層異質に際立った。
身を震わせながらも、レイラは引き下がらない。
——最大限に自然に、何ごともないように。
ちらつく視線を努めて無視し、マーク・エバースは巧みにレイラをエスコートした。
お前のこういうところが、好きだ
「エバースです、旦那様。」
ノックの後、低く告げる声に、室内から返事があった。
ソファに半ば寝そべっていたマティアスが、ゆるゆると目を開けた。
「どうぞ。」
その低い声には、微かな眠気が混じっていた。
背を伸ばし、顔を撫でて眠気を払う間に、客室の戸が開く。
顔を上げると、男のコートに身を固く包んだレイラが、目の前に立っていた。
「私はこれで失礼いたします。」
おどおどしたマーク・エバースは、避ける道を選んだ。
「あの、エバースさん。」
背後の澄んだ声が、立ち去りたい彼を引き止めた。
コートを脱いで手にしたレイラだった。
「ありがとうございました。」
近づいてコートを渡す態度は、極めて丁重だった。
「どういたしまして、ルウェリンさん。」
微笑んで応え、マーク・エバースは静かに客室を出た。
彼の姿が消えると、レイラは渋々振り返った。
じっと見つめる公爵の眉間が、徐々に歪んでいく。
「お気に召さなくても仕方ありません。暖炉の掃除をしていたのですから。」
頬が火照ったが、レイラは頭を真っすぐ上げてその視線に耐えた。
「『急いで連れてこい』とおっしゃったので、命令に従っただけです。」
向こう見ずな口調とは裏腹に、声は細く震えていた。
マティアスはソファの肘掛けに斜めにもたれ、顎を支えてレイラを見つめた。
半ばほどけてぼさぼさの髪、煤のたっぷり付いたエプロン。
その下の皺だらけの茶色のワンピース、毛糸の靴下、染みの付いた野暮ったい革靴まで、ゆったりと眺めたマティアスは、フッと意図せぬ笑みを漏らした。
期待した反応ではなかったのか、レイラの肩がビクリと動く。
気だるい体を起こし、彼は棒のようにこわばって立つレイラの前へ近づいた。
「お前のこういうところが、実に好きだよ、レイラ。」
一歩分の間隔を空けて、彼は立ち止まる。
近くで見たレイラの顔は、ひときわ澄んだ光を帯びていた。
眼差しは荒々しかったが、マティアスはその点もかなり気に入っていた。
「いつも若干の破格さがあって面白いから。」
「面白いですか?こんな事が?」
レイラは、ここへ来る間ずっと握りしめていた皺だらけの手紙を、公爵の前に突き出した。
さらりと見て、マティアスは何ともなく頷いた。
「ああ。」
気前よく答えた彼は、赤くなったレイラの頬を優しく撫でた。
「綺麗だよ。」
にこりと笑う彼を見るレイラの目は、今や露骨な怒りの光で輝いていた。
だが、久しぶりのレイラは美しく、
その目に込められた感情が何であるかは、彼にとって大して重要ではなかった。
「触らないで!」
震えるレイラは、彼の手を荒々しく突き退けて後ろへ下がった。
手放した手紙が、応接室の床に落ちる。
思わずひるんだのを隠すように、レイラは頭を一層堂々と上げて公爵を睨んだ。
「脅迫をしておいて、どうして笑ってそんな事が言えるのですか?」
「脅迫?」
落ちた手紙を見た公爵が、不思議そうに聞き返した。
取り繕う気配のないその態度が、レイラを一層呆れさせた。
「はい! 脅迫ですよ! あなたがその手紙に書いた、あの卑劣な脅迫のことです!」
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